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 網野善彦 『「日本」とは何か 〔日本の歴史 00〕(講談社、2000年)
 
 
 教育基本法に関して、「我が国と郷土を愛する態度を養う」という文言を入れるなどの改正が行われようとしている。現行の教育基本法の下で義務教育を受けてきた自分は、もちろん「国の愛し方」についての教育を受けてこなかった。そこで、時代の変化に取り残されないように自分で勉強することにした。

 
 
 まず、「愛する」に関しては、巷に氾濫しているテレビドラマ、映画、恋愛小説、歌謡曲などが、ありとあらゆる「愛の形」を描いているから格好の題材になるだろう。ちなみに、自分が「これが愛のチカラか!!!」と非常に感銘を受けたのは、雛形あきこが主演した『ストーカー・誘う女』(TBS、1997年)である。

 いずれにせよ、やはり「愛」とは難しい。自分は学校で教わっていないのだから、これから特別に学校の先生に教えてもらえないものだろうか。
 
 
 さて、次に学ばなくてはいけないのが、愛する対象である「我が国(あるいは郷土)」である。「我が国」とは、つまり「日本」であるのだから、この本を手に取った次第である。

 この本を読んで改めて、自分が「我が国と郷土を愛する態度を養う」という教育を受けていないことを実感した。

 恥ずかしながら自分が知らなかった日本に関する超基本的な事実を、忘れないようにメモしておこう。
 
 

 日本が地球上にはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、(中略)、ヤマトの支配者たち、「壬申の乱」に勝利した天武の朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変えたときであった。
 それが七世紀末、六七三年から七〇一年の間のことであり、おそらくは六八一年、天武朝で編纂が開始され、天武の死後、持統朝の六八九年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、前に述べたように、七〇二年に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったことは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。 (p88)

 著者も強調しているが、「日本」という名前がいつ、どのように使われ始めたのかに関しては、かなり盲点である。真の保守主義者は当然に知っているだろうが、あちこちにウヨウヨしているエセ右翼は知らないのではないだろうか。また、著者が、「“日本”共産党」、「“日本”社会党」という歴史に無自覚な名前に疑問を呈しているのはおもしろかった。
 
 

 紀元前一世紀、文献に現れる「倭人」と、日本国成立後の日本人とは、列島西部においては重なるとしても、けっして同一ではない。『魏志』倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく「倭人」の勢力は、たとえ邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海地方地域以東には及んでいない (p86)

 関東に住む自分は、「倭人」とか「卑弥呼」とかを(少なくとも自国の歴史として)勉強する必要がなかったということか。「魏志倭人伝」とか「卑弥呼」とか難しい漢字を覚えるのに余計な労力を取られた。
 
 

 「聖徳太子」とのちによばれた厩戸王子は「倭人」であり、日本人ではないのであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。 (p87)

 どおりで聖徳太子の17条憲法が好きになれないわけだ。東の人間としてはやはり、時代を降るけど、平将門だ。ちなみに、アイヌと琉球も日本に含まれていなかったのは言うまでもない。
 
 

(「日の出づるところ」から来ているとされる)この国号は「日本」という文字に則してみれば、けっして特定の地名でも、王朝の創始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間違いない。そこには中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことができるが、反面、それは唐帝国にとらわれた国号であり、真の意味で自らの足で立った自立とはいい難いともいうことができる。 (p92)

 そんなわけで、江戸時代には、この国号を「大嫌い」と言った国家神道家もいたとのことである。
 
 

 現天皇を百二十五代の天皇とするのは、『日本書紀』に初代として記された神武以降、少なくとも九代まではその実在がほぼ否定されている点、また天皇号が公的に定まったのが七世紀末の天武以後であることから見て、まったく事実に則した数字ではないことはあきらかである。 (p102)

 著者は、空想上の話である神武天皇の即位の日を「建国記念の日」にしていることをも問題にしている。確かに、国家規模で御飯事をするのもいかがなものかという気がする。事実に則したところで別に問題はないと思うのだが。
 
 

 長い歴史と複合的な理由を背景に、人口の八〇~九〇パーセントを占めるとされた「百姓=農民」は日本人の「常識」となり、歴史研究者の研究もそこに集中し、実態として「百姓」の中に約四〇パーセントほど含まれている農業以外の多様な生業に携わる人々についての研究は、ほとんど空白にしたまま、たとえば「瑞穂国日本」のような偏った日本社会像が「実像」として世の前面におし出されつづけてきたのである。 (p294)

 しばしば見かける、イメージの危うさを物語る話。歴史家たる著者の想像力の強さを証明する話でもある。思えば、過ぎ去りし歴史を学ぶことというのは、ほとんど、過去に起こったこと(歴史)を想像する営みである。
 
 
 
 さて、この本を読んで「我が国=日本」についての理解が深まった。その上で、改めて「日本国を愛する」とは何だろうか、を考えなければならない。

 日本は、アイヌや琉球などの多様な出自を持つ地域のまとまりであり、その形成の初期においては特に中国大陸や朝鮮半島との交易が盛んに行われており、国内にも色々な対立や生業が雑多に存在していた。

 となると、「日本国を愛する」とは、「人類を愛することである」という最大公約数的な内実が出てくるに過ぎないのではないかというのが結論である。(もしくは、ここではあまり触れなかったけれど、「憲法パトリオティズム」もあり得る。)

 もちろん、「愛」についての理解が深まれば結論は変わりうるけれど。

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 小田中直樹 『フランス7つの謎(文春新書、2005年)
 
 
 まとめて新書を片付ける【新書週間】の6冊目。
 
 
 政教分離(スカーフ事件)、嫌米、マクドナルド解体運動、頻発するストライキなど、フランスにおけるホットな7つの出来事のそれが起こった原因について、フランスの歴史を参照することで解答を与えている。

 語り口がとても謙虚で柔らかく、現代の事件と歴史とのつなぎ方もごくごく自然で、最後まで平和に読み進めることができる。

 現代の代表的な7つの事件とフランスの歴史とをかなり自然に接合しているのだが、それにもかかわらず、フランスの現代と過去の基本的な事項が網羅されていて、この一冊でフランスという国のイメージが把握できるようになっている。読み終わったとき、ちょっと驚いた。これも歴史学者である著者の歴史を扱う柔軟な手腕と視野の広さに依っているのだろう。

 もちろん、現代において世界的に注目される出来事が一つの歴史的経緯だけで説明しきれるわけがないから、著者の「騙し」の技術が上手いとも言えるわけだが。
 
 
 著者はフランスと日本との比較も試みている。この比較によって見えてくる興味深い指摘がいくつもあった。「政教分離」のところでの次の指摘は特に興味深い。

政教分離という原則の意味は国によって異なっています。大雑把にいうと、フランスでは、「スカーフ事件」にみられるように、「宗教は政治に口を出さない」(※スカーフ事件で言えば公立学校に宗教的シンボルを持ち込まない)という側面が強調されます。これに対して、日本では「政治は宗教に口を出さない」という側面が強調されます。 (p28)

 これは、後に次のようにまとめられている。すなわち、「不寛容だが対等性を重んじるフランス」と、「不干渉だが差別的な日本」と。とてもすっきりとした説得的なまとめだ。

 ただ、引用部分の理解に関して、日本の場合、総論としてはこれが正しいにしても、各論・具体的事例になるとフランス的な対応をすることがあるように思える。オウムにしても、「白装束」にしても、「一夫多妻的集団生活」にしても。これらは、むしろ「干渉して差別する」という感じかもしれないが。
 
 
 このように、個々のところでは疑問もあるが、全体としては優れた読み物になっていておもしろかった。

 鳥越俊太郎 『ニュースの職人(PHP新書、2001年)
 
 
 連日新書を読む【新書週間】の5冊目。
 
 
 毎日新聞出身のキャスター、ジャーナリストによる自伝的な本。

 個人的には、鳥越俊太郎は日本で「ジャーナリスト」と称する人の中ではかなり稀少な「まとも」な部類に入ると評価している。なぜなら、「人権感覚」や「権力への懐疑」といった倫理観を有しているから。(となると、他の「ジャーナリスト」たちは一体・・・、という気がするが、そんな驚くべき事態が日本の現実であることは間違いない。)

 とはいえ、そんな著者も朝のワイドショー番組でのコメントは至って平凡なつまらないものである。むしろ著者の真価が発揮されているのは、テレビ朝日の「ザ・スクープ」(日曜日に年5回放送)においてである。もちろん、番組の全てが良いとは思わないが、社会的に非常に有意義な内容が多い。例えば、21世紀の日本で発生した鹿児島県志布志町の大規模冤罪事件を知っている人がどれだけいるだろうか。一方的で感情的で恣意的で不勉強で低劣な「ドキュメンタリー」番組を過大評価している視聴者やマスコミ関係者が多いみたいだが、その「意味」「意義」をもっと冷静に再考すべきだ。
 
 
 で、そんな著者による自伝、および、ジャーナリストとしてのスタンス・心構えが綴られているのがこの本である。

 感想は、残念ながら、所詮はマスコミの中にいる人による視野の狭い考えといったところ。他の数多くのマスコミ人によるマスコミ論・ジャーナリズム論と大差ない。

 例えば、特ダネのためにかなり苦労した取材の内容を述べ、その評価を最後にしているのだが、その評価基準が「特落ち」の有無なのである。朝日は「不名誉に」も「特落ち」したが、自分たち(毎日)は防げた、と。そんなに「特落ち」が重要なのか、理解に苦しむ。(言うまでもなく「特落ち」の意味を全否定しているわけではない。)

 他にも、「真実」や「事実」に対する見方は典型的なマスコミ人のものである。

私の目で見たままの“無農薬”的な率直な記事を読者に届けたい。 (p51)

結局、大切なのは自分のカン。 (p79)

 「自分」というものが持つ「恣意性」や「主観性」や「特殊性」に無自覚である。

 「カン」といったものを全否定するわけではないが、それを安易に肯定し、それに全面的に依存していると、「感覚的にイスラム教徒は嫌い」とか、「感覚的に中国人・朝鮮人は嫌い」とか、「直感的にあの人は悪人だ」とかそういった「カン」に基づいた報道をしかねない。(すでに“そういう報道”をし、“そういう報道”に合わせた憲法を作ろうとしているところもあるが。)

 著者の場合、「カン」が“運良く”「人権」や「権力への懐疑」と親和的だったから良かっただけだ。もっと自覚的に基準を自覚・明確化すべきだ。
 
 
 しかし、散々な批判をしてきたがこの本における著者にも評価できるところはある。

 それは、著者が「サンデー毎日」のデスク(副編集長)のときに出してしまった“「誤報」に対する処理”に象徴的に現れているような、マスコミ人としての覚悟や責任である。「監視」と「情報伝達」という二つの役割を自己保身のために恣意的に使い分けるマスコミ人たちには見習ってほしいものだ。

 星野英一 『民法のすすめ(岩波新書、1998年)
 
 
 集中的に新書を撃破する【新書週間】の2冊目。
 
 
 「市民社会」に関する文献などでしばしば推薦されている本。

 もともと民法に関心を持っている人向けの入門書ではなく、民法に関心を持っていない人向けの民法の入門書である。

 したがって、いきなり民法の中身に入って、民法の内で自己完結するのではなく、民法と社会(歴史も含む)との関係というより広い視点から民法を捉え、紹介している。

 その方法として著者は、法律を3つの要素に分ける。すなわち、(1)目的・理念・思想、(2)その適用される社会の実情、(3)その目的を法律によって実現するための言葉の技術、の3つである。

 (1)には「第二章 生活規範としての民法」「第六章 民法の理念」「第七章 民法と人間」が、(2)には「第三章 民法と市場経済」「第四章 民法と市民社会」が、(3)には「第五章 民法の技術」が、それぞれ対応している。なお、他にも、「第八章 日本民法典」「第九章 民法の将来」がある。

 これらを見ると対象がかなりの広範に渡っていることが分かるが、これは著者による以下のような民法の捉え方から当然に導かれる帰結である。

人民相互間の平等の、思想的な根拠でなく、国家法上の根拠はどこにあるのかといえば、それはまさに民法にある。 (p3)

民法が、今日において誰でも認めている、人と人の平等、人の自由などの社会の基本原理を定めている法律である (p3)

 
 
 果たして、社会や歴史の中に民法を位置付けるという非常に興味深い著者の壮大な目的がどこまで達成できているかに関しては、各項目ごとに個別に評価する必要がある。

 例えば、市民社会に関して、ヘーゲル、マルクス、ハーバーマスといった思想家たちによる「市民社会」概念史を簡潔に整理し、市場とも国家とも異なる公的領域として市民社会を捉えるという現代的な理解を示し、それを前提に民法を位置付けるという試みは、(やや単純な結合にすぎないという嫌いはあるが)大枠においては成功しているように思える。他にも、民法が想定する人間像に関して、「強く賢い人間から弱く愚かな人間へ」や、「抽象的な人間から、社会的・経済的立場の差異に応じて扱いの違いが認められれる具体的な人間へ」など、非常に説得的でおもしろく、かつ有益な理解を析出している。

 他方、「民法と市場経済」との関係に関して検討した第三章は、市場や経済に関するあまりに簡単な解釈から「市場経済は法的枠組みを前提とする」というありきたりな結論に至っていて、おもしろさもなく、評価もできない。

 しかし、いずれにしても、法律を理解・解釈するには、その前提となる(広義での)「社会」についての理解が必要不可欠である。これは、法律の理解・解釈における共通基盤や共通の指針を形成するのに寄与する。もしこれがないと、学者などの個々人が勝手気ままに理解・解釈することになり、法律の体系性や安定性や予見可能性が損なわれることになりかねない。その点、法律の理解・解釈のために市民社会や市場経済に関する一定の理解を示した著者の試みは有益だと言える。(法哲学や政治哲学も共通の前提を提供するという同様の機能を果たしている。)
 
 
 ところで、この本の“全体的な評価”に関して、確かに、市民社会のところでも市場経済のところでも見られたように、「単純さ」が欠点ではある。が、扱う問題や目的が大きいだけに、個別具体的なところでの精緻さの欠如はやむを得ないと言わざるを得ないのかもしれない。

 しかし、同じような問題意識や目的を有した類書に当たったことがないため、この本の全体としての相対的な出来は判断しかねる。(逆に言えば、全体的な評価に関して、少なくとも“絶対的に”素晴らしい出来だとまでは言いがたいということである。)
 
 
 そんなわけで、この本は、少なくとも試みとしてはとてもおもしろく、有益な本である。そして、全体的な評価は簡単にはできないが、個々の内容においてはとても興味深い指摘がいくつも見られる本である。

 神田秀樹 『会社法入門(岩波新書、2006年)
 
 
 新書を集中的に読む【新書週間】の1冊目。
 
 
 5月から全面的に新しく施行される会社法のスタンダードな作りの概説書。

 法律の中の一分野として見ると興味を惹かれない会社法も、青木昌彦らによる比較制度分析などのようにマクロな経済制度や金融制度の一つという観点から見ると興味を惹かれる。

 実際、この本でも、最初の第1章「なぜ、いま新「会社法」か」、および、最後の第5章「会社法はどこへいくのか」では、大きな文脈から会社法を捉えている。そこで重視されるのは、IT環境の激変、資本市場の拡大、国際競争の激化、コーポレート・ガバナンスの重要性の高まり(一国の経済パフォーマンスに与える影響も含む)、という4つの点である。

 一方、具体的な法律の内容に関しては、ガバナンス、ファイナンス、リオーガニゼーションの3つに分けて第2章から第4章で解説されている。こちらは、1章と5章の総論と違って話が細かくなるだけに素人には少々きつかった。一国の経済制度や金融制度への興味から入った自分のような人間にとっては、総論の内容との結びつきをもっと意識してくれるとありがたかったと思うが、それでは「会社法入門」にはならなくなってしまうという問題があるのも確かである。

 とはいえ、この本では、従来の法制度から新しくなった部分だけを解説するのではなく、会社法全体を包括的に解説してくれているから、初心者にも優しい作りになっている。
 
 
 
 それにしても、有限会社と株式会社が統合されて一つの制度になるというのが、個人的には、新しい会社法の中でもっとも大きな驚きどころだった。だから何ということもないけど。

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