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 高橋洋一 『さらば財務省!――官僚すべてを敵にした男の告白(講談社、2008年)
 
 
 小泉・安倍政権下で(主に竹中平蔵の手足として)郵政民営化や財投改革のシステム設計などを担った官僚による内幕もの。

 (一応)財務官僚でもある著者が経験したこと、考えていることがかなり率直に語られていて、官僚のダメさ(無責任、保身、陰湿な抵抗、経済・経営オンチなど)と、著者のダメさ(独善的、独善的、独善的、政治オンチなど)がよく伝わってくる。

 数学と経済学に通じている著者による郵政や財投や年金などの制度設計の話は説得的だけど、それ以外のところ(全体の8割くらい)に満ちている著者の独善的な推測や解釈や主張は、官僚の絶望的なダメさ(周知のことだから以下では特に触れない)とのあわせ技の効果もあって、読んでてすごく疲れる。
 
 
 例えば、政策を選ぶのは国民や政治家であって官僚はそれに従うだけだと最初に自分で言っておきながら、その後のページでは「正論」だの「国益」だの「普通に考えると」だのといった言葉で正当化された著者の主張が唯一の正しい解答であるかのようにたくさん語られている。これぞ、自らが批判した自分たちに都合がいいように誘導〔する〕(p3)という官僚の典型的な手口じゃないのか? (独善。)

 それから、 (自分が押し進めた公務員制度改革や社保庁解体によって)霞が関のサボタージュが始まり、安倍政権は足下をすくわれる。自分の考えた政策には一点の曇りもなかったが、それが安倍さんの退陣を早めたのかと思うと、どこかやりきれない気持ちも心の片隅にあった。(p17)と言うのだけど、安倍政権が倒れたのは参院選敗北による国会の“ねじれ化”(停滞化)が主因(安倍晋三の資質の問題も大きい要因)であって、思い上がりも甚だしい。(自己陶酔。)

 また、安倍総理が、事務次官会議が了承しなかった案件を閣議に諮るという凄いことをしたのにマスコミが報道しなかったのは、マスコミが自らの情報源である役所の意向に反する記事を書くと記者クラブから締め出されて情報が入ってこなくなるのを恐れたからだ(p247)と言うのだけど、「事務次官会議が了承しなかった案件を閣議に諮った」ことが報道されることを、役所はそこまで(=記者クラブから締め出すほど)嫌がるだろうか? また、それなら、なぜ、役所のダメさ加減がこれでもかというくらいに分かる記事や番組が世の中に溢れているのだろうか? (パラノイア。)

 最後に、色々なダメな要素が詰まったお得な箇所を一つ抜き出しておこう。

民主党は、人材バンクはけしからんと声を大にするが、けしからんのは民主党案のほうではなかろうか。
 われわれの案と民主党案のどちらが適切か、選ぶのは国民だ。国民が民主党案がよいと判断すれば、それでもいい。野党や反対派があくまでも人材バンク廃止にこだわるなら、国民の了解のもと、能力主義の導入と引き換えに、人材バンク廃止を呑むという選択肢もある。
 ただ問題なのは、国民には客観的に選択できるだけの材料が与えておらず、国民が民主党案を真に理解できていないという現実である。
 私はマスコミから取材されるたびに、民主党案の問題点を指摘した。しかし、口を酸っぱくしていくら説明しても、この件についてはどこも無視同然で、記事にしたマスコミは、今のところ一社もない。
 中川秀直元幹事長も、参院選のときに、民主党案の欠陥を声を大にして国民に訴えたが、これもまた暖簾に腕押しだった。
 マスコミが垂れ流すのは、民主党の「天下り全面禁止」という耳触りだけはよい謳い文句で、その先にある、高給取りばかりの役人天国にはまったく触れようとしない。
 理由は定かではないが、「霞が関が裏で糸を引いている。職員の労働団体である官公労がバックで糸を引いている」と分析する人もいる。 (p251)

 言うべきことは色々あるけど、一つだけ言うなら、財務省をはじめ各省庁から嫌われ、いじめられた人間が、「客観的」とか自称するな。

 
 こういう人は、得意の数学と経済学を活かしてしこしこと分析や制度設計の大量生産を行うか、独善や自己陶酔やパラノイアといった“政治家の資質”を活かして政界に入るか、どちらかに特化すべきだろう。

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 岡田憲治 『はじめてのデモクラシー講義(柏書房、2003年)
 
 
 「市民」という言葉に主眼を置きながら民主主義の歴史や思想を説明している本。ちなみに、ここでいう「市民」とは「シトワイヤン」ではなく「ブルジョア」のこと。(だからといって共産主義に偏った理解・説明ではない。)

 前半の中世から現代に至る西洋の政治史(市民史)の説明は簡にして要を得ていて分かりやすい。( 高校の世界史だと細かい人名とか年号に捕らわれすぎていて、より重要なはずのこういう大きな流れを理解できていないことが多い。)

 ただ、後半の日本の(過去と現在の)話になると、前半では少しだった道徳的・俗説的な話がやたら多くなってきて、内容にまとまりもなくなり、読むに耐えなくなってくる。

 道徳と俗説の両方が見事に合わさっている記述を1箇所だけ引用。

そもそも高度経済成長というものがどうして可能になったのでしょうか? 第一には、みんなが一生懸命働いたからです。戦争で荒廃した社会を復興させなければならないという強い気持ちも働いたでしょう。しかし、いくらやる気があっても人々の努力が効率的に動員され、かつ生産へと結びつかなければ、毎年十%を超えるような経済成長が可能となるはずがありません。そして、それを可能にしたのが国家の力でした。 (p173)

 経済学の知見を知らなすぎる。(今どきの学生の非常識をバカにする前に自分を恥じろ。)
 
 
 全体として(「はじめてのデモクラシー講義」として)は、前半の歴史の説明は分かりやすいけど、今の実際の制度の説明もなく、不十分。それに、個人的見解も多数紛れ込んでいて、キャッチーなタイトルに見合った内容にはなっていない。

 上杉隆 『官邸崩壊――安倍政権迷走の一年(新潮社、2007年)
 
 
 安倍政権で起こった様々な出来事やエピソードを集めた本。

 爆笑。

 もちろん、政権はまだ継続中だし、話が詳しすぎたりするから、書いてある内容はある程度割り引いて読まなくてはいけないんだけど。
 
 
 今の内閣の惨状の原因について、「秘書官が」とか「官房長官が」とか「大臣が」とか、(当事者からのものも含めて)色々言われているけど、どう見ても原因の7割方は安倍首相にある。

 記者会見(官邸でのぶら下がり会見)での目線の持っていき方さえ自分で判断できなくて、毎日行われるぶら下がり会見ぐらいで「国民に直接訴える」とかいう抽象的理由から「カメラ目線」を助言してしまうような人を身近に置いてしまって、それをそのまま受け入れその不自然さに自分でも気付かないで、結局批判されて呆気なく元に戻す。そんな内閣総理大臣。
 
 
 もはや今の安倍晋三に自己主張(自分自身への自信)なんてものは完全になくなっていて、小泉前首相に助言されればその通りにし、自民党の重鎮から批判されればその通りにし、国民から批判されればその通りにする。

 となると、全て受け身で全て1テンポ遅れで行動や主張の一貫性もなくなる。

 そんなわけで、今後の政治の動向を判断するに際して、もう安倍晋三個人に注意を注ぐ必要は(ほとんど)ない。
 
 
 そんなどん臭い機械と化した首相が最近重視(従属)しているのが自民党の先生方だ。

 組閣に際して、派閥の領袖様に入閣して頂いたり若造を排除したりと「玄人好み」という名の旧来の自民党への回帰を行って、もう小泉政権時代を「例外」としてしまった。

 で、その自民党の先生方にとっての最大の懸案といえば「選挙」だ。

 参議院では過半数割れしてるし(参議院は)解散もできないから当分この状態が続く。で、衆議院の方も前回大勝ちしてしまったから次回大幅に議席を減らすのは避けられないし、その上、今の内閣がもうほとんど泥舟状態で今解散でもしようものなら大敗して衆参完全逆転での政権交代が目に見えている。

 この崖っぷち状態をどうすれば打開できるのか?

 民主党との大連立は弱者・自民党にとっての楽観でしかない。スーパースターがでてきて人気を挽回するにも人材がいないし自民党の先生方はもうそういう人は勘弁願いたいと思っている。民主党が自滅することは大いにあり得る。そのために時間を稼ぐの悪くはない。ただ、時間が経てば経つほど安倍政権の失点の方も致命的に増大している可能性が大いにあり得る。

 参院選後に安倍続投を(安倍本人のせいにしつつ)決断してしまった時点で自民党の敗戦は決まったようなものだ。あの時点で麻生にでも変えておけば、と思う。自民党の先生方も安倍首相も、導入されて10年も経つ小選挙区制の凝集的なメカニズム、ダイナミズムを理解していないのではないかと不思議になる。

 こう色々考えてきてそれらを総合すると、一つの結論として、中選挙区制復活論が噴出するかもしれない。

 ただ、中長期的にはともかく、目下の危機的状況を脱するには時間的に間に合わない。
 
 
 となると、大局としては、無難に、 安倍内閣総辞職 → 麻生内閣誕生 → 解散総選挙 → 衆院選での致命的敗北=野党転落を避ける しかない。

 なら参院選後にやっとけと思うんだけど、そうしなかったことに特に考え抜かれた戦略など安倍首相にも自民党にもないのだろう。

 あとは、いかにして総辞職のタイミングを利用するか/利用できるだけの状況を醸成できるか、に政治センスが問われることになる。
 
 
 けど、とにもかくにも、最近の政治を見ていて思うのは、小泉政権時代とまじめに向き合おうとしないためか、自民党全体の政治感覚が国民世論とかなりズレを生じさせている、ということ。

 だから、結局のところ、これから自民党がどう動くのかなんて分からない。勝手に自滅するかもね。

 大嶽秀夫 『小泉純一郎 ポピュリズムの研究(東洋経済新報社、2006年)
 
 
 制度ではなく、人(=小泉純一郎)が重要だという観点から小泉政権を振り返っている本。

 人(=小泉純一郎)という観点から、道路公団改革、郵政改革、自衛隊の海外(アフガン、イラク)派遣、北朝鮮による拉致問題の4つの問題の政治過程を整理している。
 
 
 制度が想定した通りに全てが動くなんてことはなく、人が重要だということくらい誰でも知ってるし、それに反対する人もいない。

 小泉純一郎が天才的な政治センスの持ち主であり、そのことによって小泉政権が(それなりに)“成功”したということは、テレビ・新聞を見聞きしているほとんどの人が思っていることだし、そういう事例をいっぱい載せている本もすでに複数出版されている。

 著者自身も、 この両者(※人と制度)は、必ずしも二律背反的ではない。そして筆者は、制度的要因を軽視するものではない (p.Ⅴ)と語っている。

 であるならば、この本の意味は一体何なんだろうか?
 
 
 この本で扱われている4つの事例が、人(=小泉)、もしくはポピュリズム、という観点から改めて整理されることで、新しい理解や以前とは異なったイメージを与えられているわけでもない。

 かといって、小泉純一郎のパーソナリティや戦略が、心理学やら脳科学やらゲーム理論やらを使って深化や体系化されているわけでもない。

 これを読んだ日本国民が得られるものは果たしてあるのだろうか?

 ――ない。

 結局この本がやっていることは、制度的な要因の説明を省いて事例をまとめ直しただけの、学部生の卒論と大して違わないレベルのことだ。

 「制度と人が二律背反ではない」と言うのなら、「 どこまでが制度によるもので、どこまでが人によるものか? 」をこそ明らかにすべきだった。
 
 
 そんなわけで、実証系政治学者の大御所による小泉政権分析ということで期待してたんだけど、精々、「緒言」と「1章」と「終章」の合計30頁強を読めば十分な、つまらない本だった。
 
 
 ところで、これで、日本政治史上に残る“成果”を残した小泉政権を理解するのに有益な文献の選別がほぼ終わり、内容的にも一通り出揃ったように思う。( ただ、メディア関係が欠落している。)

 個別の政策領域ごとの話では読んでない本も結構あるけど、「小泉政権全体についての理解」ということではこれらの本を読めば十分だと思われる。

◇有力な当事者による回顧
・飯島勲 『小泉官邸秘録』 (日本経済新聞社)
・竹中平蔵 『構造改革の真実――竹中平蔵大臣日誌』 (日本経済新聞社)

◇小泉政権の象徴的な出来事を集めた本
・読売新聞政治部 『自民党を壊した男――小泉政権一五〇〇日の真実』 (新潮社)
・読売新聞政治部 『外交を喧嘩にした男――小泉外交二〇〇〇日の真実』 (新潮社)
・大下英治 『小泉は信長か――優しさとは、無能なり』 (幻冬社文庫)

◇小泉政権の制度的理解
・竹中治堅 『首相支配――日本政治の変貌』 (中公新書)

◇前提となる日本政治の理解
・飯尾潤 『日本の統治構造』 (中公新書)
 
 
 ただ、個人的には重要だと思いつつも、(おそらく)誰も指摘していないことが一つあるから、それを記しておこう。

 すなわち、(自民)党総裁選の重要性についてだ。

 小泉が党総裁および首相に選ばれたのも、その後かなりの影響力を発揮できたのも、その元は総裁選にある。

 森首相が“密室”で選ばれたと批判される前までは、自民党の総裁選はほとんど自民党議員だけで選んでいた。

 それが、“密室”批判や首相公選論の高まりなどのために、一般党員の投票結果を重視する制度に変わった。

 そして、その結果、以前ではあり得なかった“泡沫候補”・小泉が総裁・総理に選ばれた。

 そして、小泉政権誕生以後の“内閣と党との対立”、“小泉と抵抗勢力との対立”の根源はここに発している。

 すなわち、以前であれば、党(=自民党議員)の多数派意見が総裁を決めていたものが、一般党員の意見を大幅に取り入れることで、党内(=自民党議員内)の多数派意見と実際に選ばれる総裁が異なるという事態が発生するようになったのだ。

 こうして、「“小泉”“自民党”政権」は、議院内閣制であるなら本来一元的であるべきはずの党と内閣との間に亀裂が生じ、イシューによっては(自民党議員と首相との)“二元代表”のような様相を呈するようになったのだ。

 では、だからといって、党総裁選を元通りに(ほぼ)議員だけで選ぶようにすれば良いかといえばそうでもないのが難しいところだ。

 どういうことか?

 議院内閣制、小選挙区制による二大政党制では、選挙においては党首=首相候補が重要になる。

 ということは、党首を選ぶ段階で世論(≒一般党員)の意見を聞き入れておくことは実際の選挙に直結するため、選挙戦略上、プラスになる。

 しかし、そうすると所属議員(の多数派)と党首との間で対立が生じ得ることにもなるのは、前述したとおりだ。

 果たしてこのジレンマはいかにして解消されるべきなのか?

 『日本の統治構造』(中公新書)で一元的統治システムとしての議院内閣制を明瞭に描きだし、21世紀臨調などで実際の政治改革の提言なども行っている飯尾潤にでも聞いたみたいところだ。

 草柳大蔵 『斎藤隆夫 かく戦えり(文春文庫、1984年)
 
 
 1940年2月2日、第75議会における「支那事変処理方針への質問演説」(通称「反軍演説」)にて、

ただ徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑居し、曰く国際正義、曰く同義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字をならべ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば・・・。現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。

 と、軍部が牛耳る政府を糾弾し議員除名に処された保守政治家・斎藤隆夫の生き様を、「斎藤隆夫・三大演説」を含む6つの発言へと至る時代背景を追いながら描いた評伝。

 去年、再刊されてもいる。
 
 
 斎藤隆夫は、上の引用にも表れているように、抽象的言辞を弄ぶだけの右翼・左翼とは一線を画す。

 すなわち、国際政治においては現実主義的な、国内政治においては自由民主主義的・法治主義的な価値基準に従って判断を下す。
( ※いわば、「リアリズム的リベラリズム」とでも言える。リアリズムとリベラリズムが国際政治上、対立概念だと考えられているのを避けるべく、民主党の枝野幸男が言うところの「したたかなリベラル」にも近い(?)。)

 これはつまるところ、「(抽象的・概念的まとまりとしての)“国家”のため」でもなく、「(抽象的・理論的な)“理想・空想”のため」でもなく、「(具体的に生きている)“国民たち”のため」を第一に考えていることを表している。

 そもそもの国家の存在理由からしてあまりに当然と思えるこの基準を有している政治家・言論人・国民が、現在において果たしてどれだけいるだろうか? むしろ、現在、「 国家 without 国民 」もしくは「 国民 for 国家 」という主客の転倒した思考をしている人が多くはないだろうか?
 
 
 斎藤隆夫の演説から。

近来、ややもすれば時局問題および国防問題につきましては、よくその内容を検討せずして、ただ盲目的に、無条件に政府に服従することを以て、愛国者なりと心得ている者がある。世の中の俗物はいざ知らず、われわれいやしくも憲法の委託によって国政の根本に参画する権能を与えられている者は、かくのごとき考えは少なくともわれわれの間においては通用しないのであります。 ( 斎藤隆夫「国家総動員法案に関する質問演説」、1938年2月24日、第73議会 )

今や外にあっては百万の皇軍が生死を忘れて国家の為に戦っている。のみならず既に数万の将兵は戦場の露と消えているのである。これは法律の力によるものでありましょうか。決してそうではありますまい。また内においては全国到るところに愛国運動が起っている、銃後の後援運動が起っている。これは法律の力によるものでありまするか、決してそうではありますまい。 (中略) 百の法律を作り、千の立法をなすといえども、国民の精神がここに至らなければ、断じてこの事実を見ることは出来ないのであります。然るに、この国民性に向って深き考慮を払わない。この国民に臨むに当って法律万能を夢みている。 (中略) しかも斯くのごとき重刑を以て国民に臨んで、国民の権利自由を拘束して、国民を弾圧して、国民を信用しないのみならず、かえってこれを疑うがごとき立法をなすことが、果して国民の精神を捉える所以であるか。果して国民の愛国心を鼓舞する所以であるか。果して国家総動員の実を挙げて真に国防の目的を達する所以であるか。 ( 斎藤隆夫「国家総動員法案に関する質問演説」、1938年2月24日、第73議会 )

 
 
 そんな斎藤隆夫の存在が、この本が書かれた1981年の時点でさえいまとなっては、その名前と実像を知る人はごく稀ではないか(p9)と思われていてその後も状況に変化がないのは残念な(ちょっと不思議な)気がする。

 ※ ちなみに、つい最近、斎藤隆夫による『回顧七十年』(中公文庫)が復刊された。けれど、古本屋を探せば100円かそこらで見つかりそうなもので、しかも著作権も切れてる(※青空文庫で入力作業中でもあるらしい)文庫本を1500円で売り出すなんて、ぼったくりもいいところだ。今回取り上げた本の再刊された単行本でさえ1600円なのに。誰が買うか。

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