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『ペテン師と詐欺師』 (演出:宮田慶子/出演:鹿賀丈史、市村正親、奥菜恵ほか/場所:天王洲銀河劇場)
雨風が凄まじかった10月6日(金)に観に行ったミュージカル。
年を越す前に感想を。
イギリス紳士風の詐欺師(鹿賀丈史)と粗野なアメリカ人ペテン師(市村正親)が純情な旅行者(奥菜恵)をターゲットに(ナンパの)勝負を繰り広げるコメディ・ミュージカル。
致命的につまらなかった。
金(12,600円)を返して欲しいと思った。
あなたたちはプロですか?と聞きたかった。
何が酷かったか?
脚本と演出と演技が酷かった。
具体的には、まず、ストーリーが大した展開もなく平坦だった。
その上、ベタな笑いをベタと気付かずに乱発するから、良い意味で期待を裏切ることがなかった。
(先を)読んだとおりに話が進んでいくから、笑えるポイントがほとんどなかった。
演技と演出に関して。
確かに、鹿賀丈史はダンディだったし、市村正親はコミカルだった。
だけど、イギリス紳士にも、アメリカ人にも見えなかった。ただの日本人だった。
奥菜恵は本人の素のキャラクターと役柄が合ってない上に、その差を縮めるだけの演技力もなく、結局、役柄ではなく「奥菜恵」がしゃべってるだけだった。
平田オリザの『演技と演出』でも読んで、“コンテクスト”について自覚する必要がある。(役者も演出家も。)
それから、ただでさえ沈んでいた自分の気持ちをさらに逆撫でたのが、誰の女性ファンがやり始めたのか知らないけど、不自然に起こったスタンディング・オベーション。
客席の空気からしても、拡がり方の遅さからしても、かなり不自然だった。
この観客にして、この駄作あり、か。
劇団BLUESTAXI・第13回公演 『東京アカイイト』 (2006年12月6日~10日、@中野 ザ・ポケット)
以前、このブログにコメントしていただいたことのある森幸子が客演で出ている舞台。
クリスマスの夜に展開される、さまざまな二人組(『アカイイト』というタイトルだけど恋人同士に限らない)の人間模様を描いている。
テーマは、ツンデレ。
まさに2006年を締めくくるのにぴったり。
ツンツンしている人が最後にはデレデレになる。
より一般的な言葉で言うと、常日頃さんざん突っ張ってる人がクリスマスの夜に素直になる。
雰囲気、空気感がすごく良かった。
完全にクリスマスの夜だった。
これは、ムードのある歌やセットに依るところもあるけど、何より、“全”出演者のレベルの高い演技による。
ムード、雰囲気を壊す演技がないから、そこに架空の世界が完璧に作られ、舞台上の世界に入り込むことができる。
実の母が死に、その再婚相手である知り合ってまだ一年ほどの義理の父に、「二人で暮らそう」と言われる高校生の娘の役を演じた森幸子の演技も良かった。
叫んだり、冷静に突っ込んだりが、義理の父を突き放すというより、若さゆえの照れを隠すとともに、義理の父に変わってほしい、分かってほしい、愛してほしいというような気持ちの現れ、心の叫びに聞こえ、最後の、素直になるところにつながる好演だった。
ところで、この舞台の物語が展開される「クリスマスの夜」は果たしてムードのある夜だろうか?
「聖夜」という言葉に明らかなように、クリスマスというイベントのクライマックスは「イヴの夜(聖夜)」であって、「クリスマス(25日)の夜」ではない。
いや、この舞台でも、このことに対する突っ込みらしきものは一箇所出てきた。
ただ、今年の25日はブルー・マンデー=月曜日だけど24日は日曜日、といったことに結び付けられたりしていて、話の展開上、その他の話につながる重要なものではなかった。
果たして、製作者は「クリスマスの夜≠聖夜」という問題に気づいていなかったのだろうか?(普通に考えてそんなことありそうもない)
これが意図的であるとすれば、「クリスマスじゃない普通の日も大切にして、いつもあったかい気持ちでいましょう」というメッセージだと受け取れる。
けれど、クリスマスケーキを売る/買う人が出てきたり、独り身の男が「死にたいくらい淋しくなる」と言ったり、クリスマスソングが多用されていたり、という雰囲気抜群の舞台を観ても、ちらしを見ても、それが「聖夜」であるかのように作られているのは明らかだ。 (そうでないと観るには無理がある。それに、25日の夜は、安売り中のケーキや、装飾の片付けなど、ムードのある雰囲気とは言いがたい。)
メリー・クリスマス。
最初に書いたように、この舞台は、「クリスマスの夜に、今までさんざん突っ張っていた人が素直になる」という(ツンデレ)話である。 (※ここでは「クリスマスの夜≠聖夜」問題は措いておく)
では、彼らは、なぜ素直になれたのだろうか?
「クリスマスだから」と思うだろう。
確かに、クリスマスのあったかい雰囲気が無意識のうちに人を素直にしたという解釈は成り立つ。
けれど、舞台を観る限り、そのこと(素直になる際の「クリスマスの雰囲気効果」)が意識的に話の中に取り入れられているとは思えなかった。
むしろ、ストーリーを素直に理解すると、結局、「素直になれた(本音が出た)」のは、怒って感情的になったから、酒で泥酔したから、母親の死に際だから、見知らぬ人の優しさに触れたから、である。
となると、「クリスマスの夜」という舞台設定にはストーリー展開上、本質的な意味があったのか疑問である。 (設定上の便宜的な意味はあったにしても。)
それから、上に挙げたような理由(状況)であっけなく素直になれる“浅薄な人間”を登場させるというのは、いただけない。 (「母親の死に際」というのは別にしてもいいけど。)
人間の心や理性(の特に核心的な部分)は、そんなに簡単に、変わったり、素直になれたりするだろうか?
確かに、簡単に変わることもあるし、簡単に変わる人もいる。
けれど、そういう、ストーリー展開させやすい浅薄な人間を描いたのでは、物語としては面白みや深みがなくて、得られるもの、感じとれるものが少なくなる。
そんなわけで、演技のレベルの高さと、話(ストーリー)の平凡さが対照的な舞台だった。
けど、いずれにしても、これまでのところを読めば分かるとおり、実物の森幸子が思いのほかかわいくて良い子だったなんて一言も書いてない。
と、ツンデレ風に締めてみる2006年冬。
『胎内』(作:三好十郎、演出:鈴木勝秀、出演:奥菜恵、長塚圭史、伊達暁/2005年10月20日~30日/青山円形劇場)
ちょうど1年前にやっていた作品。
DVDが発売されたという話をネット上で見て思い出し、少し考えてみたら観劇後の感想を言語化できそうな感じだったから書いてみた。
敗戦からまだ2年の日本。警察に追われている金持ち男(伊達暁)とその愛人(奥菜恵)が防空壕に逃げ込むと、戦争で全てを失った復員兵(長塚圭史)がそこに潜んでいた。そのとき地震が起きて3人はその中に閉じ込められる。そうして作り出された極限状況で繰り広げられる、3人の実存に関する独白が織りなす話。
長塚圭史率いる「阿佐ヶ谷スパイダース」の作品紹介のページには次のように書かれている。
「 戦後の復興期に、戦争の本質と、ギリギリの極限まで追い詰められた男女の、ひいては人間の本質、本性、生と死、そして再生、が圧倒的な力量で描かれています。 」
という話なのだが、観たときの感想は「浅い」。
「極限状況における人間」については、現代人はリアルな経験とその記録を持っている。
その代表的な記録は、ナチの強制収容所に閉じ込められた心理学者による、V.E.フランクル著『夜と霧』である。
こういったことを踏まえるなら、この舞台を観る際には、「人類が経験した“実際の経験の上に”、どういう“創作”をしているのか?」に注目することになる。
が、『夜と霧』が正常で平和な世界に生きる人間からは想像を絶する内容なのに対して、『胎内』は正常で平和な世界に生きる人間が想像し考えられる範囲内の内容なのである。
そんなわけで、「極限状況の人間を描いた“作品”」である『胎内』は、事実に敗北した失敗作なのである。
やっぱり、観たことのあるもの、考えたことのあるもの、知ってること等々をやられてもおもしろくない。何か新しいものがないと。
ちなみに、演技に関しては、長塚圭史が中の上、奥菜恵が中の中、伊達暁が中の下といった感じで特に印象に残るものはなかった。
前回の記事でブログを紹介したらご本人から直々にコメントを頂いた「もりこ」こと森幸子を応援する機会に早速恵まれた。
「もりこ(森幸子)」が出演中の舞台でまだ空きがある回があるというので行ってきた。
ショウデザイン舎公演『嘘・夢・花の物語』(作:岸田理生、演出:山本健翔、場所:こまばアゴラ劇場)である。
この公演は、演出家の言葉によると「幸福についての自立の物語」。
ストーリーに関しては、聞き逃したセリフとかもあって(寝てたわけではない)、恥ずかしながら統一的に理解できていないから、自分が理解した範囲でやや強引に繋げて考えると大体こんな感じ。
恋愛に無縁であった家政婦の「夢見る夢子さん」が二人の男性から結婚を申し込まれることで初めて現実的な悩みを抱える。果たしてどちらを選ぶべきか?どちらを選ぶのが幸せなのか?この現実的な悩みの中で、夢子さんは“幸せは外から与えられるものではない”と悟り、「夢=嘘」の世界から抜け出す。こうして、周りから見下されていた「弱い」夢子さんの立場は逆転して「強く」なる。
こう理解すると中心的な主張・メッセージは凡庸なように思えてしまう。けれど、子供の頃から“道徳的に望ましいお話”として聞かされてきた童話「みにくいアヒルの子」を批判的に使ったり、「♪もしもし亀よ~」の童謡を取り入れたりと、いかにも「夢」的な素材である童話・童謡を使っているのはおもしろかったし、上手い演出だと感じた。
ちなみに、「もりこ(森幸子)」は、姉である「夢見る夢子さん」をバカにしている妹の一人という役であった。“姉を見下しながらも本質的には姉よりも弱い人間である”という感じが出ていて良かったと思う。(元からかわいいのだが、)かわいさが必要なところでかわいさも出せていたし。
それにしても、自分は演劇を観るということに慣れていない。観るのは一年にせいぜい3~4回程度である。
そんなわけで、上で書いたことが的外れである可能性も高い。
ということは、褒めたつもりがけなしている可能性も高い。
したがって、今回はトラバは自粛。
(そりゃ嫌われたくないから。)
『キレイ ~神様と待ち合わせした女』 (作・演出:松尾スズキ、TBSDVD)
このDVDは、2000年6月13~30日に渋谷のBunkamuraシアターコクーンで上演されたミュージカルで、その内の6月21日に収録されたものだ。主なキャストは奥菜恵、南果歩、古田新、片桐はいり、秋山奈津子、宮藤官九郎、松尾スズキ、篠井英介である。ストーリーを相当大雑把に述べると以下のようなものである。まず、記憶を消した少女・ケガレ(奥菜恵/成人後:南果歩)が地下から民族紛争の続く日本に出てくる。そして、そこで珍奇な人々と出会い、その中で、ケガレの中の過去との葛藤が少女時代と成人後を並行させながら描かれていく。そうして複雑に時間・空間を越えながら進んでいくストーリーが最後には劇的な展開を見せる。テーマはタイトルから分かるように、(一般的な言葉としての)「キレイとケガレ、そして神様」であると思う。
チケットが見つからないため何時行ったかは分からないが、私はこの芝居を実際に生で観た。おそらく座席は1番前(違っても2番目)だったと思われる。そのため、どうしてもストーリー全体を意識するよりも個々の役者を注視していた。それでも、芝居全体としてはおもしろく感じた。
それから4年、最近DVDとサントラを購入した。そこで、今回はよりストーリーに焦点を当てて注意深く2回ほど短期間のうちに鑑賞した。2回というのは、1回観終わったとき、可能性のある解釈がいくつかあったため、その点を確かめるべくもう一度鑑賞したのだ。
内容に関して、まずこの作品の良い点を述べておく。
一つは、芝居を通じての雰囲気だ。戦争とケガレという同じように暗さやもの悲しさを持っているものに見事にマッチする雰囲気を音響、歌、舞台セット、演技で作り出し、観客を“現場”に引き込むことに成功している。
二つ目の良い点は、一つ目の点とも関連するが、音楽(歌)の良さだ。特に、「ケガレのテーマ(奥菜恵)」、「事実は事実(南果歩)」、「キレイ~Ending(奥菜恵)」が良い。(どれもサントラに収録されており歌詞を確認しながら何度も聴いた。)この3曲は同じメロディー(?)だが、歌詞やテンポを変えることで、ストーリー上、重要な役割を演じている。そして、それぞれがこの芝居の内容や雰囲気を見事に表現した曲と詩になっているのだ。(歌唱力の良さは言うまでもない。)したがって、これらの曲を聴くと舞台の映像や観ているときの感情が鮮明に蘇ってくる。
そして、3つ目の良い点は笑いを取るところでのセンスの良さだ。下品でも単純でもない“上品な”笑いとでも言いえるような確実な笑いが心地よく、芝居の流れに効果的にめり張りを付けている。この点はさすが、松尾スズキをはじめ、古田新、宮藤官九郎というメンツが揃っているだけのことはある。
さて、次にこの芝居について批判する。それはストーリーについてだ。確かにこの作品のエンディングでのトリッキーな展開は、「過去と現在」のような二項対立を単純に対比していくのとは異なるダイナミックさを有している。しかし、厳しく言えばそれだけなのだ。
まず確認しておきたいのだが、この作品にはメッセージ性があるわけではない。もちろん皆無だとは言わないが、ストーリーや笑いに対してより高いプライオリティーが置かれているため観る人を考えさせるような作りにはなっていない。そのため、より一層ストーリーが重要になってくる。
しかし、その生命線であるストーリーが、複雑ではあるが仕掛けが少なく、大掛かりな少数の仕掛けで安心してしまっているところがあるのだ。つまり、焦点となる人物に関しては丹念に構想されているのだが、それ以外の人物(その中には重要な役割を果たす者もいる)に関してはこの作品の中では全貌が解明されず、外生的に「元々そういう人物がいた」という程度で終わっているのだ。言い換えれば、大掛かりな少数の仕掛けが関係する射程範囲が狭いために、そこに組み込まれない登場人物がたくさん残ってしまうということだ。金融などで使われる言葉でいえば、仕掛けの“レバレッジ(てこ比)”が小さいのだ。そう考えれば、最後のトリッキーな仕掛けはそれ自体のインパクト(奥行き)は大きいが、それによって解明されること(横の拡がり)は少ないということだ。
そうして以下のようなことになる。この文章の初めの方で、「1回見終わったとき可能性のある解釈がいくつかあった」と書いた。もちろん、その解釈は2度目に観たときに否定された。それは、僭越ながらあえて言えば、「ストーリーをまだおもしろくする余地が複数あった」ということだ。(例えば、マジシャン=カネコ・ジョージという設定。)
もちろん、舞台は1回観るだけで理解させなければならないという制約があるのは承知している。しかし、仕掛けの射程を拡げて、作品内での内的完結性を高めることは可能である。また、観客がその場で理解できなくても作品全体への理解度や満足度に影響を与えない仕掛けをあらゆるところに仕込んでおくことは作品の完成度を高めようとしたら避けられないことのはずだ。
私は舞台作品の評論をほとんど読んだことがないため、どのような点から批判や評価がなされているか知らないが、以上が素人なりに考えた評価だ。是非ともこの作品に対する評論家のコメントを読んでみたいものだ。(果たしてどういうところに載っているのだろうか?)
最後に、「ケガレのテーマ」の歌詞の冒頭より引用。
「♪そうして一人私はソトで 二度目に生まれて大地を踏んだ」