忍者ブログ
by ST25
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 J.G.バラード 『溺れた巨人(浅倉久志訳/創元SF文庫、1971年)
 
 
 つい先日復刊された、1960年代に書かれた作品からなるSF短編小説集。

 9編とも、激しい物語性はなく、SF的設定が日常となった世界を静かに描いている。

 一回死んでから時間の経過とともに徐々に若返っていき最後には母親のお腹に戻るとか、地球の自転が止まって一日の時間の変化が感じられない世界とか、臓器移植技術の進化によって相当寿命を延ばすことが可能になった人々とか、個々のアイディアはおもしろい。

 けれど、いかんせん短編であるだけに、話が広がらず/深まらず、物足りなさが残る。アイディアが興味深いだけにその気持ちは増幅される。

 なら、代表作『結晶世界』でも読め、という話ではあるけれど。
 
 
 それにしても、「離被架(りひか)」だの「鼠蹊部(そけいぶ)」だの「粗朶(そだ)」だの、見たこともないような難しい訳語は、今回みたいな復刊を期に何とかならないものなのだろうか。

 復刊によって新訳が出るのが遠のいたとも言えるわけで、細かい改善はしていかないと、古びたものばかりが残り続けることになって長期的に見れば出版業界としても良いことはないように思える。

 果たして、意味の分からない言葉が使われている日本人が書いた小説を読む気になるだろうか? 翻訳だから許す、ということには基本的にはならないと考えるのが一般的な日本人の思考だろう。

PR

 L.M.モンゴメリ 『赤毛のアン 〔ジュニア版〕(中村妙子訳/新潮文庫、1992年)
 
 
 ご存知「赤毛のアン("Anne of Green Gables")」のグリーンウッドによるリライト版。105円で購入。

 オリジナルはそこそこ長いから(とはいえ、児童文学の400~500頁だけど)、こちらは相当手軽に読めてありがたい。

 ただ、短いとは言っても、アンの世界・人柄の魅力は十分に描かれている、と思う。

 (思いがけず、)とても楽しめた。

 ダイアナの妹をアンが助けて皆から受け入れられるところなんて、思わずホロホロ行きそうになる。

 ちょっと俗っぽい希望を胸に抱きつつも前向きに一生懸命生きている素直な子供は(大人の懐古趣味ではあるけど、)良い。
 
 
 それにしても、アンって、ドジっ娘だったり、ツンデレだったり、と、非常にキャラがたっていて現代のアニメ的。( というより、「現代のアニメがベタ」、と言った方があってるかも。)
 
 
 そんなアンが大人になっていくとどうなるのかは興味がないこともない。

 とはいえ、さすがに、これから先のアンの話(8冊合わせて“アン・ブックス”と言うらしい)まで読む気にはならない。

 キャシー・アッカー 『血みどろ臓物ハイスクール(渡辺佐智江訳/白水社、1992年)
 
 
  ポストモダン・パンク作家、また稀代のアウトロー作家として欧米ではすでに熱い支持を獲得 ( 著者略歴より )している女性作家キャシー・アッカーの1984年発表の代表作。

 すげー!

 アッカーもすげーが、訳者の渡辺佐智江もすげい。

 この作品の前では、金原ひとみの「蛇にピアス」なんて、かわいい優等生的お作文にしか見えない。( まあ、もともと金原ひとみの作品の結末は優等生的ではあるのだけど。)

 何がすごいかと言うと、色々すごい。

 まず、何を書いてるかというと、 我々の心の中にくすぶる狂気と孤独と愛と憎悪の混沌 ( 訳者あとがきより )。

 それが、一人の10代前半の女の子ジェニーが、父親と何の道徳的くびきもなく恋愛・性交したり、ペルシア語を勉強したり、現職大統領の性癖を明かしたり、読書感想文を書いたり、作家ジャン・ジュネと放浪したりする中で描かれていく。

 その方法も、普通の小説もあれば、独白調もあり、童話もあり、パロディもあり、戯曲もあり、章全体が詩なのもあり、と自由奔放。( もちろん、性的言葉も頻出。)

 文の前後の脈絡がないのは当たり前。

 でも、それでも主人公の気持ちの流れがすごくよく分かるのだからすごい。

 まさに 我々の心の中にくすぶる狂気と孤独と愛と憎悪の混沌 が表現されているのだ。

 「なんでそんなナンセンスなものがきちんと何らかの感情を描きえているのか?」( 素人(特に若者)が勢いに任せてただ適当に言葉を書き付けただけではこうはならない)、については一冊を一回読んだだけではまだ分からない。

 他の作品も読んでみたい。

 けど、そんなキャシー・アッカーの作品が軒並み絶版で、古本屋か図書館でしか手に取れず、古本屋や図書館でさえもそんなにいっぱいあるわけではない状況というのは残念だ。
 
 
 それにしても、こんな青くて若くて欲動全開の魂の渇きを、女性が描きえて、女性が訳しえたというのは衝撃。
 
 
 ※ 言うまでもなく良い子は読んじゃダメ。

 Jean Fritz. Where was Patrick Henry On the 29th of May? (PaperStar, 1997)
 
 
 アメリカ独立運動時の名演説("Give me liberty, or give me death!")で知られるパトリック・ヘンリーについての子供向け伝記。

 調べてみても日本語の本はなさそうだったからやむを得ず英語の本(とは言っても子供向けの簡単で短いのだけど)を読んだ。

 子供向けの伝記だけに、思想信条とか政治行動とかに関する記述は少なくて、生い立ちとか名演説の場面みたいな象徴的な出来事の記述が多い。
 
 
 この本で描かれているパトリック・ヘンリーの人物像はこんな感じ。

▽ 子供の頃は裸足で野山を駆け回り、学校では落ち着きがなかった。
▽ そんな自然の中で育ったこともあって、自由については敏感だった。
▽ よく届く声(sending voice)の持ち主だった。
▽ 政治家で名演説家でもあった伯父の影響もあって演説や討論をよく聞いており、そのうちに演説の要諦を身に付け、また、弁護士を目指し弁護士になった。
▽ 税を課そうとし戦争の準備をしていたイギリス国王に怒るとともに、イギリス国王と仲良くし平穏に済まそうとしていたアメリカ人にも怒っていた。
▽ 州の独立を侵すアメリカ合衆国憲法に反対し、権利章典を制定させることで納得した。
▽ 引退後は莫大な土地を手に入れ、それを誇りにして暮らした。
▽ トマス・ジェファソンは彼を評して「Patrick Henry was all tongue.(弁舌しかない男だ)」と言っている。 
 
 
 名演説からイメージされるかっこよさを生き方にも貫いているとは言いがたいし、逸話に満ちているということもない。それに何より、自分好みではない。

 若干残念ではあるけど、まあ、あり得ることではある。
 
 
 とはいえ、変わらずに輝き続ける名演説(の最後の部分)を最後に。
 
 

It is in vain, sir, to extenuate the matter. Gentlemen may cry, Peace, Peace――but there is no peace. The war is actually begun! The next gale that sweeps from the north will bring to our ears the clash of resounding arms! Our brethren are already in the field! Why stand we here idle? What is it that gentlemen wish? What would they have? Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery? Forbid it, Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death!
 ――by Patrick Henry, March 23, 1775, at St. John's Church in Richmond, Virginia
 
 ※原文はこちらのサイト(「Project Gutenberg」)より

 
 続いて、拙訳。意訳という名の駄訳(かも)。

 事態を軽んじるのはもはや無駄なことだ。 諸君は、平和が、平和が、と叫び立てるだろうが、現に戦争は始まっているのだ! 次に通り過ぎる北からの風は、我々の耳に完全な武力衝突の知らせを運んでくるだろう! 我々の同胞はすでに戦場にいるぞ! それなのに、なぜ我々はこんなところで無為に突っ立っているのだ? 一体諸君は何を望んでいるのだ? 一体諸君は何を手に入れることができるのだ? 鎖と奴隷を代償にして購(あがな)われるほど、命は惜しいものか? 平和は甘美なのか? 断じてそんなことはない! 他の人たちがどんな道を選ぶか、私には知る由もないが、私に関しては、自由、しからざれば、死だ!
 
 ――パトリック・ヘンリー、1775年3月23日、セント・ジョンズ教会(ヴァージニア州リッチモンド)にて

 

 トマス・ハーディ 『日陰者ジュード(上)(下)(川本静子訳/中公文庫、2007年)
 
 
 『テス』で有名なイギリスの作家トマス・ハーディによる1895年の作品。

 道徳を重んじる保守主義者による浅い読解に基づく非難を受けて、ハーディはこの作品以降、詩作に専念するようになったため、これが最後の小説となった。

 ただ、ハーディ自身も言ってるように、非難された箇所は小説全体からすれば些細な一部分にすぎないし、文学作品に安易にタブーを作る行為は文学の存在意義を掘り崩してしまう愚かな行為である。それに、今の日本の道徳観からしても、何ということもないようなレベルの話にすぎない。 (したがって、発表当時の非難を強調する中公文庫の宣伝スタンスには、「拝金主義」や「週刊誌的な扇情」といった読売新聞がよく批判する言葉での批判が免れない。)
 
 
 話は、真の愛(素直な愛情の気持ち)を貫こうと、信仰、道徳、伝統、世間、法律、打算といったものとの摩擦や葛藤を生じさせ、しかし結局苦境に陥っていく男女(特に青年ジュード)の悲劇を描いている。

 前半、「このレベルの葛藤だとただの昼ドラとか少女漫画(?)と変わんないんじゃないか!?」とか思ってたけど、後半になって、悲劇の重さがひしひしと伝わってきた。

 特に、道徳的・宗教的な世の中で、知的で精神的な女性スーと肉欲的で打算的な女性アラベラとの間で翻弄され続ける真面目な青年ジュードの一生は哀愁を感じさせる。

 若き日に憧れを抱いて体一つ出てきた学問の都クライストミンスターに、数々の苦境を経て再び戻ってきたジュードが、権威的な姿の学生を見に大学の記念祭に集まった一般大衆を前に行った名演説が、消える前のロウソクの炎のような儚さしか感じさせないのが悲しい。

現在の私の外見――病む貧しい男としての――は、私の最悪の姿ではありません。私はさまざまな信念の混沌の中にあり――闇の中をまさぐり――手本にならってではなく、本能に従って行動しています。八年か九年前、初めてここに来たとき、私はいろいろな固定思想を整然と持ち合わせていました。だが、それらは一つ一つ消え去っていき、年をとっていくほど、ますます確信が持てなくなりました。現在の私は、生の規範として、自分には害になっても他人には害にならず、かつ自分の最愛の者たちに実際に喜びをもたらそうとする気持に従っていくしかないと思います。 (中略) 『誰かこの世において如何なる事か人のために善きものなるやを知らん――誰かその身の後に日の下にあらんところの事を人に告げうる者あらんや』 (下巻、pp248-249、訳注略)

 
 だけど、この小説、確かに文学作品らしい深さはあるのだけど、2500円も払って読むほどのおもしろさはないと思う。

カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[10/20 新免貢]
[05/08 (No Name)]
[09/09 ST25@管理人]
[09/09 (No Name)]
[07/14 ST25@管理人]
[07/04 同意見]
最新トラックバック
リンク
プロフィール
HN:
ST25
ブログ内検索
カウンター
Powered by

Copyright © [ SC School ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]