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 片桐新自 『社会運動の中範囲理論(東京大学出版会、1995年)
 
 
 資源動員論に基づいて理論枠組みを構築し、それを住民運動の実例に当てはめて実証している研究書。

 
 資源動員論とは、社会に対する不満が社会運動を生むという従来の素朴な主張に対して、不満があるだけでは必ずしも運動に発展するとは限らず、利用し得る資源が影響を与えるとする考えである。図式化すれば、従来の主張は「不満→社会運動」で、資源動員論は「不満→資源動員→社会運動」。

 
 この本では、最初に資源動員論をそれまでの展開を追いながら整理し、その問題点を踏まえて著者独自の分析枠組みを提示する。そして、その枠組みによって複数の事例を分析している。

 最初の資源動員論の整理はとても分かりやすかった。特に資源動員論を「集合行為論」(オルソン)、「組織論的資源動員論」(ゾールド、マッカーシー)、「政治過程論」(ティリー)という3つに分類しているところは資源動員論の理解が促された。資源動員論と言うともっと経済学的なものかと思っていたが、社会運動研究においては経済学的な装いが最も軽い「政治過程論」が主流となっているらしい。ちょっと残念。

 事例分析は、3つの事例が扱われているが、最初の2つは著者が提示した分析枠組みとの関連がやや薄い。けれど、神戸の「六甲ライナー建設反対運動」の事例は、アンケートのサンプル数が少ないのが難点だが、なかなかきれいに分析されている。ちなみに、導き出された結論としては、住民の運動への関与を決める最も重要な資源は「ネットワーク」(人的関係)であること、経済的資源は直接的な影響が小さいことなどがある。
 
 
 この本が書かれたのは10年以上前であるし、社会運動研究の最近の動向は分からないけれど、前回取り上げた『社会運動の力』と今回の本を読んで思ったのは、社会運動の生成や発展などの要因に関する直感的に思いつく変数は出揃っていると言っても良い気がする。すなわち、資源動員(アクター重視)、政治的機会(制度重視)、フレーミング(心理・認識重視)である。

 しかし、それだけにこの3つの変数の枠内だけで研究が進んでいるとしたら、何ともつまらない研究領域であるように思えてしまう。今回の本も、資源(動員)という変数と住民運動への関与という因果関係はきれいに出ていたが、ある意味、無難な内容であって刺激があまり感じられなかった。

 もっと刺激的な斬新な変数を提示している研究はないのだろうか?と思った。

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 シドニー・タロー 『社会運動の力――集合行為の比較社会学(大畑裕嗣監訳/彩流社、2006年)
 
 
 社会運動の生成、維持、動態などを包括的に分析するための、あらゆる枠組み・概念を網羅し、論じている基本文献の全訳。

 全体は3部からなり、教科書的な分かりやすい構成になっている。

 第Ⅰ部では、集合行為の汎用的レパートリー、出版革命、アソシエーション形成、国家形成などが近代的な社会運動を生んだと論じられる。

 第Ⅱ部では、社会運動の分析枠組みとして、政治的機会、たたかいの様式、フレーミング、資源動員といった有名な概念が導入される。

 第Ⅲ部では、運動の動態として、たたかいのサイクル、運動の成果、トランスナショナルなたたかいなどについて論じられている。

 説明に際しては、フランス革命からトランスナショナルな運動まであらゆる事例が縦横無尽に持ち出されている。
 
 
 そんなこの本に付きまとう弱点は、抽象的な概念や枠組みにしても、縦横無尽に持ち出される事例にしても、「どこまで恣意性を排除できるのか」ということである。

 もちろん、それはこの本で提示されている枠組みを実際の事例に適用している研究を見てみないと分からない問題ではある。

 しかし、(あくまで一つの例ではあるが)オルソンの提示した集合行為問題を「集合行為は現におこって(いる)」という理由から軽視しているようでは、理論化や厳密さの発展は望めないように思えてしまう。
 
 
 そんなわけで、この本は、社会運動の生成・維持・発展に関する“重要そうな変数”を網羅的に列挙した本という感想しか持てなかった。(もちろん、これだけでも意味はあると思うが。)

 三本和彦 『クルマから見る日本社会(岩波新書、1997年)
 
 
 以前にも取り上げたモーター・ジャーナリストである著者による、車に関係のある社会のいろいろな側面を論じた本。

 前回の本と違って、焦点が個々の車ではなく車を取り巻くマクロな環境に絞られているため、主張が非常にコンパクトにまとまっている。

 論じられるのは、自動車産業、自動車行政、世界の中の日本車、自動車ジャーナリズムなど。

 相変わらず、生産者のためでも一部のマニアのためでもない、一般消費者の視点からの正論を熱く貫き通している。

 無責任で縦割りの官僚、生産者・建設業ばかりをひいきする政治家、自動車メーカーに飼いならされてしまっている「モーター・ジャーナリスト」、ユーザーの味方ではないJAF、無知で寡黙な一般ユーザー、・・・・。

 誰にとっても今や身近な生活必需品であり、それでいて、人の生死にも重大な関係を有する車に関して、この本が行っているような社会全体を視野に入れた問題提起やシステム設計が重要であることを改めて認識させられた。
 
 
 道路・駐車場事情や交通量や都市集中などについても問題提起する著者が、経済学的思考を身につけたら、さらに理想のモーター・ジャーナリストに近づくのではないかと思える。

 そして、広告主である自動車メーカーに牛耳られず、一部のマニア向けでなく、一般ユーザーの視点で作られた著者が理想とする自動車雑誌を読んでみたいと思った。どっかの新聞社とか出版社とか、「ジャーナリズム」としての自負がほんの少しでもあるなら協力・後援して実現してほしいものだ。

 大森秀臣 『共和主義の法理論(剄草書房、2006年)
 
 
 政治哲学とか法哲学の議論のほとんどが「リベラリズムと民主主義(憲法的に言えば、立憲主義と民主主義)の対立」の問題にしか見えず、しかもこの究極的な対立を「民主主義」を基礎に据えて乗り越えて行かなければならないと考えているような自分には、かなりヒットな作品。こういう議論を待っていた。

 
 
 著者は、(ロールズを念頭に置いた)リベラリズムが前提にする「公/私分離」は、参加や審議を「善」の一つとして個人の自由に任せてしまうため、「法の公共的正統性」(ここで言う「法」は「憲法」と、「公共的」は「民主的」と言った方が分かりやすい)を語り得ないことに問題意識を見出す。そして、「法の公共的正統性」を含みつつも「個人の自由」をも擁護できる理論として、マイケルマンとハーバーマスの理論を補完的に併せた「審議-参加型共和主義」を提示する。

 この結論的な主張が自分に近いというに止まらず、途中の議論も自分にとって非常に興味深い観点からなされていた。

 例えば、「参加」や「審議」といった民主的な概念のリベラリズムにおける位置付けを検討しているところや、自分の考えに近いところがあると思いつつもいまいち理解できないために使うのを控えてきた共和主義を「徳性-陶冶型」と「審議-参加型」という二つに分かり易く分けているところ、この二つの共和主義と民主主義論との関係を論じているところなどである。

 ここで挙げた例からも分かるとおり、政治哲学における主な主張(リベラリズム、共同体主義、共和主義、民主主義論)に関する著者の整理は非常に大胆で鋭く、分かりやすい。

 そんなわけで、問題意識、主張、議論の整理と、どこを取ってもおもしろく、かつ勉強になった。
 
 
 ただ、不満な点が二点あった。

 一つは、「自己統治が失われたことの背景」として、グローバル化や多文化主義的状況による国民国家の衰退を挙げているところ。あまりにもナイーブな議論。社会系の哲学者や憲法学者にしばしば見られることだが、俗説に捉われた何の根拠もない事実認識を語ることは、実証的な研究を重視する立場からすると、とんでもなく低俗な議論にしか見えない。

 不満の二つ目は、「審議-参加型共和主義」の説明のところ。ここでは、ハーバーマスに則って、審議参加者の自由・平等という「抽象的な権利」を、政治的審議を成立させるための「具体的でも実質的でもない緩やかな前提条件」として“最初に”導入している。しかし、これではいくら「抽象的」とか「緩やか」といった形容詞を付けて条件を緩めたところで、リベラリズムと変わらなくなってしまっている。つまり、これらの「前提条件」を決めるのは誰なのかという問題が発生してしまうのだ。

 個人的には、理論の最初の状態・条件で、自由平等な個人を想定する必要はないと思う。ここは歴史的な事実をそのまま取り入れて、「歴史の偶然性」に任せてしまうべきだろう。そうなると、「強い者」が究極的な権限を持つことになり、その「強い者」が最初の審議を行うことになる。

 なぜこう主張するかと言うと、歴史的に「本当に強い者」が特定され、その人たちが究極的な権限を持つという事実を受け入れ、それを理論に取り入れなければ、全く現実的な基礎の弱い理論にならざるを得ないからである。ちなみに、歴史的にはその「強い者」は平民であり、全ての男子であり、全ての国民であった。したがって、理論の出発点はガチンコの権力闘争ということである。

 そうなると当然、「強い者」がリベラルな権利や制度を否定することも不可能ではない。しかし、それは否定しがたい事実であって、この危うい現実を認識することなしには、立憲主義やリベラリズムの重要性も理解できないはずだ。まさに、民主主義は「永久革命」なのであって、共和主義的な価値観や理解を定着させることが重要なのである
 
 
 さて、最後に自分の主張を中途半端に書いてしまったが、この本は意を決して4000円という大金を払った甲斐があったと珍しく思える本であった。

 小田中直樹 『日本の個人主義(ちくま新書、2006年)
 
 
 現代を「自律(≒自己責任?)による経済成長の時代」だとした上で、丸山眞男に代表される戦後啓蒙派が揃って称揚した「自律」について、大塚久雄の考えを中心にあらゆる分野の研究成果を検討しながら、改めて一歩一歩丁寧に考え直している本。

 その検討のプロセスは、良く言えば丁寧で誠実、悪く言えば優等生的で退屈。

 具体的には、例えば、前提となる「自律の有無」に関してはポストモダンと認知科学を、自律の方法の一つたる「他者による啓蒙」に関しては反パターナリズムや民衆文化論などとメタ認知論を、自律の先にあるかもしれない「社会的関心」に関してはネオリベや共同体論とゲーム理論や経済学を、それぞれ(後者の主張に好意的に)検討している。

 こういった検討のプロセスをひたすら中庸に乗り越えた先に著者が出した結論は次のようなものである。

個人の自律とは、懐疑精神とコミュニケーション能力を兼ねそなえ、そのうえで、「自ら立てた規範に従い、自らの力で行動すること」である (p180)

 プロセスと同様、優等生的で当たり前の結論ではある。

 しかし、個人的には、戦後啓蒙派の主張は現代でも結構有効だし、目指すべき理念型だと思っているから、戦後啓蒙派を取り上げて改めて「自律」を考えるというこの本での著者の試みには非常に賛同する。

 がしかし、著者は前の方のページで次のように言っている。

個人はすべからく自律すべきである、といった発言は、一見かっこうよくみえるし、勇ましいし、正論であることが多い。しかし、実際は、こういった〈べき論〉は空虚な言説になりがちだし、せいぜいのところスローガンとして機能するにすぎない。だいたいにおいて〈かくあるべし〉なんて文言は、いくらでも、どんなかたちでも、だれであっても、発しうるたぐいのものだ。大切なのは、無理のないメカニズムを具体的にさししめすことである。 (p78)

 著者自身で設定した課題に著者が出した結論が応えているかは、極めて怪しい。

 なんせ、著者が結論を導くために検討したのは、認知科学・脳科学以外ほとんどが“思想”(的な研究)なのだから。

 そんなわけで、自分のような、“戦後啓蒙的な自律”という目指すべき理念型を支持する人間が一番知りたい(だろうと思われる)、「それが果たして可能なのか?」という急所に対して応答する知見はほとんど得られなかった。残念。

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