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ダン・ブラウン 『ダ・ヴィンチ・コード(上)・(中)・(下)』 (越前敏弥訳/角川文庫、2006年)
言わずと知れた超大ヒット作の文庫版。キリスト教の知られざる歴史をめぐるミステリーとハラハラドキドキのサスペンスが上手い具合に融合されていて、なかなかおもしろかった。
ミステリーもサスペンスも片方だけだったら二流といったところだけれど、両方が綺麗に合わさることで十分に評価できる作品になっている。
とはいえ、著者の作家としての構成の巧みさやセンスの高さは随所で感じることができる。
しかし、それにしても、最後の終わり方は、それまでの話の展開から期待させるものとの落差が大きいし、話の途中で受けたインパクトよりも随分と小さい衝撃しかないし、不満が残る。
それから、各巻とも300ページ弱で文字も大き目なら、単行本と同じように上下の2巻にできなかったものか。
ところで、5月に公開される映画版の予告編はとてもおもしろそうなものだった。果たして原作を読んでいてどこまで楽しめるか。
エドワード・ドルニック 『ムンクを追え!』 (河野純治訳/光文社、2006年)
「『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日」という副題の通り、1994年にスウェーデンで盗まれたムンクの『叫び』の奪還に成功したイギリスの捜査官チャーリー・ヒルによる囮捜査の様子を、取材を基に再構成したドキュメンタリー。ただ、この話が中心ではあるけれど、美術犯罪や絵画にまつわる逸話がたくさん盛り込んであって、こちらの方もなかなかおもしろい。
全人類の財産であり厳重な警備が敷かれているだろう傑作がなぜいとも簡単に盗まれてしまうのか、そして、その盗まれた作品はどういう人の手元に渡っているのか、という疑問を昔から持っていた。それでこの本を読んでみたわけである。
この二つの疑問について、捜査・捜査官を主題に当てたこの本ではそれほど詳しくは答えてはいないけれど、ある程度は答えてくれていた。
答えだけを簡潔に言えば、まず警備に関しては、美術作品の警備はどんな傑作であっても意外なほどに手薄であることが結構あり、被害に見合う保険がかけられていないことも多いとのことである。実際、この本が描いた一度取り返されたムンクの『叫び』は2004年にまた盗まれている。
それから、盗まれた作品の流通に関しては、犯罪に関わっている作品をほしがる金持ちは実際のところほとんどおらず、窃盗犯は盗んでから処理先を探し、麻薬などの代金として流通したりして粗雑な扱いを受けることも多いとのことである。
それはさておき、この本は、人物の描き方にしても、数多くの逸話にしても、著者の力のお陰でおもしろい「読み物」になっている。事実や豆知識を叙述するだけでもなく、物語を追うだけでもなく、両者のバランスが適度に測られている。美術犯罪という分野は、ほとんど何も知らない分野であるだけに、この知識と物語との適度なバランスはとても嬉しく、心地良ささえ覚えた。
よくこんなマイナーな本(たぶん)を訳して出版したものだ。
アンドレ・ジイド 『狭き門』 (川口篤訳/岩波文庫、1937年)
お互いに愛し合うジェロームとアリサの悲劇的な愛の物語。悲劇をもたらすのは神。それは信仰とも、徳とも言い表される。アリサを愛することによってこそ聖なる心=徳へと到ると考えるジェローム。一方、徳と愛とが相矛盾するものだと思い煩うアリサ。
そんな二人が紡ぐ、ジェロームとアリサの間の葛藤、ジェロームのアリサの行動がもたらす不安による葛藤、アリサの中の愛と信仰との葛藤というそれぞれが織り成す緊張状態が物語を進めていく。
題名の「狭き門」は聖書の次のような一節から取られたものである。
「 力を尽くして狭き門より入れ。滅(び)にいたる門は大きくその路は広く、之より入る者はおほし。生命にいたる門は狭くその路は細く、之を見出すもの少なし。 」(p25)
この「狭き門」を通った先にあるのがアリサだとジェロームは考える。そして誠実にアリサだけを想う。しかし、その「門」は思いのほか狭かった。
確かに二人はお互いに強く愛し合っている。
しかし、ジェロームの情熱的な愛情は、特に婚約の申し込みに関しては、一方通行的な様を呈するのだ。
そんなアリサの物語中に見せるやや不可解にも思える行動の真相は、最後に付録のように付けられている「アリサの日記」を読むことでかなり明らかになる。そのうちの一つだけを引用しておこう。
「 はしたない私の心が願っていた、余りにも人間的な喜び(※信仰とは反する愛のこと)よ・・・。主よ!あなたが私を絶望の淵に陥れたのは、この叫びを挙げさせるためだったのでしょうか? 」(p195)
この叫びの、なんと危ういことか。ほとんど神を捨て去らんばかりのものである。
この小説では、「力を尽くして狭き門」へと入ろうとするジェロームとアリサの気持ちと行動が見事に表されている。特に、主人公兼語り手であるジェロームの若々しくひた向きな愛と不安は上手く表現されている。それだけに、宗教や神について色々感じさせる。否定的に。
ウィリアム・ゴールディング 『蝿の王』 (平井正穂訳/新潮文庫、1975年)
「少年たちの乗っていた飛行機が、(中略) 南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へと駆りたてられてゆく・・・。少年漂流物語の形式をとりながら、人間のあり方を鋭く追究した問題作。」という裏表紙の文章は、この小説の適切な紹介である。
この小説は1954年に書かれたイギリスの小説家ゴールディングのデビュー作である。その後、1983年にゴールディングはノーベル文学賞を受賞している。
「自分の頭の中に、世の中の人々、ないしは、その人々が織り成す世の中がどのように映っているかを知りたければこの本を読んでくれ!」と言いたくなるくらいに、この小説(の特に前半)は、弱くて暴力的で醜くくて単純な人間(心理)を上手く描いている。
それは、文中のささいなところに表されている。それらは本来、ストーリーの流れの中に位置付けられてこそ、その意味が明らかになるものであるから、部分だけを取り出しても分かりにくいのだが、いくつか挙げてみる。
一つは、島に着いて初めてそこにある山の頂上に登ったときの少年たちの描写。
「 眼を輝かせ、口を開け、意気揚揚として、彼らはいま自分たちの手中におさめた支配権を味わっていた。みんな心が浮き浮きしていた。 」(p45)
初めて山頂に来た開放感や喜びの表現と共に、「支配権」という暴力的な要素をさり気なく入り込ませている。
もう一つは、少年たちによる集会での話し合いの場面。
「 ラーフ(※主人公)はいらだった。そして、ふっと、ある敗北感に襲われた。はっきりつかめない何ものかに直面していることを、直感した。自分を食い入るように見ている相手の眼には、ユーモアはなかった。
(中略)
自分にも思いもよらなかったある感情が、胸中に生じてきて、彼は、問題を大声で繰り返し明瞭に指摘せざるをえない衝動を感じた。 」(pp57-58)
敗北感を強権的な大声での主張に転嫁している。感情に従う人間の、醜い心の中が表されている。
もちろん、他の要素もこの小説の人間描写を光らせるのに一役買っている。
無人島で生活を送るのが子供で、しかも男子だけであるという設定は、この小説の主題(※小説中の言葉で言えば、(人間の中の)「野蛮と文明」になるのだろうが、現代では政治的な意味合いが強くてぴったりではないようにも思える。)をよりはっきりさせるのに役立っている。
また、蛇のような動きをする獣や、豊かな果実を少年たちが貪り食うことや、罪の意識など、キリスト教的な隠喩も随所に散りばめられてこの小説に深みを与えている。
他にも、主人公とその仲間を簡単に善や正義と割り切ることはできない点や、「蝿の王」が出てくる神秘的な場面など、考える余地のあるおもしろいところは色々とある。
しかしながら、いずれにせよ、自分がこの小説にリアリティを感じて恐怖を覚えるのは、主人公をも含むほぼ全ての少年たちが見せる凶暴性や残虐性が、“狂気”のために姿を見せるのではないことによると思われる。いわば、人間の暴力性は生来のものなのだ。言い換えれば、暴力が(も)“自然”ということになる。
こんなところに、自分が近代主義を支持し、文明を擁護する理由もある。
ロマン・ロラン 『ベートーヴェンの生涯』 (片山敏彦訳/岩波文庫、1938年)
クラシック(音楽)は、大ヒットしたCD「ベストクラシック100」を聴くくらいなものなのだが、ベートーヴェンの「第九(交響曲第九番合唱付)」だけは例外的に偏愛している。いろいろな指揮者のものを聴き比べたりするくらいに好きだ。フルトヴェングラー、カラヤン、カール・ベーム、サイモン・ラトル、小沢征爾などだ。ちなみに、今まで聴いた中で一番好きなのは、レナード・バーンスタインのもの。(→CD〈1979年、ウィーン・フィル〉。)
そんな「第九」好きな自分からすると、この本で小説家でもあり歴史家でもあるロマン・ロランによって描かれるベートーヴェンの生涯は、非常に共感できるものだった。
というのも、数々の苦境と自己の精神との相克の歴史であるベートーヴェンの人生は、「第九」における色々経て最後の至上の歓喜に向かっていく曲の流れと似ているからだ。この類似性を表現するロランの叙述は見事である。
「 あの心を酔わせる終曲(フィナーレ)こそは、打ち倒された自分自身の身体の上に、勝ち誇って光明に向かって立ち上がる、解放された魂以外の何者であるか?」(p158)
さて、そんな卓越した表現者ロランは、彼自身ベートーヴェンによって「救われた」と述べている。そして、冒頭、次のように読者に語りかけている。
「 ここにわれわれが語ろうと試みる人々の生涯は、ほとんど常に永い受苦の歴史であった。悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的なまた精神的な苦痛、病気や不幸やの鉄床(かなどこ)の上で鍛えようと望んだにもせよ、とにかく彼らは試練を日ごとのパンとして食ったのである。そして彼らが力強さによって偉大だったとすれば、それは彼らが不幸を通じて偉大だったからである。だから不幸な人々よ、あまりに嘆くな。人類の最良の人々は不幸な人々と共にいるのだから。その人々の勇気によってわれわれ自身を養おうではないか。 」(p17)
そして、ベートーヴェンの人生こそがこの呼びかけに対する最上の答えを示してくれている。
その詳細はここには書けないが、一つだけ思ったことを書いておきたい。
それは、苦悩に満ちたベートーヴェンの最高傑作だと多くの人が認めるところであろう「第九」が、彼の人生の最終盤に作られたということ。
数多くの天才の中でも「特に天才」と言われる芸術家は、若いうちにその才能の片鱗を見せるだけでなく、若いうちにその最高傑作を生み出していることが多い。
しかし、人生の最後に最高傑作を生み出したベートーヴェンは、確かに天才であったことも間違いないにしても、天賦の才能だけで作品を創造したのではなく、彼に降りかかった数々の運命・境遇によっても作品を創造したということを表している。人間的な弱さをもった、いわば人間臭い天才なのだ。この人間味の普遍性こそが現代に至るまでベートーヴェンが万人に受け入れられてきた理由であるように思える。
そんな、自己の苦境と自己の音楽との関係が深いベートーヴェンの苦悩の意志を表す彼自身の言葉を一つ。
「 「忍従、自分の運命への痛切な忍従。お前は自己のために存在することをもはや許されていない。ただ他人のために生きることができるのみだ。お前のために残されている幸福は、ただお前の芸術の仕事の中にのみ有る。おお、神よ、私が自己に克つ力を私にお与え下さい!」 」(p42)
ベートーヴェンは辛い運命であった。そして、悩み苦しんだ。しかし、最後に「歓喜の歌」を完成させた。そんなベートーヴェンの生涯を見事に表すベートーヴェン自身の言葉がこの本のフィナーレを飾っている。
「 「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」 」(p68)
ただただかっこいい。