忍者ブログ
by ST25
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 山形浩生 『新教養主義宣言(河出文庫、2007年)
 
 
 評論家、翻訳家、大手シンクタンク・コンサルタントである著者が各所に書いてきた文を集めた本の文庫化。書評1本、文庫版あとがき、宮崎哲弥による解説が新たに加えられている。

 書籍用に書き下ろされたのではない文は、著者のウェブサイトで読めるけど、移動時間用につまらない新しい本を買うよりは、読むのが二度目でも確実におもしろいし有用だから購入。 (けど331ページの文庫が798円とちょっと高め。)

 やはり、鋭さと自由さゆえの痛快なおもしろさがある。
 
 
 「プロローグ」では、教養の効用について啓蒙的に語っている。本人がどこまで本気かは分からないけれど、かなり納得させられる。 (ここでは教養の定義とか細かいことは気にしない(する必要がない)。)

 ただ、著者は消費者の側の教養のなさばかりを語っているけど、今では生産者側に全く教養がない(上にそれに開き直る)という終末的状況が現れている。これで消費者に教養を求めるのは酷である。新しい作品を消費する限り、教養は必要ないのだから。

 とはいえ、この「プロローグ」を読むと「教養、身に付けよう!」というモチベーションが沸いてくる。
 
 
 そんな風に読者を巻き込んだ上で、著者の教養が縦横無尽に使いこなされていく。

 著者の話は、不真面目で適当でトンデモナイもののように思えるけれど、その表面上の見た目に流されずに真面目に向き合うならば、反論するのがかなり難しい。

 例えば、「消費税を7%に上げよう!」。不景気脱出のために消費税の増税を主張している。

 昨今の不景気は消費者のデフレ期待によって起こっている。そこで、日銀が(緩やかなインフレ率の)インフレ目標を掲げることで消費者をインフレ期待に変えようとするのが、クルーグマンなどによって唱えられる通説である。

 これに対して著者は、政府が消費税増税という「強制的な“インフレ策”」を掲げることで消費者をデフレ期待からインフレ期待に変えることができるとする。具体的には、2年後に7%にし、そのまた2年後に10%にすると宣言するとか。

 もちろん、この政策は永続的ではないし、期待を変えるきっかけにしかならない。けれど、現状のデフレ期待による不景気(まだ抜け出していない)を脱出する政策としては筋が通っている。

 この主張を、日経読んで満足してるようなレベル以下の人たちに真面目に訴えたら納得してしまいそうだ。

 ( ※ちなみに、例えば、民間で消費されてた分が公共部門に行くわけで、その(民間部門に比べた)公共部門による消費の非効率の分がマイナスになると考えられる。けど、金が余ってる状況での増税なわけで、貯金してる分=銀行に余ってる分が税金として吸収されるだけとも考えられる。しかしながら、そもそも、増税の目的はとりあえずの需要を増加させる(とりあえずインフレ期待を起こさせる)ことにあるのだから、上の話は反論にはなっていない。となると、増税効果による需要増は増税後の消費を先取っただけで、結局、増税後の消費を減らすことになり、これが、とりあえずの需要増よりも良くないことを示さないといけない。 )

 この主張以外にも、選挙権を1人10票にして1人3票まで売買可能にする案とか、権利というものの存在を退ける主張だとか、「教科書に書いてあるから正しい」とか「みんなが言ってるから正しい」とか言ってる人には到底反論できないような主張が登場してくる。

 経済学などの学問に裏付けられているとは言え、この発想のしなやかさは、著者が造詣の深い分野の一つであるSF小説に由来するのではないかと想像され、色々とSF小説を読んでみようかと思わせる。 (時間があれば実際に色々読んでみよう。)
 
 
 そして、文体。

 正直なところ、このブログで自分が(特に)ダメな対象を語るときの語り口・口調(および内容の一部)は、この著者に影響されている。というか、自分の頭の中の調子(?)が著者の語り口・口調と近かったから影響を受けた、というのが正確なところ。

 とはいえ、自分にはどうしても拭いきれない真面目さの存在は大きな違いではある。

 それに、社会系の話を語るときには特に、そう気楽にはなれない。これは文体にも内容にも当てはまる。

 まあ、これらは(大上段から正当化すると)民主主義的・共和主義的・啓蒙主義的信念を持っている一日本国民としては譲れない一線のような気がするから別にいいと言えばいいのだけど、いかんせん内容がつまらなくなるのがブログとしては問題だ。悩ましい。
 
 
 色々語ってきたけど、この著者の本はおもしろいからついすらすらと読んでしまうのだけど、騙されないためにも勉強するためにも自分を鼓舞するためにも、改めてじっくり読んでみる必要がある。

PR

 宮台真司、宮崎哲弥 『M2:ナショナリズムの作法(インフォバーン、2007年)
 
 
 俊秀な論客2人による、相変わらず鋭く過激な対談。今回ので最終回。

 書籍用に太田光を交えての鼎談が収録されている。

 ただ、前半の宮崎&太田だけのときは、「全部を覆す」おもしろさを目指す斜に構えた太田光を、宮崎哲哉が真面目に現実主義的に突っ込んでいて議論(の前提)が噛み合ってない。宮台真司が合流してからは解消される。ただ、宮台真司の前では太田光の鋭さも霞んでいる。
 
 話の内容は、女系天皇、ニート、北朝鮮、市場原理主義、国語教育など多岐に渡る。

 そして、その多くは説得的である。
 
 
 ただ一つ、特に気になったのが、今回多用されている「コーポラティズム」。

 ホリエモンや村上ファンドや宮内義彦などを念頭に宮台真司は次のように言う。

従来は「ダーティなコーポラティズム」があったが、国家財政が食い物にされたので「クリーンな優勝劣敗主義」が出てきた。なのに実際は「ダーティな優勝劣敗主義」だった。ならば揺り戻す先は「クリーンなコーポラティズム」しかない。論理的には自明だよ。ところが欧州的な「市民参加によるチェック」の伝統がない。とすれば、いずれは「ダーティなコーポラティズム」へと逆戻りする。
 (中略)
 結局日本では旧来の「ダーティなコーポラティズム」の中に可能性を探るしかないかもしれない。うまく行ってきたはずの「ダーティなコーポラティズム」がどこでつまずいたのかを反省してね。 (中略) 「ダーティなコーポラティズム」でありつつ、ゼネコンにぶら下がって全員で沈むんじゃないような、そんな選択肢を採れるかどうか。 (pp190-191)

 要は、もう一度、戦後からバブル崩壊までそれなりに成功していたやり方(社会主義とも言う)に改善を加えつつ戻そうということ。

 確かに、日本とアメリカという2つしか選択肢がないみたいな議論が多いから、コーポラティズムという大陸ヨーロッパ的な選択肢(用語、理論)を導入することには意義がある。

 だけど、90年代に入るまでの日本経済が成功したのは、本当にコーポラティズム的なやり方のためだったのか? また、(80年代に特に流行った)アメリカ流のマネーゲーム的な投資が入ってきた以外に、90年代以降の日本の経済システムにおいてそんなに“劇的な制度変更”は行われたのか? あるいは、90年代以降の変化をもう「ダーティな優勝劣敗主義」と決め付けてしまっていいのか? それに、日本では「クリーンな優勝劣敗主義」「ルール主義」は無理と言ってるけど、読売新聞の社説を書いてるような世代より下の世代の人たちにはむしろ、談合的な経済システムに対する嫌悪感の方が強いのではないだろうか?

 といった疑問がある。(まあ、どれも対談であるために話がナイーブであるところに由来するような気がするけど。)

 というか、近代主義者宮台真司が前近代的な方向に針路(退路)を取っていいのか?という根本的な疑問がある。これはいかんだろう、と。

 かなり大まかに指摘しただけだけど、今回の本の主張の大枠のところで考えが違うのは以上の点。
 
 
 コーポラティズムや政治経済学的な観点から戦後の日本経済を見ている研究というのはあるのだろうか?

 『比較政治経済学』をぱらぱら見た感じ、日本はコーポラティズムという概念からは少し逸れているような扱われ方をしていた。

 となると、経済学の見方(三輪芳朗などによる企業が頑張ったという主張)がやっぱり有力だということだろうか? あるいは、両者は矛盾しないのだろうか?

 興味深い。

 高山文彦 『「少年A」14歳の肖像(新潮文庫、2001年)
 
 
 神戸連続児童殺傷事件を引き起こした(当時)14歳の少年・「酒鬼薔薇聖斗」がどのようにして作られたのかを追ったノンフィクション。

 親による体罰、親の愛情への飢え、祖母の喪失、阪神大震災、ペットの死、教師・同級生による異質視、直観像素質者、生き物の殺害による性的興奮、独我論的世界観の形成、といったところがポイントとなっている。
 
 
 最後に収録されている短文で、宮部みゆきは( 作家の自分が解からないのに他の人が解かるのは嫌だからなのではと勘ぐってしまうが )「解からなくていい」と言っているけれど、やはり本書を読むとそれなりに「解かって」しまう。

 一つ一つの出来事を追っていき、それに精神医学的な分析をあわせると、やはり「酒鬼薔薇聖斗」が作られたのも必然だったと思える。

 ただ、そこで「解かる」のは、あくまで、「“酒鬼薔薇のような人”」、「“自分たちのような普通の人”とは違う“酒鬼薔薇のような人”」が作られる過程、理由にすぎないとも思える。

 「酒鬼薔薇」と似たような境遇で育った人、あるいは、似たような人格の人は絶対数的に見れば決して少ないとは言えない。にもかかわらず、彼だけが凶行にまで至った決定的な分岐点、差異は何なのかは「解からない」。

 この本では、「酒鬼薔薇」が、殺人衝動を持っている点や独裁者的権力者へ憧れている点などから画家のダリと似たところがあると指摘しているが、こういった、似ているのに違う人生になった人たちとの比較をこそ行うべきではないかと思う。

 第一歩としては「“普通の人”との差異」を知ることが必要だけど、「(いわば)“普通の人とは違う人”の中での差異」を知ることが次の段階として必要になる。
 
 
 ところで、この事件に関しては「酒鬼薔薇聖斗」の母親に対する批判が多い。

 「ちゃんと愛情を注ぐべきだった」、「躾の仕方が間違っていた」、「息子の異常性から目をそむけていた」、「通り魔事件が起きたときに息子が犯人だと分かったはずだ」など。

 しかし、これらの批判はあまりに道徳的すぎる。

 「一人一人が戦争しないと思えば戦争は起こらない」という性善説的な人間観に依った道徳的な平和論と変わりない。

 しかも、これらの道徳的批判は、「酒鬼薔薇」に対して「人の気持ちをわかれ」という単純な道徳的批判をするだけでは済まないと分かっている人たちによってなされている。

 「酒鬼薔薇」に対して「少年だろうがどんな事情があろうが残虐な事をしたのだから死刑だ」と、済ませない人たちであるなら、冷静に、母親の生い立ちを調べたり、家庭環境が良くなかった場合でも「酒鬼薔薇」のような人間を作らないための社会環境をいかに整えるかを考えたりするべきだ。
 
 
 それにしても、これまで、胡散臭さと自分自身への自信のために忌避してきた「精神」とか「心理」とかに関係のある学問(精神医学、精神分析、心理学等)にも少しは手を出さないといけないか、と最近思うようになっている。

 吉岡忍 『M/世界の、憂鬱な先端(文藝春秋、2000年/文庫版、2003年)
 
 
 1988年から1989年にかけて起こった連続幼女誘拐殺人事件の犯人である、宮崎勤という人間の真実を明らかにしたノンフィクション。

 力作。

  十年をかけ人間精神の恐るべき荒野を緻密に描きだした畢生の大作 という、帯に書かれた宣伝文は全く大袈裟ではない。

 久々に、読むのにかなりの体力を使った。
 
 
 宮崎勤というと、“ロリコン”と“オタク”という二つの言葉で短絡的に「理解」されがちである。

 しかし、そんな俗的なカテゴライズでは、「勃起を知らない」「その時々の流行(はや)りものへの異常な執着」「祖父の遺骨を食す」「遺体を切り刻む」といった数々の奇異な行為を理解することは到底できない。

 だからといって、“奇人”や“狂人”などと、自分とは全く違う別の種類の人間だと決めつけて済ませるのも間違っている。

 誰もが持っている人間の弱さ、それに、周囲の人々、生活環境、社会環境、時代背景といった様々な要因が加わることで、宮崎勤は、必然的に「作られた」。

 宮崎勤の人生を深く緻密に追うことで明らかになるのは、人間の真実であり、現代社会の真実である。

 異質なものを排除する人(社会)、現実(リアル)から目を背ける人(社会)、主体的な判断ができない人(社会)、他者の存在に無関心な人(社会)、あらゆるものをモノと見る人(社会)、他人を全く信頼しない人(社会)、攻撃的にしか自己表現できない人(社会)、等々。
 
 
 しかし、救いは、宮崎勤自身の中から見出すことができる。

 中でも重要なのが、気味の悪い「犯行声明文」の存在である。

 すなわち、

宮崎勤の犯行声明や告白文と同様、酒鬼薔薇聖斗も書きすぎていた。なぜ彼らはこんなにも長く書いてしまうのだろう。どうして思考のクセが出てしまうほどに書きすぎてしまうのか。自分が理解されていないという不満、わかってもらいたいという欲求、おれはここにいると叫びたくなるほどの衝動。これまでこらえてきた不満と欲求と衝動が、どちらでも噴きだしている。 (p432)

 宮崎勤(及び酒鬼薔薇聖斗)の人格の閉鎖性について読み知ってきた者にとって、これほど明るい光はない。

 これは、一方では、言葉や芸術を鍛えることで自己表現の能力と自己統合の能力を向上させること、他方では、あらゆる表現を否定・排除せずに受け止め、促すことという指針を与えてくれる。
 
 
 
 それにしても、重い。

 宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗を自分のこととして引き受ける(考える)ことは、重い。

 「正常な自分」とはもっとも距離があると思っていた人物が、自分とかなり似ていたことを知る戦慄、暗澹。

 簡単には抜け出せなくなりそうだ。

 そんな重いことを10年も続けた著者は、ただただ凄い。

 シルヴィオ・ピエルサンティ 『イタリア・マフィア(朝田今日子訳/ちくま新書、2007年)
 
 
 マフィアの行動原理や、マフィアと政治・経済・一般市民との関係や、マフィアに立ち向かう警察官・検察官など、イタリアのマフィアについて包括的に知ることができる本。

 様々なスキャンダルが伝えられるベルルスコーニが首相に選ばれる国の一面が垣間見れる。ここで描かれるイタリアの社会・政治・経済の現実は、近代国家の体をなしていない。
 
 
 最初、マフィアのルールとして 弱者は守れ/仲間は殺すな、必要ならば手を差し伸べよ/盗むな/他の男のものである女を望むな/常に態度は誠実で礼儀正しくあれ etc. (pp19-20)とか出てくるから、日本のヤクザとは大違いだなぁとか思ってたら、その後で書かれている現実は全然違うものだった。 (とはいえ、日本のヤクザとどっちがましかというのは、どんぐりの背くらべでしかない。)

 日本のヤクザとのアナロジーでは理解できない、イタリアのマフィアの特徴は(上で引用した道徳的・家庭的なルールのほかに)いくつかある。

・一般市民とのつながりが深い。そして、多くの、とまではいかないけどある程度の一般市民がマフィアに好意的でさえある。(本場シチリアでは特に。)

・政治家や警察や裁判官など公的な立場の人の中に、買収や脅迫によってマフィアに協力する人間が多い。

・反マフィアを掲げる政治家や検察官や裁判官には容赦なく脅迫を行い、しばしば殺してしまう。

・したがって、マフィアはかなりの政治権力や経済権力を握っている。

 こんなところ。
 
 
 こんな中、大袈裟な表現ではなく、かなりリアルな話として、自分や家族や親族が「殺されること」が分かっていながら反マフィアを掲げて立ち向かう検察官などが次々登場することには感銘を受ける。

 裏切り者がいるから組織に頼ることもできず、自分だけを頼りに闇の巨大権力に命を賭けて一人立ち向かうこういう人たちの方が、マフィアより「強さ」でも勝っているようにしか見えないのだが、イタリア国民やマフィアはあまり分かっていないのだろうか?
 
 
 映画『ゴッドファーザー』は、映像作品としての可能な限りの「技術」を駆使し尽くした最高傑作だと思うけど、マフィアの現状がこれでは積極的には推しにくい・・。でも、やっぱり、2番目に好きな映画の地位は簡単には変えられない。

カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新コメント
[10/20 新免貢]
[05/08 (No Name)]
[09/09 ST25@管理人]
[09/09 (No Name)]
[07/14 ST25@管理人]
[07/04 同意見]
最新トラックバック
リンク
プロフィール
HN:
ST25
ブログ内検索
カウンター
Powered by

Copyright © [ SC School ] All rights reserved.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]