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鳥越俊太郎 『ニュースの職人』 (PHP新書、2001年)
連日新書を読む【新書週間】の5冊目。
毎日新聞出身のキャスター、ジャーナリストによる自伝的な本。
個人的には、鳥越俊太郎は日本で「ジャーナリスト」と称する人の中ではかなり稀少な「まとも」な部類に入ると評価している。なぜなら、「人権感覚」や「権力への懐疑」といった倫理観を有しているから。(となると、他の「ジャーナリスト」たちは一体・・・、という気がするが、そんな驚くべき事態が日本の現実であることは間違いない。)
とはいえ、そんな著者も朝のワイドショー番組でのコメントは至って平凡なつまらないものである。むしろ著者の真価が発揮されているのは、テレビ朝日の「ザ・スクープ」(日曜日に年5回放送)においてである。もちろん、番組の全てが良いとは思わないが、社会的に非常に有意義な内容が多い。例えば、21世紀の日本で発生した鹿児島県志布志町の大規模冤罪事件を知っている人がどれだけいるだろうか。一方的で感情的で恣意的で不勉強で低劣な「ドキュメンタリー」番組を過大評価している視聴者やマスコミ関係者が多いみたいだが、その「意味」「意義」をもっと冷静に再考すべきだ。
で、そんな著者による自伝、および、ジャーナリストとしてのスタンス・心構えが綴られているのがこの本である。
感想は、残念ながら、所詮はマスコミの中にいる人による視野の狭い考えといったところ。他の数多くのマスコミ人によるマスコミ論・ジャーナリズム論と大差ない。
例えば、特ダネのためにかなり苦労した取材の内容を述べ、その評価を最後にしているのだが、その評価基準が「特落ち」の有無なのである。朝日は「不名誉に」も「特落ち」したが、自分たち(毎日)は防げた、と。そんなに「特落ち」が重要なのか、理解に苦しむ。(言うまでもなく「特落ち」の意味を全否定しているわけではない。)
他にも、「真実」や「事実」に対する見方は典型的なマスコミ人のものである。
「 私の目で見たままの“無農薬”的な率直な記事を読者に届けたい。 」(p51)
「 結局、大切なのは自分のカン。 」(p79)
「自分」というものが持つ「恣意性」や「主観性」や「特殊性」に無自覚である。
「カン」といったものを全否定するわけではないが、それを安易に肯定し、それに全面的に依存していると、「感覚的にイスラム教徒は嫌い」とか、「感覚的に中国人・朝鮮人は嫌い」とか、「直感的にあの人は悪人だ」とかそういった「カン」に基づいた報道をしかねない。(すでに“そういう報道”をし、“そういう報道”に合わせた憲法を作ろうとしているところもあるが。)
著者の場合、「カン」が“運良く”「人権」や「権力への懐疑」と親和的だったから良かっただけだ。もっと自覚的に基準を自覚・明確化すべきだ。
しかし、散々な批判をしてきたがこの本における著者にも評価できるところはある。
それは、著者が「サンデー毎日」のデスク(副編集長)のときに出してしまった“「誤報」に対する処理”に象徴的に現れているような、マスコミ人としての覚悟や責任である。「監視」と「情報伝達」という二つの役割を自己保身のために恣意的に使い分けるマスコミ人たちには見習ってほしいものだ。