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by ST25
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 飯尾潤 『日本の統治構造(中公新書、2007年)
 
 
 日本の統治システム=議院内閣制を丁寧かつ論理的に説明している良書。

 「日本も三権分立」や「大統領制はリーダーシップを発揮できる」といった小中学校の社会の教科書的な俗説の誤りを正してくれる。

 「官僚が全てを牛耳っているという官僚悪玉論」や「国会の議論は形式的で無意味」といった政治評論家・テレビコメンテーター的な俗説の誤りも正してくれる。

 説明が、内閣、官僚制、政党、議院内閣制・大統領制と包括的になされているから、日本政治の優れたテキストにもなっている。

 「官僚内閣制」、「省庁代表制」、「政府・与党二元体制」といった、特徴をよく捉えている独特な用語の使用も理解を促してくれてグッド。

 ただ、日本政治の改革の方向性を提示している最後の6章・7章は常識的な内容にすぎないものばかりで、あまり有意義ではない。( ただ、“民主主義的要素を代表する衆議院に対して自由主義的要素を代表する参議院”という参議院改革の提案は例外的におもしろい。)
 
 
 日本政治の政治学的な理解については、この本と竹中治堅『首相支配』(中公新書)の2冊で十分なのではないかと思う。( もちろん、他の細かい分野ごとの問題はあるけれど、「大枠としての日本政治のメカニズムの理解として」、ということでは。)

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 北岡伸一 『国連の政治力学(中公新書、2007年)
 
 
 2004年4月から2006年9月まで、日本政府国連代表部次席代表を務めた日本政治史を専門とする東大教授が、実体験を交えながら国連の活動を説明している本。

 国際政治における(主に軍事)力の反映とだけ考えていては見誤る国連の実態をヴィヴィッドに語っていて、おもしろくて有益。

 国連の仕組みや実際の活動から、大使の日常、日本の役割・活動、世界レベルの国際政治のダイナミズム、国際政治のリアリズム的な現実まで、あらゆることを知ることができる。

 そんな中でも特に印象づけられるのは、一国一票が原則である国連の、単純なパワーポリティクスではない、外交的な性質。

 大使同士のつながりがものを言ったり、小国からいかに支持を取りつけるかが重要だったり、対立を乗り越えるアイディアを出せるかが重要だったり、会議の場に誰を出すかが重要だったり、演説の順番が重要だったり、アフリカ連合がかなりの影響力を行使していたり。

 こういう場であればこそ、露骨な軍事競争ではない理念的な国際社会を目指す日本が、実質的な最重要意思決定機関である安保理の会議の場に常にいることも重要だと思わされる。

 それから、外交的であることとも関係するけれど、世界各国が参加する国連の普遍性という性質も印象的。

 つまり、二国間であればあり得るような強引な理由による難癖も、それを国連の場で主張することは世界中の国によって白い目で見られてしまうことを意味する。( 著者は、中国が国連の場で60年前の戦争責任等のことで日本を非難・警戒することの奇異さを強調している。それだけに、逆に、「中国の日本批判に答える」としてかなり細かいところまで踏み込んで中国の主張に反論している部分は違和感を覚える。 )

 そんな国連の場の性格を反映した、著者による安保理常任理事国および日本の性格の評価はこんな感じ。

論点を整理し、アイディアを出し、議論を取りまとめていく能力は、イギリスが断然優れている。フランスもシャープな論点を提示して、これに次ぐ。アメリカは、外交という点ではやや直截で洗練を欠くが、ともかくパワフルなので、これも格別だろう。それ以外では、ロシアが活躍する。冷戦時代アメリカと天下を二分しただけあって、安保理の議事規則や先例にやたら詳しく、存在感がある。案件によっては、日本とも結構親しい。ただ、国際社会が紛争解決に乗り出すのに対し、内政不干渉の原則を唱えて、ブレーキをかける方向で動くことが多い。中国も基本的に同じラインだが、もう少し静かである。自国の利害と直接関係のない案件では、あまり発言しない。しかし、中国がこれから発言力を伸ばしてくることは間違いない。
 (中略)
 日本は、いつもやや控えめである。しかし、その発言はいつも安定しており、間違いがないことで知られている。 (pp261-262)

 
 
 もちろん、国連といえども、主権国家の集まりであって、軍事的・リアリズム的・自国中心主義的な側面が重要なのは言うまでもない。

 けれど、この本を読むと、「それだけではない」側面が、国際政治や外交の議論において過小評価されていることを改めて実感する。

 この本によって、日本の安保理加盟問題や国連の存在意義の議論などが、今まで以上に具体的なイメージをもって行うことが可能になった。

 著者も本書のどこかで書いていたけれど、とりあえず、総合雑誌や新聞などで見られる、国連の実態を知らないだけの地に足のついていない議論が今後なくなっていけばいいなぁと思う。

 鷲田小彌太 『夕張問題(祥伝社新書、2007年)
 
 
 財政破綻した夕張市の現状・歴史・これからについて、同じ北海道の田舎に住む著者が、優しさと冷酷さを交えて簡単に分析・展望した本。

 主な主張はこんなところ。

・批判の多い再建計画は、前年度と比べると驚くような数字が並んでいるけど、あくまで同規模の自治体の平均的なレベルに落とすにすぎない。

・炭鉱がなくなった後、市が主導して観光事業を行ったことが、問題を深刻化するとともに、市民の行政への寄生意識を生んだ。

・行政に頼らずに自力で作り上げた夕張メロンの品質やブランド力はすごい。

・現に暮らしている人たちが快適に生活できるという観点から、農業と高齢者の就業を重視した共同体を作るべき。
 
 
 詳細な分析とか緻密な将来の再建案とかは出てこないけど、テレビなどで歪められた夕張問題および夕張市の全体像やイメージを把握するには手軽でいい。
 
 
 
 ところで、夕張の問題は民主主義的・政治制度的にも重大な問題を提起しているように思える。

 夕張の問題は、住民の側からすれば、今となってみると、問題がこんなに深刻になって財政破綻に至ってしまう前に、色々と手を講じさせ(てみ)るべきであった、ということになるだろう。

 そして、それは本来、選挙(や選挙の存在からくる圧力)を通じて、行政の長たる市長や行政の監視役たる市議会議員に伝えられるべきであった。

 しかし、それは、無風選挙のためか、議会のオール与党体制( 田舎だと全員自民党で野党が存在しなかったりする )のためか、実際のところは分からないけれど、( 政治学者が考えるのとは違って)機能しなかった。

 この地方自治体における選挙という民主的な制度の(実質的な)機能不全はけっこうどこでもあり得ることではないだろうか? ( 首長にとっての野党が強すぎると長野県議会みたいなgridlock状態になりかねないというのもある。)

 しかしながら、不利益を被る可能性がある当の市民はといえば、夕張市の説明集会やインタビューで“お客様意識”丸出しの発言をしている市民がしばしば出てくることに典型的なように、主権者(特に自治体の)としての意識が薄い人が多いと言わざるを得ない。

 けれど、夕張の問題で考えれば、現実問題として、普段から一般市民が市の財政状態をチェックすることは、技術的・能力的にも、( どっかの誰かがやれば済むことはあえて自分がやろうとは思わないという )集合行為問題の存在からしても、難しい。

 選挙という有権者と執政者との相互作用の機能不全、有権者の希薄な当事者意識、市民が市の財政をチェックすることの現実的な困難さ、という3つの現状から考えるに、市民は、( 今回の夕張市のように急に財政再建団体になることを避けるために、)事前に“予防的な制度”を作っておく必要があるのではないだろうか? (この3つの条件が揃うのは主に地方部だろう。)

 すなわち、「予防的な制度」とは、財政問題で考えるなら、例えば、財政状態が事前に決められたある一定のボーダーライン以上に悪化した場合に、市長や議会が速やかにその事実を市民に( アリバイ的にならないように新聞広告を使うなどして )伝えることを定めた条例である。

 細かいこととしては、ボーダーラインは複数の段階の設定が可能だろうし、その段階に応じて市民への通知手段を変えることもできるだろう。また、実効力を持たせるために、それを行わなかった場合の責任者(市長)や関係者への処罰を設けることも必要だろう。

 このような制度があれば、普段は平穏に暮らしながら、いざという時は、問題の状況とその深刻度を回復不能に至る以前に簡単に知ることができる。

 ここで挙げたのはあくまで一例にすぎない。

 地方自治体は、国政と違ってマスコミによる監視が行き届かないだけに、市民の側が自己防衛として、重要な問題に対して、いわゆる「火災報知機」を公的な制度として仕掛けておくことは執政者(政治家・役人)へのコントロール手段として有効である。( 「火災報知機」は直接作動しなくてもその存在が執政者たちへのプレッシャーになる。 )

 急に財政破綻を知らされ、急に行政サービスの削減と自己負担の増加を迫られないために、健全な財政を保持するという経済的な努力以外にも、政治制度的にできることもあると思うのである。

 三浦博史 『舞台ウラの選挙(青春新書、2007年)
 
 
 選挙コンサルタントが今の日本の選挙がどんなものかを(候補者の側から)語っている本。

 衆院から首長から地方議会まで各種選挙で大体どれくらいのお金がかかるかを具体的に示しているところはおもしろい情報だった。

 だけど、他のところは、日常生活、友人関係、企業の経済活動、政治ニュース、芸能界のニュースなどに、普段からある程度、敏感に接している人なら解っているレベルの見方にすぎない。

 例えば、選挙に勝つ要因は「オーラ」と「熱意」である、とか。

 まあ、そもそも、選挙自体が国民の支持・投票を求めて行われる活動だから、一般的な国民の感覚から外れた奇異なことをしたところでうまくいくはずがなく、当然といえば当然だけど。( でも、プロなら何か秘策があるのではないかと期待してみたくはなるものだけど。)

 そんなわけで、いかにも新規参入組の新書らしい内容の薄い一冊。
 
 
 それにしても、この本を読みながら思ったのは、安倍首相は選挙(衆院選および自民党総裁選)で勝ったのに今の惨状があるわけで、つまりは、選挙で勝つことと優れた政治家であることとは全くの別物なのだなぁということ。( これは非常に残念なことではあるのだけど・・・。)

 内山融 『小泉政権――「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書、2007年)
 
 
 「パトスの首相」、「強い首相」、「アイディアの政治/利益の政治」といった視点から小泉政権を振り返っている本。

 内容は2つに分けられる。

 内政と外交の主な事例を検討した前半部と、小泉政権を理論的に検討した後半部。

 前半部で取り上げられている事例は、既に当事者やマスコミや学者によって(かなり活き活きと)伝えられているものばかり。

 それを、今さら平板にまとめられても、おもしろくないし、意味もない。

 既存の情報や研究をまとめただけの典型的なダメな卒論みたい。

 後半部の理論的な検討で用いられている「パトス(=理性的でない)の首相」とか「強い首相」とか「アンチ利益誘導」とかっていう言葉は、ワイドショーのコメンテイターのタレントから政治評論家から新聞から一般市民まで、色々な人によって既に言われているものであって、新しくないし、意味もない。

 それから、総じて、分析・定義・論理とかに危ういところが多い。
 
 
 この本の著者は政治学者だけど、この本は政治学の成果を( 部分的かつ恣意的にはともかく、)包括的に用いて書かれたわけではない(と思う)。

 それにしても、政治学者の書く本は、なんでつまらないものが多いのだろうか?

 例えば、この本を示して、「 政治学を学ぶとこんな分析ができます! 」とか言われても、全然魅力的ではない。

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