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トマス・ハーディ 『日陰者ジュード(上)・(下)』 (川本静子訳/中公文庫、2007年)
『テス』で有名なイギリスの作家トマス・ハーディによる1895年の作品。
道徳を重んじる保守主義者による浅い読解に基づく非難を受けて、ハーディはこの作品以降、詩作に専念するようになったため、これが最後の小説となった。
ただ、ハーディ自身も言ってるように、非難された箇所は小説全体からすれば些細な一部分にすぎないし、文学作品に安易にタブーを作る行為は文学の存在意義を掘り崩してしまう愚かな行為である。それに、今の日本の道徳観からしても、何ということもないようなレベルの話にすぎない。 (したがって、発表当時の非難を強調する中公文庫の宣伝スタンスには、「拝金主義」や「週刊誌的な扇情」といった読売新聞がよく批判する言葉での批判が免れない。)
話は、真の愛(素直な愛情の気持ち)を貫こうと、信仰、道徳、伝統、世間、法律、打算といったものとの摩擦や葛藤を生じさせ、しかし結局苦境に陥っていく男女(特に青年ジュード)の悲劇を描いている。
前半、「このレベルの葛藤だとただの昼ドラとか少女漫画(?)と変わんないんじゃないか!?」とか思ってたけど、後半になって、悲劇の重さがひしひしと伝わってきた。
特に、道徳的・宗教的な世の中で、知的で精神的な女性スーと肉欲的で打算的な女性アラベラとの間で翻弄され続ける真面目な青年ジュードの一生は哀愁を感じさせる。
若き日に憧れを抱いて体一つ出てきた学問の都クライストミンスターに、数々の苦境を経て再び戻ってきたジュードが、権威的な姿の学生を見に大学の記念祭に集まった一般大衆を前に行った名演説が、消える前のロウソクの炎のような儚さしか感じさせないのが悲しい。
「 現在の私の外見――病む貧しい男としての――は、私の最悪の姿ではありません。私はさまざまな信念の混沌の中にあり――闇の中をまさぐり――手本にならってではなく、本能に従って行動しています。八年か九年前、初めてここに来たとき、私はいろいろな固定思想を整然と持ち合わせていました。だが、それらは一つ一つ消え去っていき、年をとっていくほど、ますます確信が持てなくなりました。現在の私は、生の規範として、自分には害になっても他人には害にならず、かつ自分の最愛の者たちに実際に喜びをもたらそうとする気持に従っていくしかないと思います。 (中略) 『誰かこの世において如何なる事か人のために善きものなるやを知らん――誰かその身の後に日の下にあらんところの事を人に告げうる者あらんや』 」(下巻、pp248-249、訳注略)
だけど、この小説、確かに文学作品らしい深さはあるのだけど、2500円も払って読むほどのおもしろさはないと思う。