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 カレル・チャペック 『山椒魚戦争(栗栖継訳/岩波文庫、1978年)
 
 
 山形浩生による書評で知って読んだ。

 おもしろい。

 B級小説みたいなタイトルだけど岩波文庫に収録されている古典的SF小説。「ロボット」という言葉を作ったチェコの作家によって1936年に書かれた。

 知性の少し発達した山椒魚を見つけ、各国が争うように単純労働に使っていたら、徐々に増殖し、知能も人間に近づいてきて、ついには山椒魚によって人間が支配されてしまうという話。

 市民(平民)もしくは労働者階級が権利などを獲得していく“革命”(市民(民主化)革命 or 共産主義革命)、および、植民地争奪戦を繰り広げる“帝国主義的時代状況”の寓話的な表現になっている。

 山椒魚が一歩ずつ進歩し人類を支配していく“革命”成就の過程は、ノンフィクションやルポルタージュのような冷静かつ巧みな筆致で描かれていて、山椒魚が知性を持つという突拍子もないフィクションな設定でもリアリティを感じさせてくれる。 (“革命”とか“帝国主義”が実際にあった出来事であるというのもあるけど。)

 そして、進化・支配の主体として人間(のある集団)ではなく動物(山椒魚)を用いることは、意図や論点を先鋭化し、固定観念を相対化し、この小説の批評性を大きく高めるのに貢献している。
 
 
 とはいえ、つまるところ、この小説が、人間と山椒魚とを対立させることで提起している究極的な問題は、(民族や国家などの)“政治的法則”、(資本や生産などの)“経済的法則”、(あらゆる生物への慈しみなどの)“道徳的法則”といった、人間特有の人工的な規範に捉われてしまった人間が、自分たちの出自であるにもかかわらず忘却の彼方に追いやってしまった原始的な“生物学的法則”の前に敗れ去るという皮肉である、と(やや強引だが)まとめることができる。

 具体的には、“人類対山椒魚”という存在を賭けた究極的な問題であるはずのものの前に立ちふさがる、国家間の対立、金儲けへの欲求、同じ生き物である山椒魚への同情・慈悲などである。

 シュペングラーの『西洋の没落』のパロディとして登場する書物『人類の没落』が、山椒魚の前に人類が敗れ去る必然の理由を説明している。

  人間はエゴイズムから、人間と人間とのあいだに新たな差別を、永遠につくり出し、その後、寛容の精神と理想主義から、ふたたび、そのあいだにかけ橋を渡そうとしたのだが、山椒魚も、そのような誤りをくりかえす、と諸君は思うだろうか。
 (中略)
 山椒魚の世界が人間の世界より幸福だろうことは、疑う余地がない。それは統一がとれ、同質であり、同じ精神によって支配されるだろう。山椒魚と山椒魚とのあいだには、言語・見解・信念はもちろん、生活上の要求の差もないだろう。文化的な差はもちろん、階級的差もなく、分業が存在するだけだろう。主人もなければ、奴隷もないだろう。すべての山椒魚が、 (中略) 大山椒魚共同体にのみ奉仕するのであろうから。こうなると、存在するのは一つの民族、一つの階級だけなのだ。それは、われわれの世界よりもすぐれ、完成された世界なのである。 (pp354-355)

 しかし、だからといって、この事態を回避するために、人間が本来持っていた野蛮な生物学的側面を重視するようにすれば済む問題でもない。

 なぜなら、それは人間が山椒魚になり下がること、つまり、人間が人間であることを放棄することを意味するだけのことだからだ。

 「 山椒魚にならずに、山椒魚にも負けない 」

 この簡単そうで意外に難しい問題の存在を、この小説は明らかにしている。

 そして、この問題に対する解答が見つからない限り、「人間は山椒魚より下等である」ということを暗に示していると言えるのだ。

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 ジョージ・オーウェル 『動物農場(高畠文夫訳/角川文庫、1972年)
 
 
 平等を目指したロシア革命が独裁制に陥った歴史を、農場主から独立した家畜動物たちに擬して描いた小説。

 家畜が主人公という設定からしてそうだけど、個々の発言とか行動の描写に滑稽だけど鋭い風刺が効いていておもしろい。

 例えば、 いやしくも二本脚で歩くもの、それはすべて敵である。いやしくも四本の脚で歩くもの、あるいは翼をもつもの、それはすべて見方である。 (p15)と、のたまっていたリーダーの豚が、最後には二本脚で歩いてしまうところとか。
 
 
 ちなみに、この小説を共産主義(マルクス-レーニン主義)批判とだけ捉えるのは狭すぎる。

 この小説は、共産主義の経済理論的欠陥ではなく、あくまで共産主義が独裁になるという政治的欠陥について主に描いている。

 そして、この独裁に至るという点では、エリート主義の右翼も共産主義の左翼も同類だ。

 そして、当然、民主主義も同じだ。

 また、独裁者になった豚(およびその取り巻きの犬たち)を批判するのも無意味だ。

 強者は力による支配へと誘惑される。権力は腐敗する。

 これらは人間である限り避けられない性質として受け入れなければならない。

 重要なのは、それを防ぐメカニズム(制度)であり、国民のレベル(民度)である。

 この「動物農場」でも、致命的に思考力のない(文字も読めない)馬や羊などの被支配者たちの存在、憲法のような掟である「七戒」の蹂躙などによって独裁へと至っている。

 ただ、「七戒」の蹂躙といった制度の機能不全は、被支配者側の文盲などのために発生しており、何より第一義的に重要なのは、被支配者(主権者)側の知性であることがこの小説からも教訓として引き出せる。

 結局、国民が賢くないなら、共産主義でもエリート主義でも民主主義でも破滅へと至るのだ。

 H・G・ウェルズ 『タイムマシン(石川年訳/角川文庫、2002年)
 
 
 今から100年以上前、19世紀末に書かれた言わずと知れた傑作SF小説。

 80万年後の未来を描いている。

 「タイムマシン」という、“未来”をイメージさせる機械を用いて行った“未来”(80万年後)の世界に生きる人間は、生物として大幅に退化している。

 そして、その未来の退化した人間は、2種族による「階級社会(社会?)」になっており、しかも、「労働者階級」たるモーロックが、「資本家階級」たるエロイより、食物連鎖上、上位に君臨している。

 悲観的な未来像を描いているけれど、大地震とか隕石衝突とか核戦争といったカタストロフィックな出来事を使わずに、生物学(進化論)的な理論の必然としての悲惨な未来を描いている。

 物語展開上の細かいところで「偶然」に頼りすぎている嫌いはあるけれど、2002年に公開された映画では描ききれていない哲学的・社会的な含蓄もあり、映画を観ていても改めて読む価値はある。

 グレッグ・イーガン 『ひとりっ子(山岸真編訳/ハヤカワ文庫、2006年)
 
 
 『万物理論』で大きな感銘を受けた割に他の本をほとんど読んでいない現代の最高峰SF作家イーガンの日本オリジナル短篇集。

 科学的・数学的な説明は、「編・訳者あとがき」でも指摘されている通りハード目なために全く理解できていないところもあるけど、そのへんは何となくのイメージで読み進めた。

 それでも、展開されるドラマや、テーマである自己同一性(アイデンティティ)に関する洞察に関しては十分楽しめた。 (とはいえ、『万物理論』のおもしろさからするとかなり見劣りするけど。)
 
 
 “展開されるドラマ”のおもしろさから好きなのは「ルミナス」。

 いわば、2+2=4の「数学」と2+2=5の「オルタナティブ数学」とのせめぎ合いの話。

 ちょっとした宇宙戦争。しかも軍事とかの力による勝負ではなく、もっと原理的な次元での勝負。
 
 
 “テーマである自己同一性”という点に関しては、各作品でいろいろな観点から切り込まれていて一つを選びがたい。

 SF的な設定(特に脳科学的な進歩)によって「自己(自我、意識、脳)」にいろいろな改変が加えられ、ときには他者の「自己」との接合や交換もされ、まさに反実仮想の状況の中で改めて「自己の同一性を保つもの(アイデンティティ)とは何か?」について問いかけられている。

 したがって、設定はSFだけど描かれている内容は現世的に受け取ることができる。

 それが端的に現れているのが次の文。薬によって特定の意識や信念を自由にコントロールできる世界を描いている作品の最後の方に出てくる。

自分に忠実であるとは、相いれない衝動のすべてとともに生き、頭の中の数多くの声に悩まされ、混乱と疑念をうけいれることをいうのだろう。そうするには、もはや手遅れだ。揺るぎない確信をもつことの自由さを味わったわたしは、それなしでは生きられなくなっていた。 (p36)

 もちろん、ここでは、「揺るぎない確信をもつこと」は薬によって成し遂げられている。

 けれど、そんな薬がない現代でも「揺るぎない確信」を楽で胡散臭い手段によって「獲得」している(と思い込んでいる)人はいくらでもいる。

 であるなら、作品中に出てくる「人の命はなんら特別なものではないという信念」を手に入れられる薬は、(もし開発されても)果たして問題があるだろうか?

 といった具合に思考が促される。
 
 
 
 この本は『万物理論』ほどのおもしろさはなかった。

 けど、だからこそ逆に、イーガンの他の長篇作品を読んでうっぷんや物足りなさを解消したい気分に駆られている。

 けど、今読むべき(読みたい)本のストックはいっぱいあるから我慢しなければ・・・。

 なんせ、年末年始に集めた今のストック分を読み終わらないと、年末年始から抜け出せないような気がするから・・・。

 シェイクスピア 『新訳 ハムレット(河合祥一郎訳/角川文庫、2003年)
 
 
 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」で有名な言わずと知れた名作の新訳。

新訳にあたって、最もこだわったのは、台詞のリズムと響きである。原文の意味だけを日本語に置き換えるのではなく、シェイクスピアが意図した劇的効果が反映された翻訳にしたかった。韻文のリズム、散文の勢い、言葉遊びや、芝居がかった劇中劇の台詞など、それぞれの台詞が持つ命を生かしたかった。 (p220)

 と言うとおり、原文をかなり柔軟に日本語に置き換えている。その結果、話自体のおもしろさがより際立つようになっていると思う。

 原文の忠実な理解とか格調高い表現とかも大事だとは思うけど、やっぱり、話をおもしろいと思えることが全ての始まりにないと発展していかない。だから、この新訳はハムレット入門に最適。
 
 
 シェイクスピアはいろいろな解釈が可能なところが魅力とも言われるけど、自分がもっとも中心的なテーマだと思うのは、青春。

 (恋愛に限らず、)理想と現実、子供と大人、といった若いがゆえの葛藤が、「生と死」という極端な二者択一になってしまい、悲劇に至る。

 こう考えると、ハムレット役は若い役者が良い。15歳から20歳くらいの。

 自分が唯一観たハムレットは市川染五郎。今回取り上げている新訳は野村萬斉のハムレットへの訳し下ろし。

 うーん・・・。

 専門家の間でハムレットが何歳くらいと思われているのか知らないし、他に誰がハムレットを演じてきたのかも知らないし、若い役者の技量の問題もあるのだろうけど、大の大人に「生きるか、死ぬか」とか真剣に言われても引いてしまう。 

 周りの悪役みたいな大人たちとか、ハムレットの友人たちも、そんな若くてエネルギーに溢れているハムレットの方が間違いなく引き立つし。

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