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ハリエット・アン・ジェイコブズ 『ある奴隷少女に起こった出来事』 (堀越ゆき訳/新潮文庫、2017年)
隙を見つけては関係を迫ってくる所有主の医師。夫と奴隷少女との関係を疑い、嫉妬から少女に厳しく当たるその妻。そんな夫婦のもとでの辛く苦しい日々。自由身分を手にするために白人男性との間に子供をつくるなど様々なことを実行するが、裏切りや現実の社会制度により思い通りにはいかない。
ここで書かれているのは、タイトル通り、あくまで一人の女性の経験に過ぎない。しかも、典型的な奴隷の一生というよりは思考力や行動力のある奴隷の一生である。したがって、これだけで奴隷制の全てを分かったと勘違いするべきではない。しかし、それでも奴隷制の現実を実感を持って知ることができる。かつて奴隷制があって人間が公的にも人間としての扱いを受けなかった時代があったということを抽象的には知っている。しかし、特に、その奴隷の側から見た生活・人生がどのようなものであったかを知ることができるノンフィクションはそう多くはないのではないだろうか。そういう意味では本書は貴重かつ有意義な本だ。
わずか150年前に今では考えられないことが公然と行われていた。しかも現在では民主主義・自由主義の代表のようなアメリカにおいて。
逆に言えば、今ある自由や人権もあっけなく崩れ去ることがあり得る。「権利のための闘争」や「権利の上に眠る者」といったことの重要さを改めて感じる。歴史を学ぶ意義は、いかに現代が出来上がっているのか、そこまでにどのようなことがあったのかを知り、その中から、人間というものの本質や特性を知ることにあるのではないだろうか。本書は歴史の一事象にすぎない奴隷制を通して人間の本質まで考えさせる偉大な本だ。
J.K.ローリング 『ハリー・ポッターと賢者の石』 (松岡佑子訳/静山社、2012年)
映画の方はテレビでやってたのを片手間に観ただけだったから、900円ちょいで売ってたDVDも買って観てみた。
本と映画を比べると、小説は一つ一つのことをじっくり書いて行ってるのに対して、映画の方は色々と端折られていてあっさり。 例えば、最初のダーズリー家で、魔法のような類のものを一切信じない夫妻からハリーが散々な目にあわされるところなんかは、小説では色々なエピソードが出てくるけれど、映画では1つ2つ程度で済まされている。 それから、最後のハリーが「石」が悪に渡るのを守り切った場面でのダンブルドア校長のセリフも、小説ではなかなかカッコイイものなのに映画ではあっさり。
小説を読まずに映画だけを観た場合、作品のおもしろさが伝わらないのではないかと思った。
シリーズのこの後の作品は「読まなくていいかな」と思ったのだけど、それは、作品のおもしろさがそうでもないからなのか、自分が子供の心をなくしてしまったからなのか、果たしてどっちだろうか。
コーマック・マッカーシー 『ザ・ロード』 (黒原敏行訳/ハヤカワepi文庫、2010年)
今の世界の終わりを描きつつも、幼い子に託された「火」が受け継がれていくことで、新たな世界の静かで暗い始まりをも感じさせる。
体力も気力も損なわれている極限状況の中、父は、我が子を、そして、「火」を守ることだけを生きるよすがに、何とか生き延びている。 そんな中では感情は最低限に抑えられる。 その状況に合わせるように、淡白な筆致で書かれ、話も淡々と前へと進んでいく。 それがリアルである。 一方で、読んでいて面白みに欠けるところでもある。
それにしても、この本の英語版が170万部も売れているとの「訳者あとがき」の内容には驚いた。
G.K.チェスタトン 『木曜の男』 (吉田健一訳/創元推理文庫、1960年)
やや過激な無政府主義を掲げる秘密結社の中央委員会に潜入した主人公の前で、様々な出来事が起こっていく。
そこにはミステリー的な話のおもしろさだけではなく、「無政府主義」やそれを取り巻く社会状況とも関係のある政治的・社会的な皮肉にも満ちたおもしろさがある。
また、登場人物の飄々と間の抜けたことを言ってのける清々しさもおもしろみを増すことに寄与している。
そして、話全体に関して特に感じたのは、そういったおもしろさを創り上げる全ての源になっているであろう、作者の強靭なロジカルさ。 それは中央委員会の主人公の演説しかり、相手をやりこめる際の会話しかり、と、話の中で特に絶妙なおもしろみを醸し出す場面で見事に機能している。
そんなわけで、名作と言われる程度にはおもしろい小説。 ただ、飛び抜けた傑作と言うほどでは決してない。
カレル・チャペック 『絶対製造工場』 (飯島周訳/平凡社ライブラリー、2010年)
あらゆる物質に宿っている「絶対」という「神」を解放してしまう機械が発明された。 その「絶対=神」の空気に触れた人々は、全てを悟ったかのような平穏で神がかり的な境地に至った人物へと変貌してしまう。 そんな「絶対=神」が、世界中に拡がっていく過程と、それが世界中に充満した後に起こったことを描いている、1922年のSF小説。
もちろん、古くはスピノザ的な汎神論などとも通じるところがあるけれど、何より、様々な宗教が「絶対」を主張して対立している現代においても非常に刺激的な作品。
ただ、小説としては、やや単純なストーリー展開だったり、似たような話が場面を変えて出てきたり、単純な構成だったりで、それほどおもしろくはない。
それにしても、「絶対」や「神」という至高のものがあっ気なくトラブルメーカーになる様は、なんとも儚く、やりきれない気持ちを湧き起こさせる。