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酒井若菜 『こぼれる』 (春日出版、2008年)
グラビアアイドル/女優の酒井若菜が書いた小説。
酒井若菜は、ブログを見る限り、確かに色々物事を(「自然と」ではなく「自力で」)考えてる方だし、文章も上手い方ではあるから、エッセーとか自叙伝とかなら「十分あり」だとは思ってたけど、まさか小説を書くとは。 (ちなみに、小説みたいな創作物でも行けそうなアイドルとしては、小明、松嶋初音、喜屋武ちあきなんかが挙げられる。)
それで、この『こぼれる』っていう小説だけど、アイドル/女優が書いたものとしてはかなり良くできている。細かいところまで楽しませようという心配りが行き届いているし、終わり方もなかなか上手いし、何より、一つの作品としてよくまとまっている。
けれど、「アイドルが書いた」という点を考慮しなければ、“ただの三流小説”と言わざるを得ない。
例えば、全体の構成・主題・内容は、どれも、三浦しをんの『私が語りはじめた彼は』(新潮文庫)に似ていて、しかも、それを100分の1に薄めたみたいな感じで、独創性、新鮮味、深みがない。
また、個別のところでも、例えば、そもそも全くもって良い子/良い夫である二人が「好き」というだけで不倫をした理由が(話はこの不倫を軸に進んでいくにもかかわらず)不明だったり、不倫された妻が不倫相手の女の子が実は自分のことを一番よく理解し思いやってくれているという結論に至って女の子を赦したりするんだけど、だったら最初から不倫なんかしないからと突っ込みたくなるのが自然だけどそのことには触れられてなかったり・・・。
その他にも、作者に都合のいい「奇跡・偶然」の類がしばしば登場してくるのは、いかにも素人っぽい。
とはいえ、(普段本を読まない人とか意識的な読書をしてない人とかなら特に、)これらに気づかずに読みきってしまうことも十分に可能なくらいには、完成されていて一つの作品としてよくまとまってはいるわけだけど。
ただ、「あとがき」は、無知で浅薄な素人・門外漢であることがあからさまに出ていて読むに耐えず、憤りさえ感じる(ところがある)。
「結局何が言いたかったのか、というと、
もう人の悪口は嫌だ。
ということだけです。
テレビに映る売れっ子タレントを見れば、「この人もう飽きたよね」。ドラマや映画の中にいる二枚目俳優を見れば、「恥ずかしくないのかね」。まともな批評ができないから、とりあえず否定する。そして笑う。で、最後に落ち込む。自分が同じことをされたら傷つくくせにと。現に、私自身、何度も嫌な思いをしてきました。私でさえ、です。にもかかわらず、人の悪口は平気で言えました。人をさげすみ自分を保つ。なんというくだらなさ。一面しか見ていないくせに、お恥ずかしい。 」(p260)
まず、悪口を言う人はサイテーという“悪口”になっている。
しかも、「悪口」と「批評」とが違うことを知らないようで、批評さえも「悪口」と言うことで批評する人(多くの消費者)を貶めている。
(特に)文化・芸能・芸術という分野に生産する側(評価される側)として関わる人間が、「批評するな(「悪口」言うな)」というなんて、あきれる。 (「我が社の商品に文句言うな!」と公言する企業があるだろうか?)
例えば、「この人もう飽きた」というのは、その人が変わりばえのしないつまらないこと(芸)を続けていることから生じる率直な感想なのに、それを(感想を)言う側の問題にするのは責任転嫁も甚だしい。
世間知らず、プロ意識の欠如。
どれも、この2点から発すると思われる。