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半藤一利 『戦う石橋湛山』 (ちくま文庫、2019年)
石橋湛山は、戦後、首相を務めるも病気により2カ月で辞職を余儀なくされた。そのため存在感の薄い首相となってしまっている。
しかし、石橋湛山の真価は戦後の政治家としての仕事ではなく、戦中の勇敢かつ慧眼に基づく言論活動にある。絶対権力を有していた軍部の大日本主義を批判し、一貫して小日本主義を主張した。しかも、その主張は冷静でプラクティカルな思考に基礎を置いている。
本書は1995年に書かれたものの「新装版」の文庫化だ。筆者はもともと「戦前の日本ジャーナリズム」を書くことを意図していたため、石橋湛山の生涯を追ったものではない。しかし、それでも石橋湛山の最も熱い時期の活動は生き生きと描かれている。
大勢の意見は時として王を打倒し、民主主義を導入させ、華々しい進化をもたらす。しかし、大勢の意見が常に正しいとは限らない。それは逆に独裁者を賛美し、大虐殺を肯定し、悲惨かつ無意味な戦争を引き起こしたりもする。
「時代の空気」や「メディアによる煽動」に流されることなく冷静な思考と謙虚な研鑽(学び)を実践できる「石橋湛山」たりたいものだ。
曽我謙悟 『日本の地方政府』 (中公新書、2019年)
【概要】
地方公共団体を1つの政治主体である「地方政府」ととらえ、その様々な側面を包括的に分析・説明している。地方政府内のしくみから、選挙制度、地方政府間の関係や中央政府との関係などだ。いわば、地方公共団体を政治学的にとらえた教科書的な本だと言える。
【著者】
著者は行政学や現代日本政治を専門とする政治学者。代表作は『ゲームとしての官僚制』。この著書からもわかるとおり、数学を使うなどする科学的な政治学を志向する。この学問的姿勢が本書を客観的なものにしている。
【意義】
上記の通りではあるが、まず何より、客観的な記述・分析が貫かれているところだ。地方自治の分野は政治学に比べると科学的な志向性が弱い傾向にある。したがって、中央政府を批判して地方自治体を無批判に称賛・擁護するものも多い。あるいは、地方自治体への批判的な考察が弱いものが多い。その点、学問的な誠実性のある本書は、地方自治について知りたい人向けの入門書として信頼できる。
教科書的な本とは言え、平凡な切り口で網羅的に語っているわけではない。その特徴は政治学的な視点だ。首長や議会と政党との関係に多くの紙幅を割いていたり、中央・地方関係をそれぞれのアクターの権力関係として捉えていたり。
【欠点】
読み物としてのおもしろさに欠ける。地方自治にもともと相当の興味を持っているものならよいが、「ちょっと読んでみようかな」、「全くわからない分野だけど勉強してみようかな」といった読者にとっては読み通すのはなかなかの苦行になるのではないかと思える。
【総括】
その分野の信頼できる著者による、昔ながらの重厚でまじめな新書。政治学的な視点での新しい(と思う)切り口も多くて問題提起的でもあり、行政学・地方自治を学ぼうとする大学1年生あたりには最適な教科書となる。
菊池正史 『「影の総理」と呼ばれた男――野中広務 権力闘争の論理』 (講談社現代新書、2018年)
野中広務の経歴を見ると、平成までを含めた戦後日本が凝縮されているような感さえ受ける。
戦争に参加し、敗戦を知った後は自決をしようと決心する。(本書にも出てくる、自決を思いとどまったエピソードは感動的だ。) そして、会社勤めを経て地方での青年団活動で頭角を現す。その手腕が買われ地方政治へ進出。まだまだ色濃く残っていた部落差別や部落が貪る既得権益と戦う。また、冷戦の対立構造を反映した革新・京都府政では共産党と戦う。その間、田中角栄、竹下登と親交を深め、58歳で国政に転じる。遅咲きの中央政界進出にもかかわらず、その忍耐力や交渉力で権力の階段を上っていく。冷戦終結と時を同じくしてやってきた55年体制の終焉と自民党の下野も経験する。その際は社会党との連立を実現した与党復活の立役者にもなる。その後は、「ポスト冷戦」の政治を反映するかのような(あるいは、小選挙区制導入の必然か)権力の一極集中時代に突入する。すなわち、小泉劇場だ。そこでは抵抗勢力として国民の敵として祭り上げられ政治の表舞台から立ち去る。
戦争を憎み、差別と闘い、自由(資本主義)を擁護し、感情的にならず粘り強く討議できる。それが自らの実体験によって裏打ちされている。そのため、現実離れした抽象的な理想論を振りかざすこともない。
本書で語られる二之湯参議院議員の野中評。
「野中さんの魅力は、人の心を打つ言葉にあった。それは単なる雄弁ではなくて、長い苦労を重ねた人生から、心の奥底からほとばしるようなものだ。決して論理的ではないが、心に響く言葉だった。」(p132)
本来、政治とは異なる意見の続出する闘技場で皆に関わる事項を決定する営みだ。となれば、誰か(「独裁者」と呼ぼうが「カリスマ」と呼ぼうが)がずばずば決めていくべきであるようなものではない。
また、自由を基調とする現代社会において、政治の役割は強者というより弱者にその軸を据えるべきなはずだ。
そういう観点で見るならば、多くの世間のイメージとは裏腹に野中広務は皆が理想とする政治家像に近い。「庶民の味方」としてドラマの主人公になっても不思議でないような政治家だ。
かつて秘書を務めていた山田広郷が野中を語るところだ。
「「愛のない社会は暗黒であり、汗のない社会は堕落である」
この言葉を聞いた時の衝撃は、今も胸を貫いているという。
「どんなに立派に天下国家を語っても、事情を抱えて困っている人、社会的弱者に対する愛情がなければ、国民のための政治ではない。そして、努力して結果を出したものが、正当に評価される社会にこそ活力が生まれる。そう考えていたんだと思う。国鉄時代も、政治の世界でも、嫉妬され、様々に足を引っ張られた。努力しないものが、した者を嫉妬し邪魔することは、まさに愚かであり堕落であるということを訴えたかったのでしょう。」」(p141)
野中広務という政治家の存在を通して見えてくる現代日本の問題点は、「時代が変わった」の一言で済ませられないものばかりだと思うのだ。
橘玲 『言ってはいけない中国の真実』 (新潮文庫、2018年)
例えば、中央(中国共産党)・地方(郷鎮など)の関係は意外にも地方の力が強い、政府の役人による腐敗(収賄)が起こるのは公務員の多さやそれによる給与の少なさによる、国民自身も民主化を望んでいないといったことなどだ。
日本で日々のニュースから受ける中国の印象は、共産党独裁で政治的自由がない一方で、経済成長著しくその恩恵が一部の富裕層を生んでいるというものだ。
中国や韓国や北朝鮮といった国に関しては、殊に、断片的で極端なエピソードや偏見にまみれた意見が蔓延していて「真の姿」をつかみにくくなっている。国民をあげて感情的になっていてはろくなことにならないのは歴史が教えてくれているところだ。
したがって、このような本をいろいろ読んで、多面的で冷静な知識を吸収し、きちんとした理解をしたいと改めて思わされた。
伊藤之雄 『元老ーー近代日本の真の指導者たち』 (中公新書、2016年)
大日本帝国憲法が発布されて以後、選挙も政党も議会もあるのに「本格的政党内閣」ができるのは大正時代(1918年)の原敬内閣まで待たなければならず、それまで藩閥系の首相ばかりが続いている。また、原内閣後も政党内閣が続くわけではない。では、その頃の選挙・政党・議会の意味とは一体どのようなものだったのか? あるいは、そういったものが力を持っていないのなら、誰が/どの機関が力を持ち、首相は誰がどのように決めていたのか?
ここのところ、そんな疑問を抱いていた。高校の教科書をより詳しくしたような『詳説 日本史研究』(山川出版社)を読み、(記憶の限りでは)中学校では全く習わない「元老」とやらが天皇の輔弼機関として力を持っていたらしいということはわかった。
しかし、では、「元老」とは具体的に誰で、選挙も政党もある時代においてまで元老はいかにして力を持ち続けることができたのか?
ここがわからないことには当初の疑問は解決しない。そんな自分の悩みを解消してくれる本はないものかと本屋に行ったところ、そのものずばりなタイトルの本書を見つけた。目次を見ると、明治維新から敗戦までが章立てられている。昭和になってまで元老は関係していたのかと、「そんなこと(学校では)一言も聞いていないぞ」と驚き半分、疑い半分に本書を購入し、最後まで読み終えた。
「元老」なる言葉が公的に用いられる前の明治維新後に力を持っていたのは大久保、西郷、木戸、岩倉だった。憲法が制定され天皇が主権者になったが、天皇が政治的な責任を追及されるような事態に発展しないよう、重要事項の実質的な決定機関としてその時々の有力者が元老になって天皇を輔弼していく。後継首相の指名はその主要な役割の一つである。伊藤博文一人がその任を果たしていた時代もあれば、伊藤、山県、黒田、井上などが元老になっていた時期もあれば、山県が一人力を持っていた時期もある。そして、最後は西園寺が暴走しそうな陸軍と対抗しながら孤軍奮闘するが敗れ、元老はその役割を終える。
読んで驚いたが、元老を軸に日本政治を見ていくと、明治から昭和(終戦まで)にかけての日本の政治史がほぼ網羅されているのだ。元老は近代日本政治を理解するに際して「欠かせない」と言うにとどまらず、近代日本政治とは元老による政治のことだと言ってもよいくらいに思える。中学の歴史で習う、当時の政党や議会は、今の基準でこそ大事なものではあるが、当時のそれらは今のそれらとは果たしている役割が違いすぎて、一体どこまで意義があるのか疑問に思えるくらいだ。(この疑問を解決すべく政党政治の歴史に関する本を読むつもりだ。)
そして、ほぼ非公式で非民主的な元老が、これほど長くにわたって力を持ちえたのは、本書の終章などでも言及されているとおり、元老たちの個人的な卓越性や能力によるところが大きそうだ。近代的な政治制度を導入したばかりの未熟な日本において、彼らは、保護者的な役割を行き過ぎることなく抑制的に果たしている。このような視点から、本書では元老とされる人たちは、老練で冷静な政治家として描かれている。もちろん、本書で言及されないネガティブな点もたくさんあることだろう。しかし、元老が国民などからの強力な批判にさらされずに生き延びてきたということが、元老の内実(と本書の主張の正しさ)を教えてくれているように思える。
翻って現代の日本政治を見るに、民主主義が深化し、今や泰然自若と構えている元老のような政治家は皆無と言っていいだろう。それが悪いことだとは決して言わないが、ほんの少しだけ寂しい気持ちになってしまう。