忍者ブログ
by ST25
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 高橋昌一郎 『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性(講談社現代新書、2008年)

 理性の限界に至っていることが理性的に分かっている話を様々な学問分野から持ってきて対話形式で説明している本。

 具体的には、
「選択の限界」としてコンドルセの投票のパラドクスやアローの不可能性定理や囚人のジレンマを、「科学の限界」としてハイゼンベルクの不確定性原理やEPRパラドクス(量子論)を、「知識の限界」としてゲーデルの不完全性定理や神の非存在論などを、取り上げている。

 この手の「理性・論理の限界」の話を1冊で読めてしまうのはありがたい。

 これも、社会科学から自然科学、数学まで、「理性・論理の限界」として括れる話を全て語れる著者のおかげ。ちなみに、そんな著者は哲学者・論理学者。

 対話形式も、“先生と生徒”みたいな単純なありがちな形ではなくて、色々な分野の学者、会社員、学生、運動選手といった多彩な顔ぶれが一堂に会していておもしろい。中でも、カント主義者がいい味出してる。

 とはいえ、様々な工夫や努力にもかかわらず、全くの初心者がどこまで理解できるかはちょっと怪しい気もする。

 というか、自分は、二重スリットをすり抜ける量子論のイメージが分からずじまいだった。文字でいくら説明されても難しいんじゃないかと思う。それから、不完全性定理もついていけないところがいくつかあった。

 でも、どれも直感に反する知的興奮を味わえるおもしろい話であって、完全には理解できなくてもその端緒は感じることができる。そして、さらに色々読み進めてみたいという気になる。

PR

 谷川俊太郎 『詩ってなんだろう(ちくま文庫、2007年)

  詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかないと思った著者 (裏表紙)が、小中学生でも読めるように作った(編集した)本。

 わらべ唄やかぞえ唄から、翻訳詩、現代詩まで、実にバラエティに富んだ(分かりやすく)楽しい詩がたくさん収録されている。そして、それらに著者が一言ずつ楽しさを煽るコメントをしている。

 あらゆる詩の技巧(やり方)、詩の楽しさが網羅されていて、詩入門に最適。

 解説で華恵が言ってるような、不自由で説明的でつまらない詩の授業を受けたりして詩に否定的な印象を持ってる人が読むと、解放されるかもしれない。

 もちろん、それでもよく分からない意味不明な詩ってのは世の中にたくさんあるだろうけど、とりあえず、詩の楽しさがどういうところにあるのかを知る一歩としては優れてると思う。
 
 
 ちなみに、収録されてる詩の中で一番好きなのは、国木田独歩(1871-1908)の「沖の小島」っていう作品。

沖の小島に雲雀(ひばり)があがる
  雲雀すむなら畑がある
  畑があるなら人がすむ
  人がすむなら恋がある

 イメージとか世界が次々広がってく伸びやかな感じが好き。思えば、天地創造の情景にも似てる気がする。( だからどうしたって話だけど。)
 
 
 それから、思わず「おぉ!」と思ったのがこれ。

すきじゃないわ
  きらいよ
  でーとなんて
  するもんですか (p68-69)

 ツンデレをここまで簡潔に表現しえてるものって、他にないと思う。ちょっと言葉使いが古いけど、傑作。( ちなみに、一文字目の“縦読み”ってやつね。)


 木田元 『木田元の最終講義――反哲学としての哲学(角川ソフィア文庫、2008年)
 
 
 大学退官時に行われた最終講義(とその補説)および最終講演を収録したものの文庫化。

 最終講義では、ハイデガーの『存在と時間』を読みたい一心(p11)で大学に入ったという著者の学究人生を振り返りながら、ハイデガー哲学の大枠を色々な逸話を交えながら話している。

 ちょっとした自叙伝でもあり、一人の哲学研究者の読書遍歴や思考遍歴を知ることができるという点ではおもしろい。ただ、ハイデガーの哲学の中身についてはかなり簡単な説明で済まされていて、これだけではよく分からない。それから、〈存在=生成〉と見る日本と〈存在=被制作性〉と見る西洋で根本的なものの見方・考え方が違うという結論的な主張は、そんなに根本的に違うとは思えない。違いはあるにしても誇張しすぎだと思う。

 最終講演では、エルンスト・マッハの「現象学」の概略とその多方面にわたる影響をこちらも色々な逸話を交えながら話している。

 マッハの現象学的な考えは、非主流的な科学観・哲学観のようでありながら(だからこそ)、アインシュタインをはじめとする様々な人たちに影響を与えていることに驚いた。
 
 
 哲学って、こういう啓蒙書とか入門書とかで読むとすごくおもしろそうなんだけど、いざ実物に当たってみるとさっぱり意味が分からなかったりするのがヤダ。( 最も近い挫折は、アドルノ=ホルクハイマー。3回くらい挑んで毎回同じ箇所(たしか30~40ページくらい)で挫折した。)


 栗山民也 『演出家の仕事(岩波新書、2007年)
 
 
 新国立劇場演劇研修所の所長であり演出家でもある著者が、これまでの様々な作品や人との交流を通じて獲得してきた、演出するための(あるいは、演劇においての)心構えを、様々なエピソードを交えながら語っている、エッセー風の演出家入門。

 個人的に興味があった、演劇における演出家・脚本家・役者の間の責任や役割に関する(外部からみて感じる)曖昧さという問題に関しては、あまり応えてくれてはいなかった。

 けど、それより、演劇に限らず他の全ての文化・芸術作品も(本来)持っている(はずの)、“内的深さと外的広がり”の存在・可能性を感じ取らせてくれ、演劇に関係・興味のない人が読んでも楽しめるものになっている。
 
 
 演劇に関してのスタンスでは、演出家であれ役者であれ、あらゆるものに対して心を開き、あらゆるものと対話することの重要性が特に強調されている。すごく真っ当なことではあるけれど、言うは易し行うは難し、ではある。ただ、その方法論については、(教科書ではないから)当然ながら、語られていない。
 
 
 また、役者育成法や劇場事情など、外国の演劇事情もたくさん紹介されていて興味深い。質はどうあれ、演劇に対するヨーロッパの観客の“是々非々”なスタンスは羨ましい。
 
 
 こういう視野や問題意識の広い人が作る作品には興味をそそられる。( 現実はそんなに甘くはなかったり(=作品はつまらなかったり)するものだけど。)


 開高健 『パニック・裸の王様(新潮文庫、1960年)
 
 
 1950年代後半に書かれた、今に通じる現代社会の病理を捉えた4つの中篇小説からなる。
 
 
 大衆社会と組織社会(官僚制化)。この現代社会の特徴を、個々別々にこまごまと追究するのではなく、「大衆vs.大衆」、「大衆vs.官僚組織」という対決の形(それはネズミの大群と人間たちとの対決という形でなされる)でダイナミックに描き出すという独創的なアイディアが光る『パニック』は傑作。この作品では、大衆たるネズミの大群が最終的に迎える結末、大衆たる一般市民たちの迷走、役人たちのネズミの大群問題への取り組み姿勢や対処法など、どこを取っても大衆的、組織的行動のオンパレードで、現代社会を隠喩的に見事に凝縮した小説になっている。滑稽で(ちょっぴり刺激的で)おもしろい。
 
 
 始皇帝による秦国建設という壮大な歴史的事業を、歴史モノさながらの雄大な筆致で描きながら、組織社会・官僚制化の特徴や弱点を浮き彫りにした『流亡記』も傑作。
 
 
 社会によって成型された大人と自由な感性を内に秘めた子供との静かな闘いを描いた『裸の王様』は、平凡だし、理想論により過ぎている。
 
 
 会社組織やそこで行われる競争の病理や虚しさを描いた『巨人と玩具』は、平凡でありきたり。現実そのまま過ぎて面白みがない。
カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[10/20 新免貢]
[05/08 (No Name)]
[09/09 ST25@管理人]
[09/09 (No Name)]
[07/14 ST25@管理人]
[07/04 同意見]
最新トラックバック
リンク
プロフィール
HN:
ST25
ブログ内検索
カウンター
Powered by

Copyright © [ SC School ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]