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PROPAGANDA STAGE vol.25 『 四月の風、ただ舞い上がる 』 ( 作・演出:砂川仁成/2007年4月5日~8日/@ザムザ阿佐谷 )
「青春、夢、成長」を描いた芝居。
ひどい、と思う。
特に男性陣の演技。(の、特に準主役の演技。)
「下手な演技」と言ったとき真っ先に思い浮かべるような、典型的な下手な演技。
台詞も表情も、わざとらしい抑揚のつけ方で、ちょっと漫画っぽい。
上演中、「わざとベタに下手っぽい演技をして素朴さを出そうとしているのか!?」とか、「わざとベタに下手な演技をして笑いを取ろうとしているのか!?」とか、考えた。(心の中で笑いは起こっていた。)
でも、そのように好意的に理解するには、他の役者の演技との整合性や、ストーリーの内容からして、無理がある。
したがって、「ひどいだけ」と結論づけた。
しかも、よりによって話の展開が大してないから、演技がよく目立つ。
ちなみに、話は、「 夢を追いかける。あるいは、夢を追いかけてる人に触発されて昔の夢を再び追いかける。 」というもの。(爆)
柿喰う客・第9回公演 『女体カーニバル』 (作・演出:中屋敷法仁/2007年3月21日~4月1日/@王子小劇場)
「柿喰う客」は、2006年10月の「ラゾーナ川崎プラザソルOPEN記念10団体合同公演」での『人面犬を煮る』を観て、「最高だ」と思って以来2度目。
今回の公演は『女体カーニバル』と称し、「サバンナの掟」、「口だけの女」、「他人の不幸」という繋がりがありつつも独立した3作品が交替交替に上演されている。
3作品とも観た。
3作品ともおもしろかった。
安逸をむさぼっている脳を、危険にさらしたり(「闘わなきゃ現実と」by役所広司)、活性化させたり(「アハ体験」by茂木健一郎)してくれるおもしろさ。あるいは、活発に働いている脳を、軽々と飛び越えていく(「シンジラレナ~イ」byヒルマン監督)おもしろさ。
それで作品の内容だけど、説明するのが実に難しい。
なんせ、27人も出演者がいて、その27人のほとんどが強烈なキャラを持っていて、最初から最後まで考える暇がないほど無駄なくどんどん進んでいって、展開も途中でマジなダメ出しをしだしたり出演者全員で歌いだしたりと多彩なアイディアが取り入れられていて、台詞も映画、アニメ、CM、企業名、商品名、ニュース、歴史の教科書、18禁な性用語など幅広いレファレンスがあって、それでいて、メインのストーリーには社会派なメッセージがある、という作品なのだ。(これでもまだ到底言い尽くせていない。)
そんなわけで、自分にとってポイントだと思うところについて、いくつか書いていこうと思う。
1つ目。中屋敷法仁。
今回分かったのは、自分が、柿喰う客が好きというより、劇団の代表で、作・演出・出演をしている中屋敷法仁が好きだということ。
作家・演出家としても、役者としても、素晴らしい。本当にその才能に惚れ惚れする。 (※その内容に応えられる役者が集まって初めて、一つの芝居として成り立つことは言うまでもない)
まだ、20代前半(23?)だけに、今後の成長と活躍が期待される。
2つ目。リアリティ。
上で書いたことを見ると、この舞台はただおもしろおかしくふざけているだけに思えるかもしれない。
しかし、随所で、人間の内面や社会に関する(批評性のある)リアリティを感じさせる。
例えば、台詞に多用される、フェラチオなどの放送禁止な性用語。
この種の言葉を公の場で聞くことは皆無だが、男性にとっては、私的な会話や頭の中でごく普通に使われる、というか人生のかなりの時間において、この種のことが頭の多くの部分を占めていることは否定しがたい事実である。 (※ただ、これは女性にとっては共感しにくいかもしれず、この点、この芝居の射程範囲や普遍性を低めてしまっている。エンターテインメントとして見た場合だけど。)
これは、現実をありのままに表現することによるリアリティの提示だが、その一方で、アイロニカルな方法によって表現されるリアリティもある。
例えば、市内を不幸だらけにしようとする市長。
なぜ、そんな、実際の市長たちとは“真逆”のことをするのか?
その答え、それは「他人の不幸」のメイン・メッセージだが、すなわち、「大衆は他人の不幸を待ち望んでいる。そして、不幸になった者はその不幸によって(悲劇のヒーローや主人公としての)生きがいを見つけることができる。」つまり、皆が不幸を望んでいる、のである。
これは、日々のワイドショーを見ればすぐに納得される現実である。
3つ目。二階堂瞳子。
この舞台には、このブログに今回の舞台の宣伝も含め何回かコメントして頂いたことのある二階堂瞳子が、3作品全部に客演している。
二階堂瞳子in柿喰う客は、自分が柿喰う客を知ることになった舞台『人面犬を煮る』のときにもあった。 (というか、正確には、二階堂瞳子目当てで柿喰う客の舞台を観た。)
正直に言えば、そのときの(口裂け女の)演技は、柿喰う客の中では、役どころを考慮したとしても、軽くて浮いてるような感じがしたものだった。
けれど、今回は、3役ともしっかりと柿喰う客の舞台の中に溶け込んでいた。というかむしろそれに止まらず、(自分が観た回で、という限定は付くけど)「サバンナの掟」と「他人の不幸」では、舞台の雰囲気を作るのに貢献する好演であった。 (ちなみに、「口だけの女」では、“キモキャラ”というベースライン(基本線)からズレるポイント(点)がなく、平坦で笑いどころがなかったような気がした。ベースラインのレベルは高いと思うんだけど。)
4つ目。王子小劇場。
この劇場、こんな風に論じられるほど有力な劇場らしい。
だとしても、観客にとっては優しくない。
かなり狭い上に、客席内の高低差はあまりないし、客席と舞台との高低差もあまりない。
窮屈だったり舞台上が見えなかったりすると、芝居を楽しむどころではない。
こんな観客に優しくない劇場が有力であるのなら、進化や成長をもたらしてくれる最低限のマーケット・メカニズム(もしくは自浄作用)さえも機能してないということを表している。
そして、これは小劇場演劇全体にも当てはまる問題だと思われる。
とりあえず、こんなところ。
周辺的なことばかり書いていて、おもしろさの核心的な部分について言葉にすることができていないのは、力不足ゆえに仕方ないとは言え、なんとも残念。
けど、本当におもしろかったんだ。
『 橋を渡ったら泣け 』 ( 作:土田英夫/演出:生瀬勝久/出演:大倉孝二、八嶋智人、奥菜恵、岩佐真悠子ほか/2007年3月5日~29日/@Bunkamuraシアターコクーン/\8500[S席] )
くだらない。
孤島に残された男女8人の物語。
と来れば、人間の本性が出る原始的な極限状況なわけで、この興味深い題材は、これまで色々と描かれてきた。
ゴールディング『蝿の王』、楳図かずお『漂流教室』なんかが代表的。
ちょっと幅を広げれば、デフォー『ロビンソン・クルーソー』、ホッブズ『レヴァイアサン』なんかも欠かせない。
他にも、上で挙げた作品の映画版やドラマ版から、似たような状況を作って男女に生活させるバラエティ番組など、挙げれば切りがない。
そして、こうした極限状況では、権力、食料、女をめぐる微妙で複雑な争いが繰り広げられる。
しかしながら、この『橋を渡ったら泣け』で描かれる“争い”は、あまりに粗雑で素朴で浅薄。
「人間は優しくて争いを好まない」と信じて疑わない優等生な中学生が考えたみたいなレベル。
権力を握った人が、立派な服装をしたり、奇妙な儀式をしたりという(『蝿の王』における“ほら貝”とかを意識したのかもしれない)象徴的(?)表現も、あまりに単純で表面的。
これだけ有名な劇場で、これだけ有名な人たちが出演してる大規模な芝居なのだから、「本当におもしろい?」と誰か疑問を持たなかったのだろうか。
逆に、大規模だからこそ、組織の論理が強く働き、皆が組織の従順な歯車の一部になってしまったのだろうか。
いずれにしても、そんなわけで、見所といえば、独特な空気感のある八嶋智人のおもしろい一挙手一投足(含、台詞)を生で見れたところぐらいなものだった。
というか、「もしこの舞台に八嶋智人がいなかったら」と考えるとゾッとする。
だるまちっくシアター 『ゴジラ』 (2007年3月7日~13日、@アトリエだるま座、\1800)
演技の学校(と言うほどのものでもないか?)の日頃の成果を見せる発表会みたいなものを、ちゃんとお金を取ってお客を入れて行っているもの(だと思う)。
「い」「ろ」「は」と3組あるうちの「ろ」組を観た。
役者がメインだから、「話」についていちいち何か言うべきではないのかもしれないけれど言わずにはいられない。
この『ゴジラ』という戯曲、大橋泰彦という人が作ったもので、1988年の岸田国士戯曲賞を受賞している。そして、本として出版されてまでいる。
Oh ! Really !? (日本語訳: おー!マジかっ!)
というのも、ストーリーも設定も随所で破綻しているのだ。 (※もちろん、今回の「演出」によってそうなってしまっただけかもしれない)
言うまでもなく、破綻とは、あの巨大なゴジラと普通の女の子との間に愛が芽生えて結婚までしようとしているという設定のことでも、ゴジラの話にウルトラマンが出てきたことでも、モスラの奥さんがピグモンであることでもない。
破綻とは、登場人物の性格や考えの一貫性のなさ、話のつながりの欠如のことを言っている。
例えば、ミステリー小説で、最後になって「 実はこの人にはハンドパワーがあって、だから被害者を殺せたのです 」と明かされるような類いの、前提とかルールのレベルにおける破綻である。 (※これは、矛盾をそのまま示して観客に思考を促すといったような良い意味での「破綻」では、もちろんない)
では、いくつか例を挙げていこう。
・ ゴジラと女の子は両想いで、だからこそ結婚までしようとしているはずなのに、後半で、なぜか(その女の子のことを愛していた)ウルトラマンとゴジラが「男同士の闘い」をして、どっちがその女の子を手に入れるかを決めようとする場面が出てくる。この場面、「男同士の闘いだから」という言葉で正当化されているけれど、話の流れ上、闘う必然性がないのにいきなりこの場面が出てきて、頭の中に「?」が浮かぶ。
・ 前半、というか話のほとんどで、ゴジラはあらゆる障害を乗り越えて人間の女の子と結婚することを強く決意しているのに、(ゴジラ自身の)父親に「お前は人間の痛みが分からない」と言われただけで、最後の最後(フィナーレ)で、「人間の女の子とは結婚できない」とかいって悩み出す。フィナーレまで、ゴジラのそんな意志の弱いキャラ、知らなかった。
・ ゴジラの扱いが、あるときは「(映画の中の全長50mの本物のゴジラの)巨大さ」を話のネタにしたと思ったら、あるときはその「巨大さ」を無視して「普通の人間(舞台上の人間が演じるゴジラ)」として扱ったりと、設定にばらつきがあって、しかもそれが何の規則性もなく場面ごとに行ったり来たりしているから、舞台上のゴジラのイメージが全く固まらない。
・ 「リベラル」と自称し、若き頃、自らもオタマジャクシと恋をしていて、孫娘のゴジラとの恋にも寛容なところを見せたおばあさんが、そのすぐ後に、ゴジラが子持ちであることを知ってゴジラとの結婚に反対する。おばあさんは「リベラルなキャラ」なのか「保守的なキャラ」なのか混乱する。ちなみに、この舞台には、この「リベラル」のような政治用語が「日米安保」や「国連軍」や「レーガンとゴルバチョフ」などたくさん出てくる。けれど、文脈や使い方からして、これらの言葉を正確に理解しているとは言い難い。ただ単に、その場面に関連しそうな用語を使っているだけだと思われる。
これでは、楽しむ以前の、内容を把握する時点でつまずいてしまう。
That's all. (日本語訳: 以上)
東京を舞台に繰り広げられる“人と人とのつながり”をめぐる様々な人間模様を、オムニバス形式で描いている。
いくつかある話の中でも中心的な話において展開されるメッセージは、“ダイヤモンドもゴミになれば、カップラーメンもダイヤモンドになる。そして、それに気付くことが大切。”というもの。
このメッセージが、両親が離婚しそうな女子高生が東京の様々な人間模様を見て回る中で発見されていく。
しかしながら、この舞台の見所は、“全体”ではなく、個性的なキャラクターがたくさん登場する“個々の話”である。
その中でも話のおもしろさが飛び抜けていたのが、渋谷センター街での話とメルヘンな奥さんとその夫との食卓風景。
両方ともおもしろかったけど、特に、夫婦の食卓風景におけるメルヘンな奥さんの演技は、「おもしろい!」だけではなくて、「すごい!」とまで感じた。
その奥さんは、現実的なこと冷酷なことをも(メルヘンな)顔色一つ変えずに軽く言ってのける不思議系なキャラクターである。
こういうキャラクターが出てきたとき、それが素なのか演技なのか、騙されないように注視するのがアイドルファンの習性だ。
そんなわけで、かなり注意深く観察していたけれど、全く隙、ほころびがなかった。
すなわち、聞いたことのない横文字がいっぱい出てくる長い台詞を言うのに、普通は台詞にばかり気を取られて油断してしまいそうなものだけど、メルヘンな表情・雰囲気を全く変わることなく保てていた。
夫に現実的で冷酷な言葉を発するところでも同様に、全く微動だにせずメルヘンな表情・雰囲気を保てていた。
それはもちろん、台詞が言い終わったときも、歩いたり動作をしたりするときも、完璧にメルヘンな若い奥さんだった。
メルヘンな役をここまで演じきれる役者およびアイドルは他にはいないと言っても過言ではないと思う。
この役者が舞台で別の役を演じるとどうなるのかは見たことがないから一般的な評価はできないけれど、それにしても、ストーリー・脚本の内容とは別に、自分がここまで純粋に演技だけを取り上げて感心するのも珍しい。
そして、それが自分が応援している塙花澄さんだというのが嬉しい。
さて、今回、終演後に初めて塙さんにお会いした。
まず、客席を歩いている姿が、大袈裟な表現ではなく本当に、ふわふわ飛んでる蝶々みたいだった。
そして、容姿・雰囲気が、これまた大袈裟な表現ではなく本当に、お人形さんみたいだった。
だけど、これまた大袈裟な表現ではなく本当に、テクティさは全く感じられなかった。