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 ダニエル・H・フット 『裁判と社会――司法の「常識」再考(溜箭将之訳/NTT出版、2006年)
 
 
 アメリカの連邦裁判所ロー・クラーク、民間企業法規部、法律事務所、ロー・スクール教授を経て、現在東大教授である著者が、「日本人は訴訟が嫌いで、アメリカ人は何でも裁判沙汰にする」とか「日本の裁判所は政策判断を伴うような行動には消極的」とかいった「常識」に対して、具体例の丁寧な検討やデータを用いて反論している。

 学術書のような硬い作りではないから読みやすいし、内容もおもしろい。
 
 
 あっと驚いたことをいくつか簡単に。

・訴訟や訴訟の代替手段に関する日本・アメリカ・中国の3ヵ国についての国際比較調査では、ある紛争が発生したと想定して「訴訟か調停か相談か黙っているか」などにについての回答に3ヵ国間でほとんど差はない。日本人が特に訴訟を嫌っているわけでもないし、アメリカ人が特に訴訟を肯定しているわけでもない。

弁護士の一部を除いて、訴訟が楽しいと思う人は世界中どこをみてもほとんどいない。日本や合衆国、中国であろうと、おそらくどの国であろうと、ほとんどの人は、もしできることなら訴訟に訴えることなく物事を解決したいと望むことだろう。 (p45)

 
・例えば、交通事故に関する訴訟率は、日本ではかなり低くてアメリカではかなり高い。しかし、これは「日本人は訴訟嫌い」という文化的な要因によるものではなく、日本の予測可能性の高い裁判と裁判外紛争解決制度の存在によるものである。具体的には、時間等が高コストな裁判、和解の勧試(裁判官が判決の見通しを訴訟当事者に示唆する機会)の存在、裁判官が参照する過失相殺や損害額に関する詳細かつ明確な判断基準・算定基準の存在、事実認定における警察の実況見分の重視、交通事故相談センターといった裁判外紛争解決制度の存在、強制自賠責保険による補償額の標準化など。

こういったさまざまな制度による紛争の見通しがつきやすくなっていることを考えると、交通事故に絡む大部分の紛争が、保険制度や、当事者間の相対交渉を通じて容易に解決され得るのは、驚くに当たらない。そこで解決されない紛争についても、無料ないし低額の紛争解決サービスが存在するとともに、明確かつ詳細で画一的な判断基準が公表されていることによって、訴訟はたやすく代替されてしまうのである。こういった制度的枠組みがあれば、多くの紛争は、訴訟に頼ることなく解決され得ると期待できるだろう。 (p65)

 
・批判的に言われることの多い日本人の法意識・行動様式が、アメリカで好意的に受け取られて改革に際しての参照にされていることがある。

日本のモデル――川島(武宜)が当初紹介したものである――は、合衆国でのアプローチを転換させるにあたって一定の役割を果たした。1970年代、ADR手続きを法定するようになった際、日本での事例がかなり頻繁に参照された。日本の事例は、裁判所の負担を軽減し、より友好的な紛争解決を実現するといった、調停その他の非公式な紛争解決手続きによって得られる効果の理想像として持ち上げられた。 (p34)

 
 
 この本は川島武宜『日本人の法意識』の見方を批判している。ただ、批判に重きを置いている分だけ、日本人の法意識・行動様式に関する全体像を提示するところまでは至っていないという難点がある。

 けれど、それでも川島武宜的「常識」から、新たな「常識」を提示したことの意味は大きい。 (法学の中でもマイナーな分野で、メジャーな分野に影響も与えられない法社会学の分野では、すでに知られていたことかもしれないけど。それにしても、法社会学=法に関する実証研究の弱さは問題だ。法律の解釈において法社会学的な知識や見方は解釈の結論に影響を与え得る。)

 一つには、「日本人は伝統的に争いを好まない人種だ」という日本人論に対して疑問を提示することになる。

 その一方で、近代化のテーゼの下、権利意識の強化や、契約・法律・裁判といった公的制度を安易に持ち出すことの是非についても問題を投げかけている。

 この2つ目の問題は、逆に言えば、「法の分野における近代(化)という未完のプロジェクトは何になるのか?」と言い換えることができる。(さらにハーバーマスの言葉を使って言えば、「いかに生活世界を法律から守るのか?」ともなると思う。)

 法曹人口の倍増、裁判員制度の導入、法教育の推進といった国民の中に法律を浸透させ、また逆に法・裁判制度を国民に近づけることがなされようとしている中で、過度に法律や法的思考に縛られてしまう前に、法世界と生活世界との適切な均衡点を定めるためにも、この問題に答えることが求められる。(特に自分みたいな近代主義者に。)

 すべきことが済んだら考えなくては。

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 パオロ・マッツァリーノ 『つっこみ力(ちくま新書、2007年)
 
 
 『反社会学講座』の著者が新書に進出。

 笑える異質な新書であることには間違いないんだけど、経済学者たちとの(あまのじゃくな)闘いは「もういいよ」という感じ。

 インセンティブの話にしても、全く間違いというわけでもないんだろうけど、論争のある主張とか、程度問題にすぎない主張とかを根拠につっこんでも、破壊力が小さくて笑いにはなりにくい。

 「 国内旅行するならどこに行きたい? 」
 「 竹島! 」
 「 外国じゃねーか! 」
 
 
 次作で無条件降伏するなりして、さっさと笑いに変えてしまって欲しいものだ。

 せっかくの笑いのセンスがもったいない。
 
 
 反論する経済学者たちも、「正しさ」と同時に「おもしろさ」を追求してくれればいいんだけど、必死になっててそれどころではない。
 
 
 両者とも学ぶべきところがある。

 両者とも『反社会学講座』の成功を思い出すべきだ。

 ※自分のことは棚にあげておく。

 ダニエル・ベル 『資本主義の文化的矛盾(上)(林雄二郎訳/講談社学術文庫、1976年)
 
 
 久しぶりに上巻だけ読んでみた。

 社会を構成する政治(平等志向)、経済(効率志向)、文化(自己充足志向)はそれぞれに矛盾をはらんでいるけれど、3つの領域のうち特に文化が大事だとして、文化が崩壊しつつあることに警鐘を鳴らしている書。

 社会科学、文学、絵画、演劇など、あらゆる分野から縦横無尽に引用している博識ぶりはすごい。
 
 
 だけど、いかにも時代拘束的な本。

 1960年代のアメリカにおけるカウンター・カルチャーの自由奔放ぶりに影響されている。文化に関する記述は特に。

 文化を重視するのも、文化の「崩壊」に危機意識を持っているのも、そのためだと思われる。(もちろん、直接的に60年代の文化だけを論じているのではない。むしろ、もっと長いスパンに焦点が当てられてはいる。)

 とはいえ、この種の文化を重んじる主張はアーサー・シュレジンガーとかロバート・パットナムとか、アメリカには根強い時代“非”拘束的なものなのかもしれない。いつの時代の日本にもあるし。

 それでも、枠組み、視点の大きさが類例を見ないのは間違いないけど。
 
 
 それから、政治、経済、文化という3つに分ける枠組みより、ハーバーマスみたいに政治、経済、社会という3つに分けた方が、分析単位の同質性という点からして適切だと思う。
 
 
 「公共家族」という(当時の印象で)怪しげな概念が出てくる下巻はいいけど、中巻もできれば読みたい。

 と、思わせるだけのおもしろさは、主張のいかんにかかわらず、ある本ではある。

 沢木耕太郎 『テロルの決算(文春文庫、1982年)
 
 
 1960年の浅沼稲次郎暗殺事件で交錯するまでの、17歳の右翼テロリスト・山口二矢と社会党委員長・浅沼稲次郎のそれぞれの人生を追ったルポルタージュ。

 事実関係を知るにはいいけれど、「山口二矢がなぜ凶行に及んだのか?」を知るには、彼の人格や考えといった内面への踏み込みが不十分。
 
 
 山口二矢は以下のように言っている。

左翼指導者を倒せば左翼勢力はすぐ阻止できるなどとは考えていませんでしたが、これらの指導者が現在までやってきた罪悪は許すことができなく、一人を倒すことによって今後左翼指導者の行動が制限され、煽動者の甘言によって付和雷同している一般の国民が、一人でも多く覚醒してくれればそれでよいと思いました。 (p80)

 けれど、「文庫版あとがき」で著者自身が書いているように、まだ大人になりきれない17歳のときに人を殺したいと思うことは誰にでもあることである。

 そして、 あの時の浅沼の行為(※右翼の反発を買った発言)は、だから結局、あの時の山口二矢の行為は、国際政治の前にはまったく無効だったとだけはいえる (p319)のである。

 人を殺したいと思ったとき、人は二つの感情を抱く。殺したいという気持ちと、殺すことにどれだけ意味があるのかという気持ちである。

 ましてや政治テロであるなら、この後者の視点が重要になる。

 けれど、この本の山口二矢には、このことについて深く考えているところが出てこない。

 そして、浅沼なぞという小物(by右翼の杉本広義、p292)を殺したところで現実政治は変わらないということは当時でも想像できたはずだ。

 本当に山口二矢は天皇のことを思い、天皇を中心とした国家を作りたかったのだろうか?

 ただ「嫌い」という私的な(あるいは実存的な)未熟な感情に突き動かされて凶行に及んだようにしか見えない。

 ウェーバーのいう「責任政治家」という点からも、ニーチェの「価値転倒」という点からも問題がある。

 つまるところ、所詮は右翼も(左翼も)、一個人の実存にかかずらっているセブンティーンにすぎないということなのだろう。
 
 
 
 その後の展開を見ると、結局、山口二矢の行動のあるなしにかかわらず、社会党は政権を取ることも、政権を取れるまで自民党に肉薄することもなく、消滅寸前という状態にまでなる。

 そして、今この暗殺事件が取り上げられるとしても、それは“劇的な写真・映像を見たい”という人々の「覗き見根性」を満たすためにすぎない。

 犯行後、自殺するまで一貫して自らの行為に満足していた山口二矢の一生とは一体何だったのだろうか?
 
 
 この本を読み終わっての第一の感想は「虚しい」というものであった。

 武田徹 『NHK問題(ちくま新書、2006年)
 
 
 「公共放送とは何か?」についてちょっと変わった視点から論じている本。

 話題になっていたNHKの諸問題を直接論じているのではなく、そういった問題の論議の前提にあるべき原理的な問題を考察している。タイトルはミスリーディング。

 「“体育”としてのラジオ体操」と公共性を結び付けて話を進めたりと、問題の切り口、論証の過程は独特。ちょっと大澤真幸っぽい。

 だから、読み物としての面白みがある。
 
 
 けれど、最後の、公共放送=NHKのあり方に関する結論・提言には賛同しかねる。

 2つの主張に関して述べる。

 1つは、公共放送=NHKは、不遇な人の存在に光を照らす存在になるべきだという主張。

 いわば、「公共」放送であるNHKだからこそ、理想的なジャーナリズム機関になるべきだというもの。

 もう1つは、そういう理想的な公共放送にNHKがなれば、視聴者(市民)はNHKの存在を積極的に擁護するようになり、受信料を義務ではなく自分たちの権利として捉えるようになるというもの。

 つまり、視聴者が自発的にNHKの存在を必要だと認め、自発的に受信料を払うようになるというもの。逆から言えば、公共放送(NHK)に対する不満の伝達回路として受信料不払いも認めるべきだとしている。
 
 
 言うまでもないくらい明らかなことだけど、どれだけ理想的な人間たちを想定しているのか。現実離れも甚だしい。

 NHKは今の日本の報道機関の中でもっとも公務員的な機関であって、ジャーナリズムとはもっとも遠いところにいる。

 そして、多くの国民は、そういうNHKの硬さ、真面目さ、(建前としての)公平中立さを、多少の政府寄りなところに目をつぶってでも支持しているのだ。

 それから、NHKが望ましい機関になれば視聴者が受信料を自発的に払うというのも、理論的にも現実的にもあり得ない。

 おそらく、受信料は漸減していき、NHKが破綻寸前という苦しい状況になって、広告収入に頼る一民放に堕するか、政府にいいように介入・利用されるかのどちらかだ。

 そんなわけで、著者の提言は方向性にも実現可能性にも重大な欠陥がある。

好きになれない人間のタイプが二通りある。「公共性」を口癖のように軽々しく言葉にする手合いと、「ジャーナリズムかくあるべし」と説教するような輩だ。 (p7)

 と、冒頭に述べているのと同じ人とは思えない。
 
 
 
 とはいえ、硬くて真面目で公正中立(で多少政府寄り)な報道を、“政府の介入なしに”実現する必要が当然にある。

 けれど、NHKというのは、常識とか、バランス感覚というものが驚くほどないから恐ろしい。

 ここのところの『ニュース・ウォッチ9』は、本当に目に余るくらいに特定のニュースを多く放送して(政府の機嫌を取って)いる。 (NHK最後の砦は『ニュース7』ではあるのだけど。)

 これでは(建前としての)公正中立が成り立たない。

 果たしてNHKは、政府の側につくのか、国民の側につくのか?

 (※念のため。常識のないNHKは、「国民のため」というと「国民におもねること」を短絡的に思い描く癖があるのだけど、ここでいう「国民の側」というのは「硬くて真面目で公正中立な情報伝達を行うこと」を意味している。)
 
 
 ちなみに、NHKがいかに政府寄りの報道をし、政府の正統化機能を果たしてきたかについては、エリス・クラウス『NHKvs日本政治』がある。(途中までしか読んでないけど。)

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