by ST25
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J.G.バラード 『溺れた巨人』 (浅倉久志訳/創元SF文庫、1971年)
つい先日復刊された、1960年代に書かれた作品からなるSF短編小説集。
9編とも、激しい物語性はなく、SF的設定が日常となった世界を静かに描いている。
一回死んでから時間の経過とともに徐々に若返っていき最後には母親のお腹に戻るとか、地球の自転が止まって一日の時間の変化が感じられない世界とか、臓器移植技術の進化によって相当寿命を延ばすことが可能になった人々とか、個々のアイディアはおもしろい。
けれど、いかんせん短編であるだけに、話が広がらず/深まらず、物足りなさが残る。アイディアが興味深いだけにその気持ちは増幅される。
なら、代表作『結晶世界』でも読め、という話ではあるけれど。
それにしても、「離被架(りひか)」だの「鼠蹊部(そけいぶ)」だの「粗朶(そだ)」だの、見たこともないような難しい訳語は、今回みたいな復刊を期に何とかならないものなのだろうか。
復刊によって新訳が出るのが遠のいたとも言えるわけで、細かい改善はしていかないと、古びたものばかりが残り続けることになって長期的に見れば出版業界としても良いことはないように思える。
果たして、意味の分からない言葉が使われている日本人が書いた小説を読む気になるだろうか? 翻訳だから許す、ということには基本的にはならないと考えるのが一般的な日本人の思考だろう。
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