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by ST25
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 田中弥生 『NPOが自立する日――行政の下請け化に未来はない(日本評論社、2006年)
 
 
 収入や活動のほとんどを行政からの委託事業や補助金が占める、「行政の下請け化」しているNPOが多い現状を明らかにした上で、改めてNPOのあり方を問い直している本。

 
 
 内容を少し詳しく言えば次のようになる。

 まず、関係者へのヒアリングやアンケート調査(ある程度の大きさをもつ団体が対象)をもとに、NPOを「民間資金型」(:民間からの寄付や助成金が収入の8割以上)、「公的資金型」(:行政からの委託や補助金が8割以上)、「中間型」の3つに分けている。

 そして、「公的資金型」の団体は、「行政の下請け」という従属的で弱い立場にならざるをえず、「自立的な公の担い手」という当初のNPOの理念から逸脱していると指摘する。

 その上で、3つの観点からNPOのあるべき姿を示している。

 すなわち、第一に、似た状況に直面しながらも対照的な対応を取ったアメリカとイギリスの経験を比較し、行政とNPOとの健全な協働というイギリスが採った方向を目指すべきだとしている。

 第二に、NPOを取り巻く法制度を会社法を参考に“ガバナンス”と“独立性”という観点から検討し、行政からの独立性を担保するためにもガバナンスの強化の重要性を訴えている。

 第三に、ドラッカーの成果重視マネジメントの方法を紹介し、使命を基礎にした前向きな自己検証を勧めている。

 以上が、この本の概要である。
 
 
 3点ほど問題点を指摘する。

 まず、著者自身も述べているように、「民間資金型」はほぼ開発系NPO・NGOに該当し、「公的資金型」は介護保険制度の創設によって増えた福祉系NPOにほぼ当てはまる。

 であるならば、「行政の下請け化」の問題は、福祉系NPOに絞り、福祉系NPOの特質に沿って検討すべきだったのではないだろうか?

 実際、この本では、前半で析出した「行政の下請け化」の問題を解決する具体的な案が示されていない。後半で述べられているのは、NPO一般に当てはまる理念的な話である。分析の焦点が前半と後半でずれているとも言える。
 
 
 次に、分析の方法に関することを指摘すると、著者たちが行ったアンケート調査では、「民間資金型」が34団体、「中間型」が199団体、「公的資金型」が63団体と、「公的資金型」は全体の2割ほどであるに過ぎない。

 だからといって「行政の下請け化」という問題提起が意味がないとは言えないと思うけれど、本の書き方として若干のずるさを感じる。

 最後は、著者に限らずマスコミなどでも見られる問題だが、NPOという言葉の使い方の問題である。

 NPOという言葉は、NPO法制定の前と後とでそこに含まれる意味が違っていることを認識しなければならない。

 すなわち、NPO法制定以前は、NPOと言うと“成果を上げている健全な団体”のことを指していた。

 だが、NPO法制定後はNPOと言うと“NPO法人”を指すに過ぎず、NPO法が法人格取得の要件をかなり緩くしたことを考えると、法制定後のNPO(つまりNPO法人)という言葉に規範的な意味を含めて考えるべきではない。

 この二つの言葉の混乱は、過去のNPOのイメージのままにNPO法人に過度の期待を抱かせたり、一つのNPO法人のスキャンダルを従来イメージされていたNPOの問題と認識させたりという問題を生じさせている。

 この本でも、従来の法制定以前のNPOのイメージからNPO法人(の総体や制度)を評価するという混乱が見られる。
 
 
 さて、以上3つの問題を指摘したが、これらを好意的に解釈すれば、まだ「行政の下請け化」の問題が(全体の2割と)浅く、NPO法制定以前のNPOの良いイメージが残っているうちに、NPOのあるべき姿を提示したとも言える。

 こう考えれば、意義のある本だとは思う。

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 イマニュエル・カント 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編(中山元訳/光文社古典新訳文庫、2006年)
 
 
 「いまの言葉」で訳すことを売りに最近創刊された「光文社古典新訳文庫」の中の1冊。

 この本に収録されているのは、「啓蒙とは何か」、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」、「永遠平和のために」の5編。これに、訳者によるかなり長めの解説が付いている。

 「永遠平和のために」だけは読んだことがあった。他は初めて読んだ。

 おもしろかったのは、「啓蒙とは何か」と「人類の歴史の憶測的な起源」。
 
 
 「啓蒙とは何か」は、短いけれど啓蒙主義者カントのエッセンスが詰まった名文。自分の理性を使う勇気をもてと訴えている。

 理性にとって肩身の狭い現代において、改めてカントが広く読まれたら嬉しいことだが、まずあり得ないだろう。

 なら、もういっそのこと、ネオコンばりに“理性帝国主義”を掲げて理性による“自衛戦争”を仕掛けるべきではないだろうか?

 どうせ完全には征服できないから、これぐらい激しく行ってちょうど良くなるだろう。
 
 
 「人類の歴史の憶測的な起源」は、カントの啓蒙主義的な人間観・人生観を聖書が描く歴史の起源から論じているもの。

 啓蒙主義者カントと、あと一歩だがまだ神を捨てきれないカントとが混ざり合っていておもしろい。(カント自身は確信を持って混ぜているのだが。)
 
 
 と、なんともカントっぽくない内容の無いことを書いてしまったが、カントが描いている啓蒙主義的な人間像は、現代の市民社会(論)にとって重要である。

 なぜなら、(昨日の記事で書いたように)現代市民社会論が利益団体自由主義と道を分かつためには、カントが一つの(やや極端な)型を提示しているような(理性的で共和主義的な)人間像や市民像を示さなければならないからである。

 実現可能性を考えるなら、啓蒙主義や共和主義の分はかなり悪い。

 しかし、困難であるからこそ逆に、「現代においてどこまで理性や啓蒙主義を擁護・主張できるのか?」という問題に立ち向かうのはおもしろい。

 白田秀彰 『インターネットの法と慣習(ソフトバンク新書、2006年)
 
 
 知的財産権法の専門家が、インターネット社会において規範や法についてどのように考えていくべきかを、どちらかといえば法制史的あるいは法哲学的な根本の部分から説明しようとした本。

 著者が自身の専門である知財法からではなく、法制史や法哲学から説明しようとしているのには訳がある。

 すなわち、法律は実際の行動や慣習が基になって作られるものである。しかし、インターネットの世界はまだその慣習や規範が作られる途上にある。また、インターネットの世界には現実世界とは異なる慣習や価値がある。であるならば、インターネットの世界に現実世界を基礎とした法律を当てはめることには慎重でなければならない。そして、インターネットの世界に適した慣習や法律を法制史や法哲学を参考にしながら新たに作っていかなければならない。

 著者はこのように考え、法制史的・法哲学的な観点から現実世界とインターネットの世界とを対比させて、その違いを明らかにしている。
 
 
 インターネットに関係する法について具体的に踏み込んだ話を期待して読むと期待外れだけど、具体的な話に行く前の前提として絶対に踏まえておくべきことだとは思う。

 こういう前提を知っておくことは、インターネットを知らない政治家とか、そういう政治家に影響力を行使できる(著作権等からレントを得られる)私企業とかが変な法律を作ろうとしたときに騙されないための手助けにもなる。

 太田光、中沢新一 『憲法九条を世界遺産に(集英社新書、2006年)
 
 
 爆笑問題の太田光と宗教学者の中沢新一による憲法9条論を中心にした対談。

 
 
 やはり、太田光の言うことは、(主張自体の如何は別にして、)新鮮で、鋭くて、面白い。
 自分の凝り固まった思考や想像力を拡げてくれるし、見事すぎて主張としても正しく思えてくることしばしば。

 実務家でも学者でもないという意味での「評論家」とは本来こういう存在であるべきなんだろうと思う。
 
 
 ところで、太田光は「何か言うときに、信念か笑いかといったら、自分はコメディアンだから笑いを選ぶ」というようなことをテレビなどでよく言っている。

 この態度を、「ふざけている」と批判することもできるけれど、この本でたくさん語られているように「それだけ笑いの力を信じている」と理解するべきだろう。

 特に、真面目に(「サンチョ・パンサ国際政治」的に)太田光の発言に怒っている人は知っておくべき。

 次の発言は、どこまで本気か分からないけど笑いへの熱い気持ちを窺わせる。

若い人たちが、自殺サイトで死んでいくのも、この世の中に感動できるものが少ないからなんでしょう。それは、芸人として、僕らが負けているからなんだと思うんです。
 テレビを通じて、彼らを感動させられるものを、何ら表現できていない。極論を言えば、僕の芸のなさが、人を死に追いやっているとも言える。だとしたら、自分の感受性を高めて芸を磨くしかないだろう、という結論に行き着くわけです。 (pp154-155)

 
 
 しかし、それにしても、なんで中沢新一なんだろう?

 実際、中沢新一、蛇足ばかり。

 太田光が鋭くおもしろいことを言った後に、わざわざ小難しい例を持ち出して、話の焦点をぼかしたり、発言の鋭さを弱めてしまうことしばしば。ミスキャストと言わざるを得ない。(太田光の対談相手は大変だろうけど)
 
 
 でも、なにはともあれ、全体的に「こういう風に憲法を語ることもできるのか」と思わせてくれる一冊。

 谷岡一郎『「社会調査」のウソ――リサーチ・リテラシーのすすめ(文春新書、2000年)
 
 
 世論調査などの様々な「社会調査」は、世の中に数え切れないほどたくさん存在していて、毎日一つ以上は必ず目にするくらい浸透している。

 しかし、そのほとんどは統計の初歩的な方法論や手続きさえも踏まえていない、誤った情報や誤ったメッセージを発するだけの「ゴミ」であると著者は嘆く。しかも、「ゴミ」は他のところで(「ゴミ」と知ってか知らずか)利用されることで更なる「ゴミ」を生み出していく。

 この本では、実際に世の中に出された「ゴミ」の実例を実名で紹介しながら、「社会調査」に騙されないためのチェックポイントを分かりやすく教えてくれている。大事なところではキーワード的な専門用語(キャリーオーバー効果とか、強制的選択とか)を出してくれているから、要点がとても掴みやすい。

 実例としては国の官庁や研究者などのものも挙げられているが、特に遡上に載せられるのは朝日や読売などの大手新聞によるものである。自分は、普段から新聞に載っている各種調査のほとんどを「話半分以下」にしか信じていないけど、改めて見るとやっぱり酷い。

 特に致命的だと思うのが、マスコミの人間にリサーチ・リテラシーがないために、官庁や民間企業の行った調査結果をそのまま鵜呑みにして報道し、“権力”のチェックどころか、“権力”の提灯持ちをしてしまっていること。
 
 
 
 ちなみに、リサーチ・リテラシーは今では確かに重要だけど、論理的思考力と想像力があれば、この考え方自体にはある程度近づけるから、これを高校で教えるべきだとは思わない。「社会生活を営む上で重要だけど知らないと全く分からないもの」こそを高校では教えるべきだ。法教育とか。

 ただ、リサーチ・リテラシーは学問をする際の初歩的な知識なのだから、「大卒」(人文系は除いていい)という肩書きを持っている人のほとんどが身に付けているようになるべきだとは思う。現実からは程遠い目標だが。

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