[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
尾崎士郎 『人生劇場〈青春篇〉』 (新潮文庫、2000年)
1933年に新聞に連載され、その後、川端康成の書評をきっかけにベストセラーになった小説。
学生が大きな顔をして歩いていた時代の、バンカラ学生とその周辺の人たちの波乱万丈な生き方を描いている。
その生き様は、勇ましくも無謀で義理と人情に流されすぎて暑苦しくも爽やかである。
この「青春篇」では、主人公の青成瓢吉よりも、侠客・吉良常や青成の同級・夏村大蔵の方がいいキャラをしていて目立っている。
ちなみに、その熱血漢・夏村大蔵はこんなことも言っていたのであります。
「 女のことでくよくよするやつに天下はとれんぞ! 」(p299)
「 ――女にほれられるようなやつに天下はとれんぞ、おれを見ろ! 女にほれられたことが一ぺんでもあるか? 」(p301)
この小説は、確かに、最後まで飽きることなく読み通せるだけの物語上のおもしろさはあるのだけれど、「大小説」(川端康成)とか「大河教養小説」(関川夏央)とか言うほどではない。 今となっては、かつての時代を味わう以上の意味はない。
村上春樹 『アフターダーク』 (講談社文庫、2006年)
ある日の深夜から夜明けまでの、いろいろな人々の姿を描いている小説。
夜、刻一刻と時が過ぎていく様は、あたかも“闇と光の攻防”であるかのように見える。
そして、その“闇と光の攻防”は人々の中でも繰り広げられている。
その闘いの結果は人それぞれだ。
光を見出せず闇へと落ちて行く人、闇へと落ちて行っていることに気づいてさえいない人、闇の中で生きていくことを受け入れている人、(闇の中を)闇からひたすら逃げ続けることを選んだ人、光を見出し闇から抜け出し始めた人・・・・。
外にも内にも闇だらけの世界にあって、光として提示されているのは、過去の記憶、だ。
もはや今という現実の中には(、あるいは未来には)光はないとも言えるが、「記憶」という燃料を燃やすことで照らし出される今という現実は、光に満ちているとも言える。
ただ、いずれにせよ、なんとも心許ない光しか存在しない世界を描いていることに変わりはない。
とするならば、「アフターダーク」というタイトルや「マリ」の結末といった個別の情報から想起されるところより、作品全体から感じる暗い雰囲気の方が、この小説の内容を適切に表していると言える。
しかし、闇の象徴としてやくざ・マフィアを用いていて「闇」の描写が単純すぎたり、「光」の描写が簡単すぎて説得力に欠けたり、作品としては凡作。
平野啓一郎 『小説の読み方――感想が語れる着眼点』 (PHP新書、2009年)
小説を分析する視点をいくつか提示し、それを用いていくつかの作品を解剖している本。
提示されている視点は、「究極の述語への旅」、「期待と裏切り」、「述語に取り込まれる主語」など。
解剖されている作品は、オースター『幽霊たち』、綿矢りさ『蹴りたい背中』、エリアーデ「若さなき若さ」、古井由吉『辻』、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』、美嘉『恋空』など9作品。
提示されている視点は、まとまりがなく雑然としている気がするけど、「ああなるほど」と思うものもあるし、「そんなの誰でも気づくだろう」というものもある。 それから、さすがは小説家だけあって、「究極の述語」とか「述語に取り込まれる主語」とかいう表現は上手い。
ただ、最大の問題は、この本を読んでもその中で解剖されている小説を読みたいという気にならないこと。( あるいは、一度読んだ小説の新たな魅力に気づくことがないこと。ちなみに、オースター、綿矢、エリアーデは既読だった。) これは、逆から言えば、ここで提示されている視点では小説のおもしろさを伝えることはできないということを物語っている。
この本の副題は「感想が語れる着眼点」だけど、「小説を(小難しく)分析すること」と「読み終わった後の感想を表現すること」とは、まったくの別物だ。 残念ながら。 文学者がちゃんと働いてこなかったから。
この本が行っているのは、前者の「小難しい分析」でしかない。
思えば、エリアーデを「個人的に好き」という、芥川賞を受賞するようなプロの小説家が、そもそも『蹴りたい背中』とか『恋空』とかを本当におもしろいと思っているのだろうか? もし、思っていなくて、批判してやろうとも思っていないのなら、何も伝わらないのは当たり前だ。
重松清 『くちぶえ番長』 (新潮文庫、2007年)
普通の弱い小4の男の子ツヨシと、転校早々「番長になる」と自分から宣言した強くて優しい女の子マコトの、一年間の話。
うれしいとか、悲しいとか、怖いとか、はずかしいとか、痛いとか、かっこいいとか、好きとか、悔しいとか・・・・・、人間にとって基本中の基本のいろいろな気持ちをシンプルに表現してくれている。
小説入門として、人間というものの教科書として、子供に何度も読ませたくなるような良作。
村上春樹 『海辺のカフカ(上)・(下)』 (新潮文庫、2005年)
閉じた世界。 それは閉鎖的な世界ではない。 円環的な世界のことだ。 つまり、空間的に、ではなく、時間的に閉じた世界だ。
抜け出せない円環。 抜け出せない定め。 日々の退屈な日常という円環。 学校、あるいは、会社で。 猫を殺し続けるという円環。 そして、母・姉と交わり父を殺すという定め。
その世界では、身体から離れた人々の魂が、行き交い、惑わし、誘い、導く。 あるいは、実体とは別の観念的客体が実体を装って、行き交い、惑わし、誘い、導く。
閉じられていない、永遠の別世界(ユートピア)へ逃げ出すことへの誘惑もある。
しかし、「 世界でいちばんタフな15歳 」になると決めた少年は、自らの力でその閉じられた円環の中で生きていく強さを身に付ける。 そして、その閉じられた円環は、『地獄の黙示録』でウィラード大尉がカーツ大佐を殺したように、鉈(なた)のような大きな包丁で断ち切られる。
傑作。
話としてもおもしろい上、内容的な深みもある。