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アイザック・アシモフ 『ファウンデーション――銀河帝国興亡史1』 (岡部宏之訳/ハヤカワ文庫SF、1984年)
“心理歴史学”によって滅亡が予測されている銀河帝国での危機とその解決とを、銀河レベルでの数世紀にも渡る壮大なスケールで描いたSF小説の第1巻。
このシリーズは、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を基にしていて、珍しく成功した社会科学のSFだとされる。
この巻では、ハリ・セルダン、サルヴァー・ハーディン、ホバー・マロウが、それぞれ心理歴史学、宗教、貿易を武器に活躍する。
危機に対してつい短絡的・表面的な対応を取りたくなるところを、彼らが一見軟弱な意表を突いた策で立ち向かっていく。
さすがに第1巻を読んだだけでは、まだ感想はない。
現時点ではまだ特に良いとも悪いとも判断しかねる。
3~5巻はすでに古本屋で購入済みなんだけど、2巻がまだ手に入っていない。2巻が(105円で)見つかり次第、続きを読む予定。
ドリス・レッシング 『破壊者ベンの誕生』 (上田和夫訳/新潮文庫、1994年)
あまり、というか、ほとんど話題になってないけど、今年のノーベル文学賞を受賞したイギリスの女流作家の1988年の小説。原題は、"The Fifth Child"。
代表作は『黄金のノート』(1962年)とされることが多いみたいだけど、ノーベル賞の受賞理由は、「 女性の経験を叙事詩的に描いた。懐疑と激情、予見力をもって、分裂する現代社会を吟味し、題材にした 」とのことだから、「今年のノーベル賞受賞作がどんなものだったか?」を知るために読むには、この作品も悪くはないと思う。
明るくて賑やかな、絵に描いたように幸せな家庭が、5人目の子供――全世界に戦いを挑むような目をし、気味の悪い呻き声をたてる――ベンの誕生によって崩れ去っていく。夫、4人の子供たち、親、親戚たちは、ベンから離れたり、ベンを離そうとしたりする。けれど、ベンの母親であるハリエットだけは、ベンを見捨てることもできず、かといって、心を打ち解けて好きになることもできず、苦悩する。また、さらには、自分がベンを産んだこと、自分だけがベンにこだわり続けることによって家族皆の幸せを奪っていること等によって、自責の念に駆られる。そうした中で、ベンが中学生になるまでが描かれる。
母親である女性を中心にして語られてはいるけれど、もっと一般的に、“家族”や“人間”というものの一つの現実・本性が暴き出されている。すなわち、“家族”という温かい響きを含んだ言葉の背後に(正常時には)隠されている、“人間の冷たさ”や“「幸せ」というものの脆さ・不自然さ”が描かれている。そして、もちろん、その中で、母親・女性の苦悩、愛情、感情的反応なども描かれている。
全体を通して、結局、ベンが一体何者なのかも含めて、善と悪、個人と家族、親と子、正常と異常などの単純な図式では、いろいろと割り切れない。でも、そんな割り切れない状態のままに時は確実に過ぎていき、崩れていったり育っていったり・・・。
でも、“幸せ”というイメージを剥ぎ取った現実の家族とは、(親から見ると特に、)そんなものかもしれない、と最後まで読み終わって感じた。
ウィリアム・シェイクスピア 『ジュリアス・シーザー』 (福田恒存訳/新潮文庫、1968年)
偉大なる君主ジュリアス・シーザー、及び、その暗殺者にして高潔な勇将ブルータスを中心に描かれる政治劇。
格調高い名演説の場面が重要な役割を負わされていて、シェイクスピアらしい作品。
それだけ。
訳者は解題で、「主人公は誰か」、「誰の悲劇か」とかいった話を(紹介)しているけれど、これも、『ヴェニスの商人』におけるキリスト教徒とユダヤ人(シャイロック)の善悪二元論同様、読みが浅いのか穿ちすぎなのか、明らかに無理筋。
登場人物は皆救いがたい。(それが人間的ではあるけれど。)
ところで、ここのところ立て続けに『リア王』、『ヴェニスの商人』、『ジュリアス・シーザー』と、どれも新潮文庫で読んできたのだけど、3作ともに共通する、訳者による「解題」と中村保男による「解説」は何とかならないものだろうか?
訳者の「解題」は、作品ができた年はいつだとか、オリジナル版はどれが良本だとか、そんな細々とした論争に5ページとか10ページとかも費やしている。新潮文庫版というもっとも大衆向けのものにそんな学術的な話(しかも読解に際して大して意味をなさない話)はいらない。書くとしても1ページ以下には抑えてほしいところ。内容に踏み込んだ話でも、学説(読解)上の異説(やや極端な解釈)に反論することばかりで、積極的な意味は見出しにくい。
中村保男の「解説」も、作品を読めば誰でも分かることとか、訳者の「解題」の説明をそのままなぞっただけのこととか、読んだところでなんの足しにもならない(無)内容ばかり。
訳はいい(と思う)んだけど。(あと、『ヴェニスの商人』に収録されてた作品年表は便利だけど。)
ウィリアム・シェイクスピア 『ヴェニスの商人』 (福田恒存訳/新潮文庫、1967年)
『ヴェニスの商人』は以前にも読んだことがある。また、映画( 雰囲気と緊迫感を見事に捕らえたなかなか出来のいい作品 )を観たこともある。
『ヴェニスの商人』では、ユダヤ人高利貸し・シャイロックをどう見るかが、何かと論争の的になる。
訳者による解題で指摘されているように、シェイクスピアの時代のイギリスの状況を重視するなら、“単純な悪役”と捉えるべきなのだろう。
でも、それにしては、いくらなんでも主張や行動がまともすぎる。
キリスト教徒とユダヤ人(シャイロック)の“どっちも悪いところがあるし、どっちも正しいところがある”という、“どっちとも割り切れないもの”ということでいいのではないだろうか?
善か悪かどっちかに決めてしまおうとする一元的な読解は、どっちにしても無理が生じているように思える。
ところで、シェイクスピアの作品は、話の筋にしても登場人物のキャラクターにしても、けっこうベタで単純である。それが演劇向きでもあるのだろう。
でも、こういう“ベタで単純な作品”とは、注目すべきところ、おもしろいところがはっきりしている作品のことであり、つまりは、“表現しやすい作品”のことである。
であるなら、いつまでもそういう作品こだわり続ける演劇界というのは果たしていかがなものだろうか?
演劇という表現手段( に限らず、実際は芸術一般 )の真価は、「 もっと微妙な感情や状況、もっと複雑な感情や状況など、どんな媒体であれ表現するの(理解するの)が難しいものを表現できるかどうか、あるいは、それをいかに表現するか?」においてこそ測られるべきだ。
にもかかわらず、“ベタで単純な作品”を、純粋な娯楽としてならいざ知らず、妙に権威あるものとしてもてはやしている現状というのは、演劇界の視点や関心や芸術としてのレベルが芳しくないことを表していると言えないだろうか?
なんていうことは、せめて、蜷川幸雄のシェイクスピア作品を観てから言うべきだろうことくらい、自分でも分かっている。
その蜷川-シェイクスピア、次は来年初め上演の『リア王』。
そして、なんと、チケットの一般発売が今週の土曜日。
To buy...?
Or, to be able to buy...?
ウィリアム・シェイクスピア 『リア王』 (福田恒存訳/新潮文庫、1967年)
『リア王』は、本、芝居、映画を通じて初めて。
登場人物たちの感情とか境遇の触れ幅が大きくて、文字通り、“劇的”。( もともと戯曲ではあるけれど特に。)
これをダイナミックに表現できてる芝居なら観てみたいと思った。
それから、個々の台詞が詩的で心に響く。
あと、当時の時代の雰囲気をうまく使ってるなと思った。
こんなところ。
ところで、この『リア王』を原作にした作品に、日本が誇る“世界のクロサワ”、黒澤明監督の『乱』がある。
のだけど、このDVDが、日本では6300円もする。
他方で、アメリカでは17.99ドル(※1ドル=117円換算で約2100円)で買える。
この文化状況の違いを見て、何か感じないだろうか?