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倉橋由美子 『暗い旅』 (河出文庫、2008年)
過去を回想しながら失踪した彼を追う旅を続ける「あなた」を描いた、1961年の恋愛・青春小説。
全てを分かり合え好きなはずの彼との間では性交による交わりを許すことができず、行きずりの相手となら誰とでも性交することが許せてしまう女性。その女性が、愛とは何か、本当の自分とは何か、という答えのない問題の答えを見つけるべく(、あるいは、見つからないことは分かりつつ)、さまよいの旅を続ける。
主人公の女性を「あなた」と呼ぶ語り手は、心の中の全てを見通し、表面を取り繕うだけの主人公の女性に、そして読者に、冷ややかに鋭く突き刺すように語りかけてくる。
「本当の愛」なんてものはない。「本当の自分」なんてものもない。その虚しい生を悲劇のヒロイン/ヒーローとして生きられる者のみ(愚か者は除く)が、人生をそれなりに楽しく生きられる。
つまらない小説。
唐沢俊一 『トンデモ一行知識の逆襲』 (ちくま文庫、2004年)
『トリビアの泉』の生みの親とも言える唐沢俊一による、色々な一行知識とそれにまつわる雑文を収めたもの。
一行知識もさることながら、そこに付された雑文も、カルピスウォーター批判など、なかなかおもしろかった。
一行知識で特に好きなのは、「節足動物史上、重要な映画」と「ナカヤマ・マリコさん」。どっちも普段の生活で使う場面はまずないだろうけど。
いくら105円とはいえなんで買ったのかよく覚えてないし、いくら寝る前のひと時とはいえなんで読み始めたのかよく覚えてないけど、まあまあおもしろい時間を過ごすことができた。
宗田理 『ぼくらの奇跡の七日間』 (ポプラ社、2008年)
名作『ぼくらの七日間戦争』に始まる「ぼくら」シリーズの最新作。
登場人物たちを一新させ、新たな中学生たちによる新たな物語の始まり。(ほんの一部、旧作を思い起こさせる人が出てくるけど。)
しかしながら、著者の力の衰えは更に加速している。
内容はスカスカだし、話が重複してたり、話にまとまりがなかったり、話が完結してなかったり、完成度も相当低い。
最初期の作品のパワーや独創性がないのは言わずもがなだけど、それが如実に表れてしまっていた近作の『ぼくらの第二次七日間戦争グランド・フィナーレ』(徳間文庫)とか『再生教師』(同)と比べても、さらに格段につまらなくなっている。
魔法使いとか謎の病気とか(ご都合主義で)ファンタジックな道具を使わざるを得なかったのも、著者の力の衰えを端的に表している。
引き際とかその状態にあった創作とかを著者に助言するものはいないのだろうか。
「ぼくら」シリーズが好きでこれを読んだ子供ががっかりすることが一番悲しい気がする。
小林多喜二 『蟹工船・党生活者』 (新潮文庫、1953年)
現代日本の状況と共通点があるということでけっこう話題になっている作品。(「蟹工船」の方が。)
プロレタリア文学を代表する小説。「蟹工船」(全文)は1929年に、「党生活者」(全文)は1932年に書かれている。著者の小林多喜二は1933年に警察での拷問により29歳で死んでいる。
「蟹工船」は、北の厳寒の地で蟹を獲り加工までする船(蟹工船)の中という閉塞的な状況下で限界まで酷使される労働者たちの惨状と目覚めを描いている。
確かに、ある大義の下、大企業や国によって労働者が酷使され搾取されて辛い状況にあるという相当大雑把な枠組みでは現代と共通しているかもしれない。
けれど、あくまで「相当大雑把な枠組みで」にすぎず、「取り立ててこの作品が」ということは全くない。
ブームとはそんなものなのだろう。
けれど、いずれにしても、これだけ酷い労働の惨状を描いた作品が(社会に出ていない学生以外にも)ある程度の共感を受けるということは、それなりの土壌があってこそであることは間違いない。
この事実に気付かせてくれるヒントはこの小説には書かれていない。そして、この事実をどう受け止めるべきか?も80年前に書かれたこの小説には書かれていない。
なお、この「蟹工船」はプロレタリア文学だけあって社会主義を理想化しているところがある。けれど、この作品で描かれるのは、限界まで追い込まれた人間の自然的反応として十分にあり得るものであるから、その主義主張に関係なく誰であっても正面から受け止めるべき小説になっている。
ちなみに、労働者の惨状を描いた「蟹工船」は、兵隊の惨状を描いた野間宏『真空地帯』と似ている。また、共産主義へ向けての非合法な政治活動を描いた「党生活者」は、民主主義へ向けての非合法な政治活動を描いたジョージ・オーウェル『1984年』と似ている。
酒井若菜 『こぼれる』 (春日出版、2008年)
グラビアアイドル/女優の酒井若菜が書いた小説。
酒井若菜は、ブログを見る限り、確かに色々物事を(「自然と」ではなく「自力で」)考えてる方だし、文章も上手い方ではあるから、エッセーとか自叙伝とかなら「十分あり」だとは思ってたけど、まさか小説を書くとは。 (ちなみに、小説みたいな創作物でも行けそうなアイドルとしては、小明、松嶋初音、喜屋武ちあきなんかが挙げられる。)
それで、この『こぼれる』っていう小説だけど、アイドル/女優が書いたものとしてはかなり良くできている。細かいところまで楽しませようという心配りが行き届いているし、終わり方もなかなか上手いし、何より、一つの作品としてよくまとまっている。
けれど、「アイドルが書いた」という点を考慮しなければ、“ただの三流小説”と言わざるを得ない。
例えば、全体の構成・主題・内容は、どれも、三浦しをんの『私が語りはじめた彼は』(新潮文庫)に似ていて、しかも、それを100分の1に薄めたみたいな感じで、独創性、新鮮味、深みがない。
また、個別のところでも、例えば、そもそも全くもって良い子/良い夫である二人が「好き」というだけで不倫をした理由が(話はこの不倫を軸に進んでいくにもかかわらず)不明だったり、不倫された妻が不倫相手の女の子が実は自分のことを一番よく理解し思いやってくれているという結論に至って女の子を赦したりするんだけど、だったら最初から不倫なんかしないからと突っ込みたくなるのが自然だけどそのことには触れられてなかったり・・・。
その他にも、作者に都合のいい「奇跡・偶然」の類がしばしば登場してくるのは、いかにも素人っぽい。
とはいえ、(普段本を読まない人とか意識的な読書をしてない人とかなら特に、)これらに気づかずに読みきってしまうことも十分に可能なくらいには、完成されていて一つの作品としてよくまとまってはいるわけだけど。
ただ、「あとがき」は、無知で浅薄な素人・門外漢であることがあからさまに出ていて読むに耐えず、憤りさえ感じる(ところがある)。
「結局何が言いたかったのか、というと、
もう人の悪口は嫌だ。
ということだけです。
テレビに映る売れっ子タレントを見れば、「この人もう飽きたよね」。ドラマや映画の中にいる二枚目俳優を見れば、「恥ずかしくないのかね」。まともな批評ができないから、とりあえず否定する。そして笑う。で、最後に落ち込む。自分が同じことをされたら傷つくくせにと。現に、私自身、何度も嫌な思いをしてきました。私でさえ、です。にもかかわらず、人の悪口は平気で言えました。人をさげすみ自分を保つ。なんというくだらなさ。一面しか見ていないくせに、お恥ずかしい。 」(p260)
まず、悪口を言う人はサイテーという“悪口”になっている。
しかも、「悪口」と「批評」とが違うことを知らないようで、批評さえも「悪口」と言うことで批評する人(多くの消費者)を貶めている。
(特に)文化・芸能・芸術という分野に生産する側(評価される側)として関わる人間が、「批評するな(「悪口」言うな)」というなんて、あきれる。 (「我が社の商品に文句言うな!」と公言する企業があるだろうか?)
例えば、「この人もう飽きた」というのは、その人が変わりばえのしないつまらないこと(芸)を続けていることから生じる率直な感想なのに、それを(感想を)言う側の問題にするのは責任転嫁も甚だしい。
世間知らず、プロ意識の欠如。
どれも、この2点から発すると思われる。