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大江健三郎 『大江健三郎 作家自身を語る』 ( 聞き手・構成:尾崎真理子/新潮社、2007年)
大江健三郎が50年間の作家生活をインタビューで語っている自伝。
普段の生活、他の作家(および作品)との交流、小説の創作過程など、好奇心を満たしてくれる話がいろいろ出てくる。
「 私は自分という人間には魅力がないと、知っていましたよ。国民学校といった小学校の一年になって、近所の子供たちと一緒にランドセルを背負って学校に行きますね。その際、友達を見て、本当にこいつは子供らしい愉快さや美しさを持ってるな、と私は思った。自分はもうすでに自意識的で、子供らしい自然な魅力がないと失望していました。
(中略) しゃべり方や歩き方までそうです。実に自然なところのない子供だった。その思いが今に続いています。 」(p159)
というような、本人自身について本人自身でも自覚している、大江作品の主人公にも共通する、「奇妙な滑稽さ」(p158)が、話の随所からにじみ出ている。
いろいろ興味深い話は出てくるけど、中でも、興味深いけどなかなか知る機会のない、各作品が生まれた経緯とか創作過程が明かされているところはおもしろい。
特に、作品中にも引用されているダンテやブレイクなどの詩(およびその日本語訳)との関わり方の、深さと特異さ、そして、それらの詩の人生における位置付けの大きさには驚く。
完成度の高い一級の詩にはそれだけの噛み応えもあるのだろうから、それとともに人生を歩むというのは、自分の“自然な”感情の流れと豊かに寄り添っていくことであり、実に楽しそうだ。
「 私はやはり詩人に対する信仰を持っているんですね。本当の詩人は、かれが生きている間に、生きていくこと自体に対する結論を、言語で表現する人だと思います。 」(p201)
「 書き始めると、(中略) 挿話にふさわしいブレイクの詩がすぐさま浮かんでくる。今は記憶力が衰えましたが、あの頃は、ブレイクの詩を百行ほどならいつでもそらで引用できたと思います。 」(p168)
そんな、いわば“詩的人生”には、( 楽しそうなのに自分ができないこともあって)憧れる。
大江健三郎の小説は、まだ読んでないのがけっこうあることだし、どっかに篭って何にも邪魔されないで、既読のものも含めて改めて最初の作品から全て読み通したいと思った。(無理だけど)
というか、そもそも大江健三郎の小説は、(初期以外の作品も含めて、)そんな余裕のある精神状態で読む小説ではない気もするけど。
それにしても、この自伝にしても、“遺作”『さようなら、私の本よ!』にしても、既発表小説の豪華版の発売にしても、最近の大江健三郎の、作家としての仕事を総括するような活動の首尾の良さには、焦燥感に駆られながらカタストロフィを待望していた(ように見受けられた)大江健三郎からは想像もできない安楽感を感じる。
最期まで不器用にあがくより良いことなんだろうけど、正直、予想外ではある。( どんな人にも光が注ぎ得るという明るいニュースでもあるわけだけど。)