[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
宮崎哲弥 『「自分の時代」の終わり』 (時事通信社、1998年)
テレビや対談などでも自覚的に「評論家」の立場に徹するため、断片的にしか主張が分からなかった宮崎哲弥の単著を初めて読んだ。
とはいっても雑誌に掲載された短文と対談をまとめたもの。
でも、考えの大枠はだいぶはっきりしたように思う。
すなわち、一つは、家族とか地域共同体の、人間形成、共通規範形成といった役割を重視するコミュニタリアン(共同体主義者)の立場。
もう一つは、自分(や人生)の本質を「空」とし、自分(や人生)を「独立的実体」ではなく多様な「流れ」のようなものとして捉えるラディカルブッディスト(訳すと根源的仏教者?)の立場。
この「主義」自体は各所で表明されていたことだけど、それぞれの「主義」から事物を語っている文が各部(章?)ごとに集められているから、「主義」の内容を体系的に把握できる。
おもしろいと思ったのは、コミュニタリアンの立場から社会問題を見るときの視角。
政治(国家)、経済(市場)、社会(共同体)という3つの空間を措定し、共同体が国家や市場に侵されている(植民地化されている)から、国家とも市場とも重なり合わない共同体を保持・創出すべきだと言っている。
まさにハーバーマスの枠組み。
一点違うのは、社会(の中心)を「共同体」と見るか「市民社会」と見るかというところ。
これらは競合しないようにも思えるし、競合するようにも思える。
例えば、自立を重視したイギリスの「第三の道」は家族や共同体の再興を唱えている。
「家族」という言葉で「イエ制度」を思い浮かべるか「核家族」を思い浮かべるかによっても異なってくる。(※宮崎哲弥は「イエ制度」を存続させることになるという理由から夫婦別姓に反対している)
けれど、そこで前提とされている人間観は、リベラル-コミュニタリアン論争の中心的な主題にもなるくらい対立しているものでもある。
実際、宮崎哲弥のラディカルブッディストとしての人間観はリベラリズム(=近代主義)の人間観を敵として想定している。
でも、個人的には、国家とも市場とも異なる多様な帰属先の保証という観点からすると、家族とかの「共同体」とNPOとかの「市民社会」は対立せずに共存可能だと思う。
人間観も、私的な領域では共同体的な価値観を尊重し、公的な領域ではリベラルな価値観を想定するという使い分けによって“ある程度は”解決できるように思う。
というか、使い分けないといけないのではないかとさえ思う。
というのは、コミュニタリアンの基礎となる共同体を人工的に作ること、あるいは、コミュニタリアンによる社会問題の解決というのが果たしてどこまで可能なのか疑問だからである。
この本にも、(親から子への)「虐待の再生産」みたいな、“厳しい”家庭環境の下で育った人による問題が語られているのだけど、ではいかにして家庭崩壊を防ぐのか、崩壊した家庭で育った人をどのように扱うのか、といったことにはほとんど触れられていない。
あえて家族の存在価値を否定する必要は全くないけど、「理想的な家族」を政治によって作るというのはほとんど無理なことではないだろうか。
以上のような問題点があるだろうに政治の中心で「理想の家族」を唱えている安倍首相に対しても同様の疑問は投げかけられる。
ただ、宮崎哲弥は、下村官房副長官みたいに女性の社会進出を抑制する方向ではなく、男性が市場=仕事に隷属している状態から抜け出して家庭に目を向ける方向での家庭の再興を目指している。
ハーバーマス的な枠組みで考えて、男性の家庭や諸共同体への関与を促すという、こういう家族や地域共同体の位置付けならリベラリストでも受け入れられる。
河合香織 『セックスボランティア』 (新潮文庫、2006年)
2004年に出版されて話題を呼んだ、障害者の性に関する色々な実例を集めたルポルタージュ。
具体的には、介助者を伴って風俗に行く脳性麻痺の男性、障害者専門の風俗店、障害者同士のセックス、先進的な試みを行っているオランダの話などが取り上げられている。
言葉が話せない、手を動かせられない、一人では体を寝かせられない、といった性行為にとって欠かせない物理的な障害をいかに克服するか、いかに“介助”するか、という問題はあるけれど、それ以外のところは(常に満たされている状態にある一部の人を除いた)大多数の健常者と変わるところはない。
だから、この話題をタブーとして封じ込めてしまうことは残酷であり、慈悲や情けによって解決を試みることは傲慢である。逆に、障害者を受け入れてくれる風俗店(ボランティアではない)があるというのは望ましい(ありがたい)。
やっぱり、しょせん、健常者と障害者の違いなんて相対的なものに過ぎない。人間誰しも問題を抱えている。この相対的な違いを絶対的なものだと考えて両者を不必要に隔絶させてしまうと問題が生じる。
というか、実際のところ、健常者の立場を優越的に感じて障害者を見下すような意識は自分にはとても持てない。 (「道徳的に持つべきではない」という以前に、「実際問題として持つことができない」ということ)
飯田泰之 『ダメな議論――論理思考で見抜く』 (ちくま新書、2006年)
自分にとって心地良い話ばかりを受け入れるといった感情的な反応から抜け出して、客観的で冷静な立場から言説を判断する方法を示している本。
「ダメな議論」に騙されないための手軽な方法として5つのチェックポイントを挙げている。「定義」、「反証可能性」、「不安定な結論」、「データ」、「例え話」の5つ。
その上で、「ニート言説」、「食糧安保論」、「財政破綻論」といった俗説を批判的に検討している。
この手の本は類書がけっこうあることもあって、目新しさはあまりない。
とはいえ、こういうことって頭で分かってはいても実践するのが難しいから、何度も読んで自分に言い聞かせることにも意味はある。
ただ、より重要なのは、こういう(学問的な)議論の作法を無視するような人にいかに読ませるかにあるのだから、正攻法ではなく、もっと色々な工夫が必要な気がする。
そういう意味でも、本文中にいっぱい出てくる「例文」を、自作ではなく本、雑誌、新聞とかから拾ってきた方が相手を巻き込めて良かったと思う。
その方が、類書を読んでいる人からしてもおもしろいし。
門倉貴史 『統計数字を疑う』 (光文社新書、2006年)
新聞やテレビでよく見かける統計データを一つ一つ取り上げ、そのおかしな点、注意すべき点に分かりやすく突っ込んでいく本。
類書と違うのは、統計学を教えることを前面に押し出してなくて、身近な例を一つずつ解説していって結果として統計センスが身に付くようになっているところ。
取り上げられるのは、平均寿命、出生率、「豊かさ指標」、犯罪検挙率、「割れ窓理論」、「○○の経済効果」、消費者物価指数、新興国の経済統計、地下経済など。
著者はエコノミストだから経済統計が多めになっているけど、本当によく目にするものばかり取り上げられているから、興味を持続できるし、即効性がある。
また、「その統計データがどのように作られているか?」というところから説き明かしているのもこの本のユニークなところ。つまり、データの読み方を教えるだけではない、ということ。
特に、民間シンクタンクが作る「○○の経済効果」というしばしば新聞をにぎわす試算の出し方は初めて知った。やっぱり大抵のものは真に受けてはいけない代物だ。
この「○○の経済効果」に関しては、これを作る民間シンクタンクの内部事情も書かれていておもしろい。予想通り、少しでも目立つことが使命となっているようだ。まあ、需要があるから供給するわけで、面白ければ報じてしまうマスコミの問題も大きいが。
数字を全く信用せず自分の直感だけを頼りにするのもきついが、数字を出せばそれで終わりというのもきつい。
この本は後者の人に効果がある本であって、前者の人の信念を強めるための本ではない。
この本の射程範囲を超えることだけど、果たして、最近テレビによく出てくる「教育を語る人たち」のように前者に属するような人にはどうすればいいのだろうか?
仲正昌樹 『ネット時代の反論術』 (文春新書、2006年)
「 偉い人は、こちらがいくら真面目に批判しても、金持ち喧嘩せずという調子で無視するし、うさばらしで誰でもいいからと見境なしに喧嘩をふっかけてくる2ちゃんねらーのようなバカ者たちは、こちらがいかに論理的に話をしても理解せず、馬耳東風で聞き流してしまうということが実感として分かってきた。 」(p216)
という著者が、
「 バカに対して反論するなんて、基本的に同じレベルのバカのやることだから、やめといた方がいいですよ 」(p214)
というメッセージをこめた本。
著者が認めているのは、冷静な学問上の議論と、ルールの決められたディベートくらい。
この本では、いわば「議論社会学」とでもいうような分析と、それに基づく「議論戦略」が冷淡に語られている。
「相手にまともに答えない」とか、「自分の評判を気にしないで相手だけを叩く」とか、“勝つ”ための技術が色々出てくる。
著者が語っているメッセージにしても技術にしても、今までの経験からある程度は分かっているつもりではあるのだが、最大の問題は、「では、どのようにして感情的になるのを抑えるのか?」ということなのだ。
プライドも正義感も全てを捨ててしまえば、何を言われてもクールでいられるだろう。
けど、それでは、そもそも何かを主張すること自体に意味を見出せないし、娯楽小説以外の本は読む気にもならないだろうし、何より人生がつまらなそうだ。
かといって、プライドとか正義感とかを持ち続けると、感情的になり・・・、ということになるのだ。
明らかな誤解とか「脊髄反射」とか単純なレッテル貼りの受容とかも大抵は感情的になってる人に多いわけだし、そもそも感情的になってるとこの本で挙げられている技術も使えないわけだし。
そんなわけで、この本は「逃げたくない」と思ってしまう人間にとっては、力を与えてくれるものではない。
まあ、ただ、「(特に匿名なネット上には)バカが多い」という現実を認識するだけでも冷静になるのには役に立つとは思うけど。