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イアン・エアーズ 『その数学が戦略を決める』 (山形浩生訳/文藝春秋、2007年)
統計が経験や直観より優れていた事例をたくさん紹介している本。
この方の書評に、言いたかったことは大抵書かれているし、知らなかった有益な情報も色々書かれているから、是非ともそちらを参照されたし。
そんなわけで、特に言いたいことはないから、以下は無理やり付け足した感のある蛇足。
(1) データを「所詮は不完全なもの」と考えて無視し、自分の経験とか直観の絶対的な優位を信じて疑わない人があまりに多い現状(そして、それによってもたらされる惨状)を鑑みると、この本の意義に関してはもう少し評価してもいいように思う。
特に、自己への過信が、時に人の命や人生をも奪っているという(医療過誤や教育の)話なんかは、統計重視へと現実を変えうるほど、説得的で社会的に有意義な事例になっている。
それに、個別の事例における統計の応用の仕方はおもしろいし、読み物としてもおもしろいから、その重要なことをすんなりと理解させてくれるのは良い。
(2) だけど、「絶対計算」とやらがそんなに凄いなら、とりあえず、株と競馬に応用してみたくなるのが人情というもの(で、そういう試みもいっぱいあったはず)。どちらもデータは豊富なはずだし。
なのに、この2つについては全く触れられていない。
という事実に思い至って、一気にこの本の内容に対する懐疑的な気持ちが広がっていくことになる。
マイナーなドッグレースなんかの例はいいから、競馬で儲けられる方程式を教えてくれ。
ノーベル賞学者を擁したヘッジファンド(LTCM)がつぶれたのはなんでなのだ?
(3) 別に弱点を強調しなくてもいいから、せめて、成功例の紹介を半分くらいに抑えて、残りの半分で、(最後の章でやってるみたいな、)統計のメカニズムとか理論の紹介をしてほしかった。
結果だけ見せられて「統計は良いよ」と言われても、そのメカニズムが分からないと如何ともし難い。先に進むための文献紹介もないし。
(4) そんなわけで、正しいしおもしろいんだけど、物足りなさとか虚しい読後感の残る本だった。
結果的に、なんか、「 分析は自分たち専門家がやるから、君たちはその結果を盲目的に信じていれば良いのだ!」というような印象を与えることになってしまっている。(そんな意図はないにしても。)
荻上チキ 『ウェブ炎上――ネット群集の暴走と可能性』 (ちくま新書、2007年)
ネット群集というものをウェブの構造(アーキテクチャー)的観点と群集の心理的観点から分析した本。どういう場合にウェブは炎上するのかとか、炎上した場合にはどう対処したらいいのかとかは書かれていない。
事象を印象論に基づいてジャーナリスティックに見るのではなく、学問的蓄積に基づいて冷静に論じているのが良い。
「社会のこととかよく分からないけどブログ持ってる」とかいう人たちにとっては、直接的に役立つ話ではないけど知っていて損のない話だし、主だった事例や理論は網羅されているし、そこそこ分かりやすく書かれているから、よくできた概説書になっていると思う。( ただ、そういう人たちが感情より論理を尊重してくれるかどうかは怪しい気もするけど。)
一方で、社会科学に関心を持ってる人たちにとっては、どこかで見たことがあるような話が多い。( 例えば、群集の心理的分析は、同じちくま新書の飯田泰之『ダメな議論』と同じだし、この飯田本の方が説明が体系的で詳しい。)
でも、この点こそが、ネット群集やブログ炎上といった現象の本質を表している。
すなわち、ウェブ上でも“リアル”な世界でも、結局は同じ人間のすることであって両者に大した違いはない、ということ。
確かに、ウェブ上では、人間の嫌な部分が「可視化」していて、慣れないうちはかなりの不快感を感じるかもしれない。
でも、それも所詮は「可視化」しただけにすぎない。
だから、例えば、有名人ブログのコメント欄が炎上したとき、コメント欄を閉鎖するだけですぐに何事もなかったかのように平穏な日常が取り戻されたりするのは、まさにこのこと(=可視化された見かけや印象以上に実際は大した事態ではないこと)を証明していると言える。
逆に、“リアル”な世界でも炎上が「可視化」することはある。例えば、森内閣、安倍内閣は、まさに“炎上”して、やることなすこと全て批判され退陣に追い込まれている。
結局のところ、ウェブ上でもリアルな世界でも、炎上してても大した事態ではないこともあるし、ウェブ上でもリアルな世界でも、大した事態だから炎上することもあるのだ。同じ人間だもの。( これを知ってるだけでも精神衛生上はだいぶ違うだろうけど。)
そんなわけで、『ウェブ炎上』と題するこの本では、一応、ウェブのアーキテクチャー的な特質の分析も行っているし、ウェブだからこその特性として「可視化」とか「つながり」とかを挙げてもいるけれど、やっぱり、究極的には(そして大抵の場合は)、ネット上も3次元も違わないということを(タイトルや著者の意図の半分とは裏腹に)改めて認識させてくれる本である。
山形浩生 『山形道場』 (イースト・プレス、2001年)
大手シンクタンクに勤務の傍ら翻訳・評論もこなす山形浩生が各種雑誌に連載していたものをまとめた本。古本屋で105円で購入。
同じく雑誌連載の文章をまとめた前著『新教養主義宣言』と比べると、かなり短い文章とか問題提起に終わってる文章とかが混ざってたりして、全体的な密度は薄い。内容的には、文学・小説関係がなくて、その分、フリーソフト・ハッカー関係が入れられている。
でも、おもしろい文章は本当におもしろい。
例えば、30ページを超える「まえがき」では、山形浩生の思考法・ものの見方を理解する手掛かりが開陳されていて、興味深い。原理的な話と個々の現実の問題とを直結させないでその「中間レベルを考える」(p23)とか。ただ、自身の思考法について直接的に語られてはいるけれど、分からない部分はけっこう残るのは残念。
それから、「ネットワークのオプション価値」。「オプション価値」なんていうファイナンス用語を持ち出してはいるけれど、展開されてるのは、意外にも、なんと、珍しく、宮台的=社会学的洞察。その要点は、「 インターネット上で展開されているのは、往々にしてコミュニケーションではないのだもの。むしろそこにあるのは、いま説明したオプション価値――つまり「もしかしたら」成立するかもしれないコミュニケーションの期待――により、実際のコミュニケーションがいつまでも先送りにされている現象 」(p197)であるということ。本文の後半で指摘されてるように、アイドル-アイドルファン関係が典型的。確かに。納得。 ( ただ、正確には、成立しないのを知りつつ成立するかもしれないという虚構の状態の中で楽しんでる人(男性ファンに限る)が多いけど。)
この文を最初に読んだときは頷けることが多くておもしろいと思ったけど、改めて考えてみると、1.人は現実を見ないで理想を追い求める、2.ネットは生身の現実とは別の“現実”(=虚構)を作り出す、という2つのことを併せただけだ。それに、傷つく/傷つけることを極度に恐れる、いわゆる“現代的なコミュニケーション”をする人ともコミュニケーション(人間関係)に求めているものの根本は同じだ。そんな現代的な友達関係は虚構であると考えるならば、ネットもリアルも全く同じことになる。となると、今後もネットでの個人の情報発信は続くだろう。ネットがリアルと違うところは、典型的な個人ツールであるブログとかだと、“虚構世界”を作ってくれる“友達”が簡単には獲得できないところ。そのためにネットから退いて現実世界での“虚構”に戻っていく人はいるだろう。
そんなわけで、けっこうベタな洞察ではあるけど、正しくて色々と役立つ話だとは思う。
それからそれから、浅田彰の『構造と力』で例えとして使われている“クラインの壺”の理解が間違っていることを丁寧に指摘している話も載っている。けど、生まれてこの方、モダンに留まり続けている人間は、もちろん、浅田彰なんか読んでないから野次馬的興味しか沸かない。
他にも、未成年凶悪犯罪者の顔写真の公開に反対する話とか、1995年に書かれたインターネットの中年化の話とか、夢の話とか、刺激がいっぱい。
有意味な本。
中島みち 『「尊厳死」に尊厳はあるか』 (岩波新書、2007年)
医師が人工呼吸器を恣意的に外して殺人容疑で捜査された「射水市民病院事件」についての詳細なルポを通じて、「尊厳死とは何か」、「終末期医療のあり方とは」を明らかにしようとしている本。
前半3分の2ほどが事件の詳細に当てられ、後半の3分の1ほどが尊厳死や終末期医療の現状と今後についての総括に当てられている。
この一事件について詳しく記す理由として、著者は、この事件には現在の医療が抱える様々な問題が関わっているからだとしている。
すなわち、「 各診療科の風通しの悪さ、医療技術の進歩や社会の動きに伴う医療倫理の基準やルールの変化に鈍感な医師の独善とご都合主義、患者や患者家族との情緒的つながりに安住し「インフォームド・コンセント」も「チーム医療」もどこ吹く風といった昔ながらの体質、医師の恣意的誘導のままに決められていく患者家族の医師、医師が「脳死状態」と告げさえすれば直ちに患者の命を諦める家族の心模様と世の風潮、高齢者が自宅で死ねず病院が「姥捨て場」になっている現今の家族事情と医療経済事情、等々 」(pp124-125)である。
確かに、これらは大事な問題だし、この「射水市民病院事件」の背後に存在していた問題ではある。
だけど、著者自身の膨大な取材が明らかにしたように、この事件に関しては、こういった“医療制度・医療文化に関わる一つ一つの問題”よりも、“当該医師個人の問題”に帰するところが大きい。医療知識や医療ルール・医療倫理に関して当然に想定されるべき最低のレベルを下回っているからだ。( 例えば「脳死」についての知識。)
したがって、この「射水市民病院事件」を通して現在の尊厳死や終末期医療の問題一般に迫るという所期の目的は果たされていない。
また、後半の3分の1で行われている総括的な話に関しても、「 安らかに見える死に方がなぜ“尊厳ある死に方”と言えるのか?」、あるいはさらに突き詰めれば、「 尊厳死はなぜ正当化されるのか?」といった、根源的で“それが全て”な問題が全く問われていない。
そんなわけで、尊厳死や終末期医療を考える一つ事例を知る(「こんなことがあり得るのか!」)という点では有益だけど、(タイトルから想像される)尊厳死問題一般を考えるという点からするとあまりに不十分。
そんなこの本を読んでるときにくすぶっていた尊厳死について根本的な疑問等を1つ2つ。
思うに、尊厳死を主張する人たちというのは、①実は自殺を容認し、②実は年寄りの命の価値は小さい、と考えているのではないだろうか。
でなければ、①'医療技術的に可能な治療をあえて拒否することが、②'死期が近い場合には許される、という主張を正当化することはできないはずだ。
「“生きるか死ぬか”も、“いつ死ぬか”も、個人の自由だ!」と主張する限りにおいてしか整合性は保たれない。
この2つの不誠実なダブルスタンダードは議論を混乱させるだけだ。
はっきり言えばいいのに。
それから、宮台真司みたいに“自己決定の貫徹”という観点からこの問題をも語ろうとする(と思われる)人たちには次のような批判を投げかける。
すなわち、自己決定権というものはあくまで生きていることが前提となっている考えだ。したがって、その範囲外である「生きるか死ぬか」の問題にまで自己決定権の考え方を適用できると短絡的に主張することはできない。実際、産まれる段階では自己決定できない。生死に関しては次元が異なっているのだ。また、誕生が親の専権事項というのなら、デザイナー・ベイビーを創る親の自己決定権は保障されるべきなのか。
人間には自己決定できないものの存在が付きまとう。
それが、社会(階層)の固定化を防いだり、逆に社会(秩序)の安定化を作ったりしているのではないだろうか。詳しくは分からないけど、人類の進化もそれがあって初めて可能なのではないだろうか。
思うに、(まだ試論的なレベルの主張ではあるけど、)生と死に関しては、何らかの“偶然性”、“人間の手の不可及性(※造語)”の存在が、必要なのではないだろうか。 (※ 妊娠中絶に関しては、どの段階から胎児をヒトと見るべきかという問題であるから、この主張によって直ちにプロライフ=妊娠中絶反対派になるということはない。)
C.N.パーキンソン 『パーキンソンの法則』 (森永晴彦訳/至誠堂、1996年)
今から50年程前に刊行され相当話題を呼んでいた(そして今でもそれなりに話に出てくることのある)、組織の生態・病理について事実と冗談とを混ぜながら至ってマジメ風に分析している本。
いわゆる狭義の「パーキンソンの法則」だけでなく、「 議題の一項目の審議に要する時間は、その項目についての支出額に反比例する 」(p42)という“関心喪失点”の話や、「 〔閣僚の〕メンバーの数は二十から三十、三十から四十へとまし、やがて千を越すことも遠くはない 」(p61)という“閣僚の定数”の話や、退職の潮時になった人を辞めさせる方法など、おもしろい話が色々と出てくる。
山形浩生が指摘してるようにパーキンソンの法則からすると業務効率化というものの虚しさが明らかになる。
また、“関心喪失点”の話は地方自治体・地方議員による「道路作れ」という(いまだになされる)主張の愚かしさの内実を暴露してくれる。
と、それなりに現実にもそぐってしまう話でもある。
こういう本を読むと、組織って、主客の転倒した人を生み、育て、そんな無能な人に居場所を与えるためだけにあるようにしか思えなくなる。
けど、まあ、それなりに意義もあるのだろう。
そんなわけで、ミルグロム&ロバーツの『組織の経済学』も読みたいけど、値段と分量のためなかなか手が出ない。