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 庄司薫 『赤頭巾ちゃん気をつけて(中公文庫、1973年)
 
 
 久しぶりに読み返してみた。青春小説の最高傑作。1969年の作品。

 これぞ“男の子”。

 理想と現実との間で、社会正義と自分自身のこととの間で、ホンネとタテマエとの間で、感情と理性との間で、性欲と理性との間で、葛藤し、(現実のどうしようもない自分に)打ちのめされ・・・。 それでも、開き直らずに健気に生真面目に頑張ろうとし・・・。 やっぱり、打ちのめされ・・・。

 世の男性というのは全てこういうコト・内的体験へのその人なりの反応の結果だとさえ、自分には思える。
 
 
 それにしても、確かに、現実、自分自身のこと、ホンネ、感情、性欲というのは強固な実在ではあるのだけど、それでも、理想、社会正義、タテマエ、理性といった虚妄のようなものの存在によってこそ、あるいは、その実在と虚妄との間の葛藤によってこそ、なんとか、社会は危ういバランスや健全さを保つことができているのではないだろうか。

 実在にだけ生きたり、虚妄を実在だと思いだしたり、実在と虚妄との葛藤の存在を忘れたりしたら、その社会やその人は危ういと見るべきだろう。
 
 
 戦後民主主義を生きる男の子の想いと行動を描いた傑作。

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 大江健三郎 『治療塔(講談社文庫、2008年)
 
 
 20年近く前に書かれた大江健三郎のSF小説。

 とはいっても、SF的な設定・話は最初と最後(特に最後)に出てくるだけで、多くはそれとはあまり関係ないところで話が進んでいく。
 
 
 1986年のチャレンジャー号爆発事故とウィリアム・イェーツの詩から主要なイメージを得、小説の中でも重要なものとして登場してくる。

 そんな道具立てを用いて描かれるのは、宇宙開発競争や階級分化に代表される科学主義や資本主義という現代社会の進化の方向と、それとは反対の「人間主義」(とでも呼びそうなもの)や自然主義との相克。そして、全編を通してその描写の中に、人類に対する「悲しみ」が漂う。

 ただ、宇宙開発、科学主義、階級、工業化といった色々な問題の一つ一つは簡単かつ典型的に描かれる程度で、何らかの主題が深められることはない。ほとんどは、主要登場人物の頭や小さな集団の中というミクロなレベルで自己完結していて、社会とか科学といった外部のもの(≒SF的設定)との対話は行われていない。

 そのため、著者がこの小説で描こうとしている科学主義や資本主義の(過度の)深化に対する否定的な感情・主張(と再生への希望)は、全く説得的なものになっていない。

 で、結局、(文庫化のために付されている著者自身による「感想」でも強調されている)「悲しみ」、の雰囲気を味わうだけの小説。

 大江健三郎 『小説のたくらみ 知の楽しみ(新潮文庫、1988年)
 
 
 1983~1984年に雑誌に連載されていたエッセーを集めたもの。

 創作法、読書法、作家論、日常生活、昔の話などについて率直に(しかし下品にならずに)語られていて、楽しく読める。

 この作家の初期の作品のイメージからは想像できないくらい、過剰な自意識といったものは見られない。

 そして、プロの作家が他の作家をどう見て、小説をどう読んでいるか、あるいは、自身の作品をどのように考えて創ったのかといった、一般読者にとっては非常に興味深いけど当人としては話しにくいだろうことを包み隠すことなく開陳してくれている。

 その具体的な内容は、特別講義のために滞在していたアメリカでのこと、選考委員を務めていた芥川賞のこと、(おなじみの)エリアーデやブレイク評、(珍しいし意外な)ヴォネガットやケルアック評など。

 これらに自身の経験や自身の作品の話などが結び合わされている。

 実際、読んで(読書の手引き以外)特に何を得られるということもないけど、読んでるときは楽しい時間を得られる本。これぞエッセー(集)の効用。

 清水義範 『早わかり世界の文学――パスティーシュ読書術 (ちくま新書、2008年)
 
 
 タイトルから想像されるような教科書的に世界の文学を解説している本ではなく、小説・文学のおもしろさをエッセー風に綴っている本。(実際、若者向けの講演3本とその補論から成っている。)

 語られるのは、模倣(パスティーシュ)、人間理解力や論理的思考力の涵養、作文・創作の方法、世界十大小説、ユーモア、といった視点から。

 これらの視点自体も正しいものではあるけど、何より、そうして語られる小説や有名文学作品が(全てではないにしろ)魅力的でおもしろそうに思えるところが素晴らしい。(例えば、『坊ちゃん』が次男かどうかなんて小説の本筋とは関係なく、どうでもいい。)

 中でも、「私が決める世界十大小説」は一作品一作品の紹介は短いながらその魅力が見事に伝わってきて、どれも(多くは初めて、いくつかは改めて)読んでみたくなった。

 それから、著者自身が書いた本も読んでみたくなった。(追記@3.23:思ったほどおもしろくなかった。)
 
 
 前回取り上げた『シェイクスピアのたくらみ』(岩波新書)も、同じ文学作品の読解本であって、しかも視点の正しさという点も同じだった。だけど、作品のおもしろさが伝わってくるか否かという点ではすごく対照的だった。

 視点が正しいだけではダメでその対象のおもしろさを如何に伝えるかが重要だなぁ、なんてことを本の感想を書き散らしている者としては改めて考えさせられた。(言うは易し行うは難し。)

 そして、学校教育の作者名と作品名(とせいぜい粗筋)を覚えさせるだけの文学史なんてまーったく意味ないなぁと思った。例えば、1918年に米騒動があったことを覚えておくと色々と思考と想像が広がるけど、トーマス・マンという人が『魔の山』という小説を書いたというのを覚えていても思考と想像は広がらない。

 それにしても、自分にとって読書とは学校で学んだことを否定する営みなんじゃないかと、けっこうマジメに思ったり・・・

 喜志哲雄 『シェイクスピアのたくらみ(岩波新書、2008年)
 
 
 シェイクスピアの19作品を登場人物と観客の距離という観点から読み解いている本。

 そこから見えてくるのは主に次のような理解。

シェイクスピアは特定の人物の肩をもったり、特定の主張を支持したりすることを、徹底的に避けているという事実である。シェイクスピアは、どれほどの悪人でも全面的に否定したりはしないし、どれほどの善人でも全面的に否定したりはしない。 (p4)

 (古今東西相当な研究の蓄積があるだろう)シェイクスピアの専門家のくせにこの程度の浅い(素人でもできそうな)読解なのか、という軽い失望感はある。

 とはいえ、この理解自体は正しいと思う。(例えば、「ヴェニスの商人」のユダヤ人シャイロックの描き方。)

 ただ、この本からは、作品のおもしろさ、著者の高揚感がまったく伝わってこない。

 つまり、この読解を知ったところでシェイクスピア作品をさらにおもしろく楽しめるようになることもないし、この本を読んだところでシェイクスピア作品をおもしろそうだと感じることもない。

 著者が目をつけたポイントがおもしろさに大いにつながってると思うだけに、残念。
 
 
 なにはともあれ、シェイクスピアの全戯曲は40くらいしかないし、その上一つ一つは短いから、少しずつ読み進めていつかは読破したい、との思いを新たにした。

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