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 大屋雄裕 『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅(ちくま新書、2007年)
 
 
 あらゆる学者・学説を紹介しながら、「監視(カメラ)社会における自由とは何か」という現代的トピックを中心に、自由という概念を多面的に照らし出している。

 3章からなるうちの第1章と第3章は既存研究や歴史の紹介がほとんどを占めているから、内容的に興味深いのは監視社会という時事問題(を通して自由)を扱っている第2章。

 なんだけど、洞察が大雑把で突き詰められていない。
 
 
 例えば、メーガン法の問題点として、犯罪歴が職場に知れ渡りクビになったというような話が挙げられている。だけど、犯罪者の氏名の公表はメーガン法の有無にかかわらず存在している。( もちろん調べやすさの程度は異なるにしても。)

 このような基本的な事実を無視した上で、〔メーガン法は、〕再犯が起きる可能性だけでなく、更生して新たな罪を犯すことなく生きていく可能性や、自らの経験を踏まえてむしろ良き市民に成長していくような可能性をも消し去ってしまう。(pp138-139)と断定するのは、完全に論理に飛躍がある。( 全ての犯罪者の氏名を非公表にすべきだというのであれば話は別だけど。)

 さらに、著者は、メーガン法をも含む“アーキテクチャーによる事前規制”一般にも疑問を唱えている。( 全否定ではないけど。)

 「アーキテクチャー」とは、ローレンス・レッシグが提唱した、人々の規制手段のうちの1つ(他には、法・市場・社会規範がある)で、例えば、空港の長椅子に2席ごとに肘掛を作ることで横になって寝られることを防ぐ、みたいな「物理的に作られた環境(=アーキテクチャー)」によるコントロールのことである。

 著者は、アーキテクチャーによって規制された人々はそれがなければ欲していたであろう可能性さえ奪われるから不自由だし、しかもその不自由な状態に気付かないから虐殺に加担しても気付かない云々、という主張を展開し、事前規制やアーキテクチャーによるコントロールに懐疑的である。

 だけど、素朴に思いつく疑問として、「アーキテクチャー的な規制の全くない“自由な”社会とは一体どんなものなのか?」と問いたくなる。原始時代とか?

 すでにアーキテクチャー的な環境に満ちた現代社会において、今さら“アーキテクチャー的な権力による自由の喪失”を批判するのは馬鹿げている。そもそも、規制の手段(もしくは環境)自体を批判しようとする戦略が間違っているのだ。
 
 
 それから、全体的に、著者が出す“例え”には筋違いなものがけっこうある。

 例えば、監獄の“パノプティコン”のところで類似のシステムとしてAmazonの「おすすめサービス」を出しているのだけど、Amazonのサービスに「支配」(p112)されている(と考える)なんて、なんて薄弱な自我なんだと笑わずにはいられない。( ただ、章の最後で簡単に出されているだけの、「孤独死するか、一人身の老人はみんな体育館で暮らさせるか?」という例え話は、孤独死がどこまで問題かという問題はあるにしても、監視の問題を考えるのに有益。)
 
 
 このように、この本は、学問的議論の紹介を中心に据えつつも、イデオロギッシュに自由を擁護しようとする“運動家”みたいに感情ばかりが先走っているところがある。

 だから、一見、学者による誠実な本と見せかけて、その実、それとは反対なところがあるから、「勉強になる」とか言ってありがたがる必要のない本である。
 
 
 ちなみに、個人的には、街中の監視カメラは、安易に飛びついてはいけない話だとは思うけど、これというまともな反論も(今のところ)聞かないから、是としていいのではないかと大分思い始めている。

 ただ、今の現状は、“監視してる人の監視”が不十分だと思う。

 法律や規則でがんじがらめで、不祥事が起こった場合に国民に対して知らせる強い社会的責任があり、マスコミや市民の監視の目が厳しい警察でさえ、不祥事は起こり、しかもそれを隠そうとしたりするのに、果たして、そこまでの厳しい規律や規範や法的知識のない商店街の人とかがしっかり運用できるのかは懐疑的にならざるを得ない。

 これがクリアされ、あと、カメラ設置の事実をしっかり知らせた上でなら、設置もけっこうだと思う。( これなら、基本的には、他人の視線かカメラの視線(24時間可能)かの差しかないはず。良くもあり悪くもあるけど。)

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 SIGHT vol.33(ロッキング・オン・ジャパン、2007年)
 
 
 気分転換に、久しぶりに総合雑誌を買って読んだ。( 「したたかなリベラル」っていう概念を提唱している前号の枝野幸男のインタビューが有意義だったのが印象に残ってた。)

 この『SIGHT』っていう雑誌は、「リベラルに世界を読む」がテーマで、50代以上が想定読者な『論座』を、よりファッショナブルにして30~40代を想定読者にした感じ。

 実際、字も大きめで、でかでかとしたファッション雑誌風の写真も多用されてたりする。(その分、分量は相当少なくなってるけど。)

 インタビューがほとんどだけど、参院選がメインテーマの本号で“執筆人”に名を連ねてるのは、加藤紘一、菅直人、藤原帰一、小野善康、佐藤優、田中秀征、北野武、酒井啓子、吉本隆明、中沢新一、東浩紀など。

 ポストモダン系の古い人が(時事問題を語っているわけではないにしても)入ってるのはどうなのだろう、という気がするけど、メインの特集に登場してる人たちは「リベラル」の中では比較的まともな部類に入る人たち。( 今号で語っている内容のいかんには関係なく。/前号と変わり映えのしないメンバーではあるのだけど。)

 それから、編集長を務めてるのが渋谷陽一という評論家なのだけど、この人が一人暴走してる感じが端々からすごく伝わってきてうざったい。それはインタビュアーとしての問いかけ部分にたくさん見られるけど、何より、特集のタイトルの有権者動く!この流れを止めるな!っていうのが最悪。誌面に登場してる人たちとの温度差がかなりあるし、誌面で語られてることをきちんと理解して誠実に向き合ってコミュニケーションを図ろうとしているのか疑いたくなる。今どき『論座』でさえもこんな安っぽい主張の押し付けはやらない。勢いだけはこの雑誌の雰囲気に合ってて悪くはないんだけど。

 雑誌全体についての感想はこんなところ。
 
 
 で、具体的な内容。かいつまんで簡単に一言ずつ。

 加藤紘一のインタビュー。加藤紘一の実家に火をつけたのが義挙だという集会に1000人くらいの人が集まった(のにマスコミは一切報道しなかった)ということがあった、ということを知って愕然とした。

 菅直人のインタビュー。参院選の勝利に自画自賛してないのはいい。ただ、これからの戦略が抽象的すぎたり、小沢一郎を買いかぶりすぎてたりで、全く民主党に期待を抱かせない。

 小野善康のインタビュー。安倍首相は経済状況が良くなってきたのに乗じて経済政策はなにもしてないと。確かに。ただ、自民党は勝ち組だけみて政治して民主党は負け組だけみて政治してるからどちらも「共産党化」だと。アフォまりずむ。経済学者が政治のことを語りだすと本当にろくなことがない。小選挙区制って知ってますか、小野先生?

 佐藤優のインタビュー。官僚が自己利益を守ろうとすることを説明するのにマルクスを持ち出すのは迂遠すぎる。

 内田樹のインタビュー。発想、視点がおもしろいから読み物としてはおもしろいけど、現実的、政策論的な基盤は無視されてるから、それ以上の役割を与えては絶対にいけないお話。

 藤原帰一のインタビュー。左派でありながらリアリズム的、プラグマティズム的な思考ができる貴重な人材。(いつもそういう思考してるとは限らないけど。) さすがはアメリカ生まれなだけのことはある。対北朝鮮外交を中心に最近の日本外交を鳥瞰的に振り返っていて勉強になる。外交こそ日々のニュースに一喜一憂してはいけないことをしみじみ感じる。

 高橋源一郎の社会時評。話題の評論『丸山眞男』をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。(『論座』2007年1月号)の根底に流れる人間的な感情のレベルまで降りていって寄り添い、その上で共感できるとしている。確かにその感情自体は分からないこともない。

 小田嶋隆のエッセイ。書籍化されたケータイ小説を、説教オヤジみたいにむげに批判したりしないできちんと読んだ上で評論してる。笑った。

 東浩紀の社会時評。そもそも、日本のサブカル論壇がなんで翻訳されなければいけないのか、なんで国際的なパラダイムに乗らなければいけないのか分からない。これが分からないと、強迫観念とかに取り付かれて著者が一人相撲してるような印象を受ける。
 
 
 全体としては、上のような感想を書かせるくらいに肩肘張ってなくて軽いのが現代的で良いところだと思う。

 けど、それが限界でもある。

 けど、何事にもおもしろさが一義的には必要だから悪い方向ではないと思う。

 あとは、まともだけど軽くておもしろいことを言える人をどれだけ登場させられるか次第。

 宮台真司 『世紀末の作法――終ワリナキ日常ヲ生キル知恵(角川文庫、2000年)
 
 
 90年代の中頃から終わり頃を中心に、社会問題に興味を持っている人は皆、宮台真司を読んでいた。会話をしていてふと出てくるちょっとした単語であるとか主張であるとかに、「あー、この人も宮台読んでるな(ニヤリ)」と感じさせたものだ。もちろん、中には宮台に心酔しすぎた「ミヤダイくん」を生み出しもしたんだけど。せっかくだから言っておくと、「ミヤダイくん」って、たいてい、宮台本人ほどのすばらしい能力を持ってない人が、宮台の考えを自分にそのまま移植することで万能感、「俺って頭いいだろ」感を感じて悦に浸っていただけだから、社会で生きていく中で、いずれ、宮台本人と自分とのそもそもの(いろんな)能力や感性の致命的な差に気付いて絶望してるんじゃないかと思うんだけどどうだろう? そもそも宮台を熱心に読んでしまう時点で、意味とか物語にすがらないマッタリした生き方ができてるとは言えないし。

 まあ、そんなイタ極端な人たちは置いといて、ともかく、ちょっと前はみんな宮台を読んでいた。その頃の宮台は、ブルセラ女子高生・援交女子高生の生き方を、「成熟した近代」という「終わりなき日常」があるだけの新しい時代に適応した生き方だとして賞賛していた。そして、意味、物語、道徳、歴史、偏差値、学歴、肩書き、社会的使命などにすがっている(主に)高学歴の男子(若者も大人も)の実存を見抜き、否定していた。いや、ただ否定するに留まらず、ある種、イデオロギー暴露をすることで、そういう人たちを辱(はずかし)めていた。(説教して安心するオヤジ!、歴史に慰撫されるオヤジ!etc.) それらは、鋭い心理的な洞察と冷酷なまでの現実主義的な分析に裏付けられていて、かなり説得的でもあった。それだけに、自分の内面(実存)に耳を傾けることなしに、もしくは、冷静に現実主義的な分析をすることなしに、安直に、「女子高生の性交を禁止しろ!(淫行防止条例を制定しろ!)」だとか「日本の悪いところが書いてある教科書は使うな!」だとかいった道徳的、自由主義史観(自慰史観ともいう)的主張を表立って語ることは(それなりに)はばかられた。

 翻って今の日本を見るに、宮台による抑止効果が全くなくなったかのように、実存的な主張を堂々とする人が増えたように見える。(ネットの浸透がそう見えさせているだけかもしれないし、社会のアトム化のさらなる進行によってそういう人や雑誌などの主張がより過激化( ←こういう現象をgroup polarization=集団分極化という)したためにそう見えるだけかもしれない。 ) そういう人たちの、主張の帰結への現実的な配慮の完全なる欠如や、感情やら道徳やらを主張の根拠にして全くはばからない態度を見るにつけ、彼らが宮台を読んでいない(もしくは読んだけど忘れた、あるいは読んだけど理解できなかった)であろうことは容易に推測される。( 道徳的主張をしてはばからない一人である弁護士の橋下徹は「宮台を読んでも理解できなかった」と宮崎哲弥に言っていたと宮崎がある対談で明かしている。)

 この背景には、宮台自身が主張の焦点を変えているというのもある。すなわち、「終わりなき日常を生きろ」という主張から「アイロニーとしての天皇」だとか何だとか、議論の主戦場もアプローチも変えた。彼なりの戦略に基づいてはいるのだろうけど、個人的には成功してるとも思えないし、その意図もいまいちよく分からない。

 また他方で、社会が変わったというのもある。すなわち、デフレ不況が深刻化して、若者の問題や関心が実存的な問題からそれ以前の経済的な問題へと移行した。その結果、宮台は捨てられ、稲葉振一郎をはじめとするリフレ派と言われる経済学で経済を語れる人たちが持てはやされる事態が生じた。

 そんなわけで、実存という視点からイデオロギー暴露する宮台は忘れられ、実存から道徳や歴史や政治を語る人が増殖した。(安倍先生による首相になる前となった後の豹変ぶりなんてまさに、彼が以前は実存的な理由からイデオロギー的主張をしていた端的な証拠だよね。)

 そんな状況なら、単純に過去の宮台を呼び起こせばよくね、ということで久しぶりにこの本を読んだ。(おー、なんという長い前フリ!)

 久しぶりに読んで、今の世にはびこっている社会問題についての各種発言への批判としてもモロに有効だし、その他にも実に色々と思考が促された。久しぶりに刺激的でおもしろい読書体験だった。

 そんなわけで言いたいことはいろいろあるけど、そん中から一つ。

 やっぱり、「まったり革命」は無理だ。もしくは無意味だ。そんなのできるの(もしくは有意味なの)は、ほんの一部の人だけだ。

 批判はいくつかの観点からできる。

 ということで、いろいろ批判していこうと思ったんだけど、あまりに長くなるし、若干宮台の主張で一貫した整理が出来ないところがあるから、今回はここで止めておこうと思う。(!w)

 小熊英二 『日本という国(理論社、2006年)
 
 
 「中学生以上すべての人の よりみちパン!セ」シリーズの1冊。

 帯の宣伝文の通り、 近代日本のはじまりから、学歴社会の成立、戦後のアメリカやアジアとの関係、そして憲法改正から自衛隊の海外派遣まで、いまの日本を考えるうえで欠かせない基礎知識を、ひとつながりの見取り図としてやさしく提示 している本。

 総じて、感情的にならず冷静なのが良い。

 それから、著者自身が勤めている大学の創立者である福澤諭吉の『学問のすすめ』における影の部分をはっきり書いたりと、物事の見過ごされがちな側面に視点を当てているのも良い。

 さらに、歴史を扱う際に、現在の基準で全てを理解しようとせず、当時の時代背景や政治的取引の存在に注意を払っているのも良い。
 
 
 勉強や学歴社会の意義、帝国主義時代の現実、アメリカの占領政策の変遷など、いかにも学校では避けられてしまいそうなテーマを扱っていて、このシリーズの編集の意図をしっかり果たしている手軽な“よりみち”入門書。

 梅森直之編著 『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る(光文社新書、2007年)
 
 
 『想像の共同体』の著者が早大で行った2日に渡る講演と、編者による解説を収めた本。

 アンダーソンによる講演の方は、彼の生い立ち、『想像の共同体』の誕生秘話、『想像の共同体』の現在の自己評価が、(主にのぞき見的な興味から)そこそこおもしろかったけど、他のところは話の対象がややマイナーで、その対象・話題にもともと興味がない人間には少々きつかった。

 それに対して、編者による解説の方は、平凡な講演の解説に留まらず、学問のより大きな流れの中にアンダーソンの研究を位置付けながらその意義や含意を解説していて、おもしろく、勉強になった。
 
 
 アンダーソンの議論のおもしろさは、「国民」や「国家」といった事象の“認識が相対的であらざるを得ないメカニズム”まで提示しているところにあると思う。(出版資本主義とか。)

 絶対的であると思われている事象の反証例を挙げて「 ほら相対的でしょ 」と言うだけでは議論として弱いけれど、認識が相対的になるメカニズムまで明らかにすると、説得力が格段に増す。

 例えば、トマス・クーンのパラダイム論が「そういう見方もある」程度にしか引用されない(ように思える)のは、この、“メカニズムの提示”に成功していないからではないだろうか。

 逆に言えば、アンダーソンの「想像の共同体」の議論は、右派にとっては誠実に対峙しなければならない主張だということである。

 メカニズムまで提示されていると、不毛な主張の投げかけ合いで終わることも避けやすいだろうし。

 ただ、(多少リベラルな)右派・コミュニタリアンである宮崎哲弥なんかは、(おそらく)アンダーソンの議論を否定するのではなくそれを受け入れて、「 テレビは国民という枠組みを作る役割を果たしている(から、いくら内容が酷くても全否定はできない) 」というようなことをしばしば言っている。

 このように右派が取り入れることが出来るのもメカニズムが提示されていることのメリットである。
 
 
 いずれにしても、「比較の亡霊」に取り憑かれたことのないような人たちには、「相対的」を強調する(敬遠されがちな)ポストモダンな議論の中でもアンダーソンは是非とも読まれるべきだと思う。

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