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 梓澤和幸 『報道被害(岩波新書、2007年)
 
 
 犯人視報道や遺族への集中豪雨型取材といった“報道被害”の救済活動をしている弁護士が、報道被害に関する実態、救済手段、改革案を分かりやすく冷静に説明している良書。

 いかにも「優秀な実務家」といった感じの、現実的で人権感覚もあってバランスの取れた筆致が良い。

 それにしても、改めて、(新聞とかテレビとかの)マスコミって酷いなあと思う。

 前半の報道被害の実態のところを読んでるとき、ずっと、怒りに打ち震えてた。

 報道被害の問題とは離れるけど、マスコミって、ホントずるい。

 政府・警察発表に依存しておいて自分たちの都合で権力監視が役割だって言ったり、犯罪・不祥事を起こしたあらゆる人の責任を追及したり全国にさらしたりしておきながら記事・社説を書いてる責任主体を明確にしてなかったり、他人には厳しく言うくせに自分たちの行為に関する検証・反省をしてなかったり、権力監視の機能をほとんど放棄しておきながら必要なときだけ国民の知る権利を持ち出したり、人権が侵される犯罪を社会に知らせるために人権侵害したり、などなど、などなど。

 他人に厳しく自分に甘い。自分たちの都合で恣意的に公共性・国民を持ち出す。

 政治家、官僚、大企業とかでさえ自分たちに求められる最低限の倫理は一応守ろうとしてるのに、マスコミは自分たちに期待される倫理・理念さえも放棄してる。

 アナーキー。

 かろうじて理念を守ろうとしているのは、情報伝達という点では『ニュース7』(NHK)、権力監視という点では『報道特集』(テレビ朝日)くらいなものか。

 絶望。
 
 
 
 メモ1。マスコミに関しては政府が関わると問題になるから、弁護士(会)に大いに期待。

 メモ2。『〈犯罪被害者〉が報道を変える』。この本も読みたいと思い続けてるのだけどなかなか古本屋で見かけず、まだ読んでない。そろそろ観念するか・・・。

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 白井克彦 『早稲田はいかに人を育てるか(PHP新書、2007年)
 
 
 政治、経済、芸術、文化、スポーツ、犯罪と、良い面悪い面含めて、世間で注目を集めることがもっとも多い大学の総長による宣伝本。

 早稲田の目指している方向性と具体的な改革について、主に、教養(リベラルアーツ)教育、英語スキル教育、情報(コンピュータ)スキル教育の3つに絞って説明している。

 新書でこういうのを出すの(に手を貸すの)はいかがなものだろうか?
 
 
 そんなわけで、これはパンフレット的な本だから、ここで書かれてる内容はある程度割り引いて受け取らなければならない。

 特に、「寝る間も惜しんで勉強する学生が少なくない」という随所に出てくる理想的な学生像は、なんとも疑わしい。
 
 
 だけど、大学が目指している方向性は正しいだろうし、「チュートリアル・イングリッシュ」とかの具体策は高校生、新入生にとってはなかなか魅力的に見えるのではないだろうか。

 それに、何気に一番のポイントは、早稲田大学の、理念の実現に向けての実行力の高さ、フットワークの軽さが印象づけられることだと思う。
 
 
 それから、東大、慶応を意識していると思われる早稲田の自己イメージに関する次の記述もまた魅力的に聞こえる。

私は仕事で全国をまわっていますが、人々がある種の期待と信頼をこめた視線を早稲田に向けていることを実感しています。とりわけ世の中が順調に流れていないとき、官ではなく民の意思を代弁する早稲田的なるものへの熱い期待を感じとります。社会からの信頼が厚い分、その期待が裏切られる事態が生じると、世の中は早稲田に厳しい視線を向けます。民に支えられた「国民の大学」としてのブランド力は早稲田のかけがえのない財産です。 (pp198-199)

 
 そんなわけで、なんとも宣伝がうまいなぁと感じる本だった。

 宮台真司 『制服少女たちの選択――After 10 Years(朝日文庫、2006年)
 
 
 1994年に単行本で出された本に、現ライターである元援交少女3人との対談、援交を追い続けている社会学者圓田浩二との対談、中森明夫による解説、文庫版あとがきを収録して文庫化したもの。

 その後の宮台の本と比べると、内容、文体ともに堅くて難し目。

 内容は、93~94年頃書かれたブルセラ、援交に関するものと、90年に書かれた新人類とオタクに関するものとの二部からなっている。

 ブルセラ、援交、あるいは、96年の流行語大賞に入賞もした「チョベリバ」「ルーズソックス」(「援交」も入賞した)とかに代表される“コギャル・ブーム”は今となっては見る影もない。それだけに、ブルセラ、援交に関する部分は冷静に振り返るのに良い。

 一方で、新人類、オタクの方は、ここ数年「オタク」がブームであるだけに時宜に適っている。それに、「オタク」が肯定的に捉えられるようになってきたという社会状況の違いは大きいにしても、人格などに関する分析はほとんど今でも通用する。
 
 
 内容は多岐に渡り、興味深い指摘はたくさんあるけど、ここでは一つのことだけを書く。

 まず、宮台は、当時の援助交際をする女性の生き方を主に次のような理由で肯定的に捉えていたと振り返っている。(pp157-159)

 1.日本に根強いパターナリズム批判。援交少女たちは、自分の幸せは自分で決めるという姿勢であった。

 2.「まったり革命」あるいは「意味から強度へ」。オウム信徒は汚れた日常が許せなくて、輝かしい非日常を求めて一連の事件を起こしたけれど、そうした心性を中和するためにも、自己と現実との関係を微調整していく。「生きにくさ」をなんとか中和していく。そうした成熟した近代を生き抜くための新しい生き方として、援交少女をとらえられる

 しかし、10年経って、「パターナリズム批判」ではある程度成功したとしつつも、次のように振り返っている。

(援交少女の生き方を肯定的に捉えていたことを)今は間違っていたと思っています。なぜかというと、何よりも援交少女たちの、特に第一世代の援交少女たちのその後を観察すると、あまり幸福になっていない例が目立つんですね。 (p159)

 つまり、「意味」とか「物語」にすがらずに(いわば)短絡的に生きていく生き方は成功しなかった、ということである。

 近代主義者である自分は、かねてからそうなるだろうと思っていた。

 やっぱり、「仕事=楽しみ」という稀有な状態にある人以外は、「意味」とか「物語」みたいな長期的・形而上的・精神的なものは必要だと思うのだ。

 というか、宮台自身も、90年の新人類とオタクに関する文章の方では、「意味」の役割について認識している。人格システムの4つの類型ごとの〈世界〉有意味化戦略の違いについて述べているところである。

前二者(「バンカラ風さわやか人間」と「頭のいいニヒリスト」)は〈世界〉の有意味化と肯定的な自己イメージの獲得に成功しているのにたいして、後二者(「ネクラ的ラガード(対人関係の領域から退却する人)」と「友人ヨリカカリ人間」)は、〈世界〉の有意味化と肯定的な自己イメージの樹立に失敗している。 (p215)

 「バンカラ風さわやか人間」と「頭のいいニヒリズム」が有意味化に成功しているのは次のような共通したメカニズムによる。

「バンカラ風さわやか人間」は、自分をとりまく環境で何が生じているかにかかわりなく、〈世界〉は明るく有意味だ、と事実的にも規範的にも先決している。これと対照的なのが「頭のいいニヒリスト」で、〈世界〉は本質的に無意味であると、はじめから決められている。期待水準を切り下げておくことで期待はずれから身を守る例の免疫化戦略である。いずれにせよ、両者ともに、事前に〈世界〉の基本的なありようを構造化しておき、その基本的構造にそって了解を配置していく。すなわち両者の戦略は〈世界〉の「事前的構造化戦略」として、機能的に等価なのだ。この等価なやり方によって、両者の自信たっぷりの自己イメージが支えられている。 (p213)

 くどいようだけど、もう一つ具体的な説明を引用。

「無意味さ」という概念には注意してかかる必要がある。たとえば「人生なんて無意味さ」とあらかじめ決めてかかる「頭のいいニヒリスト」は、無意味さを生きているのだろうか。答えはノーだ。逆にかれらは、そうした先決を通じてきわめて前提の高い〈世界〉を生き、それによって自己像を温存している。ちょうど「人生はすばらしいものだ」と決めてかかる「バンカラ風さわやか人間」の営みとまったく同じ意味で、「頭のいいニヒリスト」もまた「無意味な世界」という有意味を生きているのである。 (p220)

 「意味」とか「物語」の役割、存在意義については以上の引用で十分に説明されている。

 これほど、「意味」「物語」の役割や重要性を認識していた宮台が、なぜ「意味から強度へ」という「まったり革命」なんていう野蛮な生き方を奨励したのかが謎なくらいである。

 その上さらに、「事前的構造化戦略」による〈世界〉の有意味化に成功していない「友人ヨリカカリ人間」と「ネクラ的ラガード」に関する記述を見ても、後の「まったり革命」の破綻が暗示されている。

「友人ヨリカカリ人間」はどうだろうか。かれらは「ネクラ的ラガード」同様、自己信頼が低く、情報処理能力も低い。しかしながら、「ネクラ的ラガード」とはちがって模倣的適応戦略をとるかれらは、じつは〈世界〉の不可解さ・将来の不透明さに直面することはない。模倣によって、システム単独では処理できない複雑性を、うまくやりすごしてしまっている。 (p222)

まさしく無意味を生きていると思われるのが、「ネクラ的ラガード」である。データにしたがえば、〈世界〉の不可解さに直面しているのも、将来の自分の見とおしがきかないのも、断然「ネクラ的ラガード」である。いまの人生ではなく、別の人生を生きてみたいという「異世界の夢想」が圧倒的にひんぱんなのもかれらである。 (p221)

 そんなわけで、結局、〈世界〉に「意味」を見出せないのは「ネクラ的ラガード」だけということであった。

 しかし、その類型のネーミングから明らかなように、彼らは「オタク」である。

 「オタク」は、ある特定の分野に関しては異常な関心を示し、社会的には認められてはいなくてもそれによって生きがいを見出していける。

 とすると、4つの人格類型が正しいとするならば、「一般的な人格」ないし「通常の状態」では、皆、何らかの「意味」を持っている(べき)ということになる。

 つまり、「意味」を持ちえず「オタク」でもない人がいたならば、それは例外的な存在だということである。

 したがって、「意味から強度へ」を推奨した「まったり革命」は、「例外的な人格」あるいは「非正常な状態」を推奨するものだったのである。
 
 
 以上のように、宮台自身の分析から考えても、「まったり革命」は失敗が約束されているものであった。

 やはり、「意味」とか「物語」は必要。

 このことを受け入れた上で、これからは、個人がいかにして「意味」や「物語」を獲得していくのかについて、その条件や過程を追究していくことが生産的である。 (※最近の宮台の、アイロニーとしての「天皇」「アジア主義」とかについては、フォローもしていないし、よく分からないから、上のことと関係しているのかどうかについては知らないので、あしからず。)

 東谷暁 『金より大事なものがある――金融モラル崩壊(文春新書、2006年)
 
 
 なんとも俗っぽいタイトルだけど、要はアメリカ型の「株主資本主義」を批判している本。

 福井日銀総裁の「内規には違反していない」発言から説き起こして、日本の一歩先を行っているアメリカの例を豊富に参照しながら、主体で言えば、村上ファンド、ホリエモン、オリックス宮内会長、野村證券などを、概念で言えば、コーポレート・ガバナンス、M&A、規制緩和などを、批判している。

 著者は、問題が起こるのは、人物のせいではなく仕組みのせいだとしている。

なぜ、この〔ライブドアとAOLの〕ように似たような現象が〔日本とアメリカで〕起こるのだろうか。それは登場する人物たちの性格が似ているからではない。金融経済の人々を駆り立てる仕組みが類似している場合には、そこで生じる不正事件も類似するだけのことなのだ。
 話題をよぶ新興企業がある。高利回りで投資したい金融機関がある。手数料と報酬を獲得したい投資銀行や証券会社がある。ごっそりと利鞘(りざや)を稼ぎたい投資ファンドがある。一儲けしたいコンサルタントがいる。うまく立ち回って金を自分に誘導したい法律事務所がある。利益相反など無頓着なアナリストがいる。そして、ちょっと小金を儲けたいデイ・トレーダーがいる。これらを結びつける仕組みが新たに許されるようになれば、発火温度は極端に下がり、お祭りがあっという間に燃え上がる準備はOKとなる。 (p89)

 村上ファンドとかライブドアとかの問題は、個人の道徳の問題に帰しても無意味だし、アメリカでの推移を参照しないのも愚かしい。(だから、テレビ、新聞の報道は全くと言っていいほど役に立たない。)

 その点、この本は冷静で包括的で有益である。
 
 
 ただ、問題点もいくつかある。

 一つは、批判したものの代替案がないこと。

 ヨーロッパ諸国のようなM&Aの制限など、断片的には書かれているけど、アメリカ型の「株主資本主義」の利点を補うものであるのか?といった基本的な疑問にも答えられていない。

 もう一つは、上の引用部分に見られるように合理的な経済アクターの存在を受け入れていながら、「文化」とか「信頼」とか経済非合理的に思えるものを重視していること。
 
 
 経済合理的なアクターを想定している代替案があれば良いのだけど、それがない限りは、「アメリカ型株主資本主義」は原理的・理念的であるだけに、否定しがたいところがある。

 オルタナティブについてはヨーロッパにヒントがありそうだから、ヨーロッパの資本主義に関する本を読む必要がありそうだ。

 日本で行われている「アメリカ型の株主資本主義」的な方向性での改革についての最終的な判断はそれからだ。

 とはいえ、良い本があるのだろうか?

 全く検討がつかないから、とりあえず、関係ないけど、最強ヘッジファンドと言われた「LTCM」の興亡に関する本が読みたい。

 長谷部恭男、杉田敦 『これが憲法だ!(朝日新書、2006年)
 
 
 憲法についての憲法学者と政治学者の対談。

 民主主義とか国民主権を重視する政治学者が攻め、立憲主義を重視する憲法学者が受けて立つという構図ですごく活発なやり取りが交わされてる。

 
 
 長谷部恭男は今の憲法学界をリードする学者である。

 そんな長谷部恭男の憲法観は、体系的な哲学のような、明確で開放的な基準に依ってではなく、その時々の社会情勢や社会通念に合わせて柔軟に条文を解釈していく、という法律学の特異性を極端にした見方に基づいている。

 すなわち、“憲法典”は、全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。 という憲法13条の個人の尊重および幸福追求権をほとんど唯一の“憲法原理”にした皆が一緒に生きていくための調整のルールに過ぎない。だから、憲法典の解釈は、文言をそのまま素直に理解するのではなく、この“原理”を守るという基準によってかなり自由に行うことができる。

 実にドライ。

 実際に書かれている条文なんて、いわば「“原理”を実現するという“ゲーム”のための“道具”に過ぎない」ということ。(だから、9条の解釈も、武力を放棄したら“原理”に書かれている「国民の生命」を守れないから武力を持てるように解釈すべきだ、という何でもありの問題含みのものになっている。)

 法律学に触れたことがない人からしたら、おそらく全くもって理解できる考えではないだろう。

 確かに、法律学は真実を追究する学問ではなくて実践的な学問だからやむを得ないところはある。

 だけど、ここまで開き直られてしまうと見過ごせない問題が出てくる。

 「なんで13条が“ほとんど唯一の原理”だと言えるのか?」

 突き詰めるとこれに尽きるように思う。

 この問題から派生して、法の支配の希薄化の問題とか、国民主権の骨抜き化の問題とか、権力の所在についての無自覚の問題とか、いろいろな問題が出てくる。

 実際、極端に言えば、長谷部恭男は民主主義(国民主権)なんていらない、あるいは、不可能だ、と考えている。

 例えば、「個人の生命に関わる9条の問題は国民の間で積極的に議論されるべきではないか?」というような杉田敦の問いかけ(p79)に対して次のように答えている。

国民的な議論を巻き起こすのであれば、もっとよく考えていただきたい。「この問題は、一体何と関連していて、仮にこの条文を動かすと、どういう帰結がもたらされ、その結果、日本のセキュリティーは全体として向上するのかしないのか」ということまで、全部含めて議論していただきたい。たとえば、9条の文言を動かしたとき、従来、内閣法制局を中心に組み立てられてきた歯止めは吹っ飛んでしまうのかしまわないのか。そのままなのであれば、条文を動かす必要はない。吹っ飛んでしまうとなると、それにかわる歯止めはどうするのか。法律で決めますというだけで、そのときどきの政治的多数派に対する歯止めになるのか。憲法上の歯止めがなくなってしまったときに、周辺諸国や同盟国との関係は、日本が国際紛争に巻き込まれる危険性は、新たに正統性を得た自衛隊が政治的発言力を増す可能性はどうなのか。
 そこまで含めて議論するのであれば、大いにやるべきだと思います。ただ、現在の日本の政治過程を見ると、はたしてそういう冷静な議論をするのに適切な環境なのか。さきほども言いましたが、日本の民主主義の危機的な状況を見ると、私は懐疑的だと言わざるをえないですね。 (p80-81)

 あなたは何様ですか? 神様ですか? 神の国の到来を待ち望んでいるのですか?

 憲法学という自分のテリトリー(=実存?)を守るためにここまで言うのか?と、ただただ呆れる。
 
 
 実際、ほとんどの憲法学者は民主主義が好きではないエリート主義者だ。(みんな自分では無自覚だけど。)

 だけど、一応国民主権を尊重するような倫理観は持っている。(いざとなったら国民主権を捨てるんだけど。)

 でも、長谷部恭男みたいにここまで開き直られてしまうと反発したくなる。

 この「反発したくなる気持ち」を大切にしたい。

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