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京極夏彦 『鉄鼠の檻・分冊文庫版(一)(二)(三)(四)』 (講談社文庫、2005年)
謎の寺で起こる禅僧連続殺害事件の謎に迫るミステリー小説でありながら、初心者にも分かるように禅の何たるかを教えてくれる1300ページ超の力作。いわば、『ダ・ヴィンチ・コード』の禅版。(というのは、さすがに、ミステリー小説をほとんど読まず、宗教にも無知な人間の短絡か?) ちなみに、タイトルは「てっそのおり」と読む。
初めての京極夏彦だし、かなり長いし、最後まで読めるか不安だったけど、おもしろくて、読み甲斐もあって、難なく最後まで読めた。
Amazonの文庫版のレビューを見ると、「禅のことはよく分からないから置いといて、ミステリーとしてはいまいち」という感想が多い。
確かに、最後の種明かしのところは、それまでの物語の展開のさせ方(のレベルの高さ)からすると、作り込みが浅くて期待はずれの感はある。
だけど、事件のトリックとか犯人の動機とかキャラクターのおもしろさとかに重きを置いて読むのは、この小説の味わい方としては一面的すぎる。
なぜなら、この小説は、ただのミステリー小説ではなくて、文学的・哲学的な小説だからだ。
具体的に言うと、まず、禅とは何かについて直接的な説明で伝えるだけでなく、物語全体を含めて、禅的な要素や構成が各所に散りばめられている。
特に、禅とは全く無縁である登場人物が、現実世界について・人生について悩んだ挙句、禅的な“小さな悟り”を得ていくという展開は、まさに知識として与えられた禅のさり気ない応用・実践例となっている。そして、これは様々な登場人物に当てはまっている。
この、物語の展開とともに進んでいく“禅的深化”(あるいは、“檻”からの脱出)とでも名づけられる各人の変化、そして、そのプロセスの緊張感溢れる詳細な描写は、世俗の世界や人生に関する問題の禅的な解決の道筋を大胆に示していて、この小説の醍醐味の1つとなっている。
これは、この小説における禅の適用範囲の横への広がり(非禅僧・世俗世界への適用)という効用をもたらしている。
他方、この小説は、禅に関する基本的な知識を教えるだけでなく、禅に関する難しい問題にも挑戦している。
例えば、「宗教は大衆を救済するべきはずなのに、禅僧が寺にこもって修業し続けるならそれはただの自己満では?」という禅と社会との関係に関する問題や、「以心伝心、教外別伝である禅における言葉の位置付けとは?」という禅と言葉に関する問題や、「悟りは脳波によって測定・解明できるか?」という禅と科学に関する問題などである。
これらによって、この小説における禅の(あるいは人間の哲学的・実存的問題の)扱いに際しての深みが増している。
こうして、この小説は、禅的要素が“幅広く”かつ“奥行き深く”使われている、したがって、禅の世界に止まらない世俗の世界や人生に関係する問題が深く問い詰められている、文学的な小説になっているのである。
さて、それで結局、禅とは何なのか?
「分かった」と思って口に出した途端に逃げていく類いのもののようだし、実体験が伴わないから、何とも言えないけど、話の終盤近くに出てくる(したがって、若干だけどネタバレでもある)部分がもっとも自分には分かりやすかった。
「 生き乍(なが)らにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ 」(第4巻・p88)
これだけ見ると「何のことやら」という感じがするかもしれないけど、「 〔悟りは〕修業の終着点ではあり得ない 」(第2巻・p304)、「 生きることが即ち修業であり、生きていることが悟り〔である〕 」(第2巻・p305)といった他の説明とも合わせて考えると、それなりに理解できるような気がする。
禅は、神秘体験のような非日常的な契機を否定したり、他者を巻き込まずあくまで個人的な生のあり方として存在していたりと、他の宗教とは異なっているところが多々あるようである。
とはいえ、やはりそこは宗教、よく分からないところはもちろんある。