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森鴎外 『山椒大夫・高瀬舟 他四篇』 (岩波文庫、1938年)
表題作の「山椒大夫」、「高瀬舟」を読んだ。
「山椒大夫」は(やや曲解だけど)女性たちに守られている男の子が自立した大人の男へと踏み出していく過程を、「高瀬舟」は幸福とは何かを問いながら積極的安楽死の如何を、それぞれ描いている。
文体・内容ともに余計なものがなく素朴であるため、静かでもの悲しい雰囲気が醸し出されている。まさに“文豪”による名文・名作といった感じ。
「高瀬舟」は1916年の作品だが、今でも安楽死問題を論じる際にしばしば言及される。
けれど、鴎外自身は、「 死に瀕して苦しむものがあったら、らくに死なせて、その苦を救ってやるがいいというのである。これをユウタナジイ(※euthanasie)という。らくに死なせるという意味である。高瀬舟の罪人(※安楽死を手伝った人)は、ちょうどそれと同じ場合にいたように思われる。 」(p126)と書いている。
この「苦しみから逃れるため」という理由付けは、現在からすると素朴すぎて論拠としてあまりに弱い。
死期が近い、治療が不可能といった条件への注意のほか、自己決定権や尊厳死といった理念による正当化があって初めて安楽死は社会的・法的議論として力を持ってくる。
であるならば、「高瀬舟」は、現在の安楽死問題に対する含意は大して大きいとは言えない。現在の基準から言えば、「殺人」としてあっけなく処理されてお仕舞いである。
とはいえ、深読みすれば、自殺し損ねて死にそうな弟を安楽死させた兄が、実に軽い心持ちで島流しされ、新天地での生活に心躍らせている“安楽”な様子(pp113-115)は、現在における積極的安楽死の問題を先取りしているようにも見えて恐ろしい。