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宮崎哲弥 『「自分の時代」の終わり』 (時事通信社、1998年)
テレビや対談などでも自覚的に「評論家」の立場に徹するため、断片的にしか主張が分からなかった宮崎哲弥の単著を初めて読んだ。
とはいっても雑誌に掲載された短文と対談をまとめたもの。
でも、考えの大枠はだいぶはっきりしたように思う。
すなわち、一つは、家族とか地域共同体の、人間形成、共通規範形成といった役割を重視するコミュニタリアン(共同体主義者)の立場。
もう一つは、自分(や人生)の本質を「空」とし、自分(や人生)を「独立的実体」ではなく多様な「流れ」のようなものとして捉えるラディカルブッディスト(訳すと根源的仏教者?)の立場。
この「主義」自体は各所で表明されていたことだけど、それぞれの「主義」から事物を語っている文が各部(章?)ごとに集められているから、「主義」の内容を体系的に把握できる。
おもしろいと思ったのは、コミュニタリアンの立場から社会問題を見るときの視角。
政治(国家)、経済(市場)、社会(共同体)という3つの空間を措定し、共同体が国家や市場に侵されている(植民地化されている)から、国家とも市場とも重なり合わない共同体を保持・創出すべきだと言っている。
まさにハーバーマスの枠組み。
一点違うのは、社会(の中心)を「共同体」と見るか「市民社会」と見るかというところ。
これらは競合しないようにも思えるし、競合するようにも思える。
例えば、自立を重視したイギリスの「第三の道」は家族や共同体の再興を唱えている。
「家族」という言葉で「イエ制度」を思い浮かべるか「核家族」を思い浮かべるかによっても異なってくる。(※宮崎哲弥は「イエ制度」を存続させることになるという理由から夫婦別姓に反対している)
けれど、そこで前提とされている人間観は、リベラル-コミュニタリアン論争の中心的な主題にもなるくらい対立しているものでもある。
実際、宮崎哲弥のラディカルブッディストとしての人間観はリベラリズム(=近代主義)の人間観を敵として想定している。
でも、個人的には、国家とも市場とも異なる多様な帰属先の保証という観点からすると、家族とかの「共同体」とNPOとかの「市民社会」は対立せずに共存可能だと思う。
人間観も、私的な領域では共同体的な価値観を尊重し、公的な領域ではリベラルな価値観を想定するという使い分けによって“ある程度は”解決できるように思う。
というか、使い分けないといけないのではないかとさえ思う。
というのは、コミュニタリアンの基礎となる共同体を人工的に作ること、あるいは、コミュニタリアンによる社会問題の解決というのが果たしてどこまで可能なのか疑問だからである。
この本にも、(親から子への)「虐待の再生産」みたいな、“厳しい”家庭環境の下で育った人による問題が語られているのだけど、ではいかにして家庭崩壊を防ぐのか、崩壊した家庭で育った人をどのように扱うのか、といったことにはほとんど触れられていない。
あえて家族の存在価値を否定する必要は全くないけど、「理想的な家族」を政治によって作るというのはほとんど無理なことではないだろうか。
以上のような問題点があるだろうに政治の中心で「理想の家族」を唱えている安倍首相に対しても同様の疑問は投げかけられる。
ただ、宮崎哲弥は、下村官房副長官みたいに女性の社会進出を抑制する方向ではなく、男性が市場=仕事に隷属している状態から抜け出して家庭に目を向ける方向での家庭の再興を目指している。
ハーバーマス的な枠組みで考えて、男性の家庭や諸共同体への関与を促すという、こういう家族や地域共同体の位置付けならリベラリストでも受け入れられる。
〈前のブログでのコメント〉
- 読みました。主張の当否よりも、コミュニケーションのルールに従ってコミュニケーションする彼は希少な評論家だと思います。
- commented by やっさん
- posted at 2006/11/15 21:50
基本的なルールを踏まえていない「評論家」って一体・・・、という気もすしますが、実にお寒い現実です。
やっさんの方が、リベラリスト的な人間観と「空」みたいな仏教的な人間観(これと共同体主義との関係はこの本だけではよく分かりませんが)とをよりはっきり共存させているから、どのように調和を図るのか、あるいは対立しないのか、というのが興味深いところなんですが、どうでした?- commented by Stud.@Webmaster
- posted at 2006/11/15 23:11