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武田徹 『NHK問題』 (ちくま新書、2006年)
「公共放送とは何か?」についてちょっと変わった視点から論じている本。
話題になっていたNHKの諸問題を直接論じているのではなく、そういった問題の論議の前提にあるべき原理的な問題を考察している。タイトルはミスリーディング。
「“体育”としてのラジオ体操」と公共性を結び付けて話を進めたりと、問題の切り口、論証の過程は独特。ちょっと大澤真幸っぽい。
だから、読み物としての面白みがある。
けれど、最後の、公共放送=NHKのあり方に関する結論・提言には賛同しかねる。
2つの主張に関して述べる。
1つは、公共放送=NHKは、不遇な人の存在に光を照らす存在になるべきだという主張。
いわば、「公共」放送であるNHKだからこそ、理想的なジャーナリズム機関になるべきだというもの。
もう1つは、そういう理想的な公共放送にNHKがなれば、視聴者(市民)はNHKの存在を積極的に擁護するようになり、受信料を義務ではなく自分たちの権利として捉えるようになるというもの。
つまり、視聴者が自発的にNHKの存在を必要だと認め、自発的に受信料を払うようになるというもの。逆から言えば、公共放送(NHK)に対する不満の伝達回路として受信料不払いも認めるべきだとしている。
言うまでもないくらい明らかなことだけど、どれだけ理想的な人間たちを想定しているのか。現実離れも甚だしい。
NHKは今の日本の報道機関の中でもっとも公務員的な機関であって、ジャーナリズムとはもっとも遠いところにいる。
そして、多くの国民は、そういうNHKの硬さ、真面目さ、(建前としての)公平中立さを、多少の政府寄りなところに目をつぶってでも支持しているのだ。
それから、NHKが望ましい機関になれば視聴者が受信料を自発的に払うというのも、理論的にも現実的にもあり得ない。
おそらく、受信料は漸減していき、NHKが破綻寸前という苦しい状況になって、広告収入に頼る一民放に堕するか、政府にいいように介入・利用されるかのどちらかだ。
そんなわけで、著者の提言は方向性にも実現可能性にも重大な欠陥がある。
「 好きになれない人間のタイプが二通りある。「公共性」を口癖のように軽々しく言葉にする手合いと、「ジャーナリズムかくあるべし」と説教するような輩だ。 」(p7)
と、冒頭に述べているのと同じ人とは思えない。
とはいえ、硬くて真面目で公正中立(で多少政府寄り)な報道を、“政府の介入なしに”実現する必要が当然にある。
けれど、NHKというのは、常識とか、バランス感覚というものが驚くほどないから恐ろしい。
ここのところの『ニュース・ウォッチ9』は、本当に目に余るくらいに特定のニュースを多く放送して(政府の機嫌を取って)いる。 (NHK最後の砦は『ニュース7』ではあるのだけど。)
これでは(建前としての)公正中立が成り立たない。
果たしてNHKは、政府の側につくのか、国民の側につくのか?
(※念のため。常識のないNHKは、「国民のため」というと「国民におもねること」を短絡的に思い描く癖があるのだけど、ここでいう「国民の側」というのは「硬くて真面目で公正中立な情報伝達を行うこと」を意味している。)
ちなみに、NHKがいかに政府寄りの報道をし、政府の正統化機能を果たしてきたかについては、エリス・クラウス『NHKvs日本政治』がある。(途中までしか読んでないけど。)