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ウィリアム・シェイクスピア 『ヴェニスの商人』 (福田恒存訳/新潮文庫、1967年)
『ヴェニスの商人』は以前にも読んだことがある。また、映画( 雰囲気と緊迫感を見事に捕らえたなかなか出来のいい作品 )を観たこともある。
『ヴェニスの商人』では、ユダヤ人高利貸し・シャイロックをどう見るかが、何かと論争の的になる。
訳者による解題で指摘されているように、シェイクスピアの時代のイギリスの状況を重視するなら、“単純な悪役”と捉えるべきなのだろう。
でも、それにしては、いくらなんでも主張や行動がまともすぎる。
キリスト教徒とユダヤ人(シャイロック)の“どっちも悪いところがあるし、どっちも正しいところがある”という、“どっちとも割り切れないもの”ということでいいのではないだろうか?
善か悪かどっちかに決めてしまおうとする一元的な読解は、どっちにしても無理が生じているように思える。
ところで、シェイクスピアの作品は、話の筋にしても登場人物のキャラクターにしても、けっこうベタで単純である。それが演劇向きでもあるのだろう。
でも、こういう“ベタで単純な作品”とは、注目すべきところ、おもしろいところがはっきりしている作品のことであり、つまりは、“表現しやすい作品”のことである。
であるなら、いつまでもそういう作品こだわり続ける演劇界というのは果たしていかがなものだろうか?
演劇という表現手段( に限らず、実際は芸術一般 )の真価は、「 もっと微妙な感情や状況、もっと複雑な感情や状況など、どんな媒体であれ表現するの(理解するの)が難しいものを表現できるかどうか、あるいは、それをいかに表現するか?」においてこそ測られるべきだ。
にもかかわらず、“ベタで単純な作品”を、純粋な娯楽としてならいざ知らず、妙に権威あるものとしてもてはやしている現状というのは、演劇界の視点や関心や芸術としてのレベルが芳しくないことを表していると言えないだろうか?
なんていうことは、せめて、蜷川幸雄のシェイクスピア作品を観てから言うべきだろうことくらい、自分でも分かっている。
その蜷川-シェイクスピア、次は来年初め上演の『リア王』。
そして、なんと、チケットの一般発売が今週の土曜日。
To buy...?
Or, to be able to buy...?