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 おいしい殺し方 A Delicious Way to Kill』(監督:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、主演:奥菜恵)
 
 
 BSフジ、GyaOで放送されたドラマの劇場版。シネマGAGA(渋谷)にて2週間だけレイトショー上映中。

 昨日(26日)、公開初日に観てきた。公開初日ということで上映前に舞台挨拶。

 登場したのは、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(日本人)、奥菜恵、犬山イヌコ、池谷のぶえの4人。

 終始、ぐだぐだな感、強し。

 でも、奥菜恵の、作品中の役柄とはかなり対照的なオウツクシサには、%☆#▽%&☆$。。。
 
 
 監督・脚本のケラリーノ・サンドロヴィッチ(日本人)は、人気劇団ナイロン100℃を主宰している。

 演劇界のことはよく分からないけど、最近テレビとかにもよく出ている松尾スズキみたいな、ちょっぴり(?)変わった感性から繰り出される可笑(おか)しいネタで爆笑を生み出すタイプ。

 以前、『ドント・トラスト・オーバー30』を劇場で観たことがある。
 
 
 で、今回の作品。

 おもしろい。笑いどころ満載。
 (※昨日は舞台挨拶後の上映ということで観客のノリがよく、その雰囲気に影響された可能性も多少あり。)

 演劇っぽい笑いを映画にしたような感じ。

 演劇とテレビドラマおよび映画を比べると、ドラマ・映画の方が現実世界に近い。

 なぜなら、演劇は舞台という限られた空間の中だけで上演されるのに対して、ドラマ・映画は実際の生活空間を使って撮影されるから。

 これは、当然、その監督がどっちの世界出身か、どっちの世界に基礎を置いているか、によっても違ってくる。

 こういう点から見ると、今回の作品『おいしい殺し方』は、まさに演劇出身で演劇に基礎を置いている監督による映画。

 だから、登場人物のキャラとか外見とか行動とか発言とかが現実離れしてて、ものすごく演劇っぽい。

 だから、演劇っぽい笑いを映画にしたような作品。
 
 
 「おもしろいか、おもしろくないか?」だけで十分?

 確かに、この作品はそれだけで十分だけど。

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 前回の映画感想の記事から大分間が開いたために、観た映画が蓄積されつつある。だから、ここらでまとめて感想を放出。

 ただ、観てからかなり時間が経って内容を忘れかけているものもあるから、短めでも勘弁を。

 
 
 まず一本目は、『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー監督)。

 同性愛を描いているため、アカデミー賞〈作品賞〉を受賞して良いのか悪いのかがアメリカで問題になった(が、結局受賞しなかった)作品。1960年代のアメリカの雄大な山脈の中が主な舞台。

 個人的には、いまいち。

 確かに同性愛を直接的に描いてはいるけど、同性愛を巡る社会状況に関しては二次的な位置付けしか与えられていなくて、話のメインテーマは「純愛(の男同士ヴァージョン)」。同性愛に対して非常に冷酷な社会状況は、純愛の“障害の一つ”という位置付けでしかない。

 だから、「社会派」として騒がれた割りに、「社会性」とか「メッセージ性」はそんなに強くない。

 とはいえ、これは精神の奥底までリベラルで「異質なもの」に寛容である(と自負している)自分にとっての話であって、(頭ではいけないと思いつつであっても)同性愛に感覚的な嫌悪感を抱いている人にとっては印象深い作品となるのではないかと思う。実際、アメリカで話題になったのはキリスト教保守派的な心性を持つ人が多いからだろう。

 良かったところは、舞台である大自然の魅力を余すところなく伝えてくれる映像の綺麗さくらいなもの。
 
 
 
 二本目は、『ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女』(アンドリュー・アダムソン監督)。

 有名なファンタジーである原作をディズニーが映画化した作品。ごくごく簡単に言えば、イギリスの4人の兄弟が思いがけず迷い込んだナルニア国で王になることを運命づけられていて、その運命を受け入れて悪者を倒し、王になるという話。

 原作を読んだことがないからこの後に話がどう展開していくかは分からないけど、少なくともこの「第1章」に関してはストーリーが単線的であまりおもしろくない。

 同じヨーロッパ童話風なファンタジーなら、間違いなく「ハリー・ポッター」シリーズの方がおもしろい。

 映画化スタッフの力量不足なのか、一話ごとに区切ったのが失敗だったのか、原作がそもそもいまいちなのか、一体どこに失敗の原因があるのだろうか。

 それにしても、パニックの時とか危機の時とかに“苛立たしいほどに不合理な行動を取る人”が特にアメリカ映画によく出てくるのは何とかならないのだろうか。確かに、人間はいざという時は平時には理解しがたい行動を取るものなのだろうけれど、観てる側にハラハラドキドキさせたいという意図があまりに明らかな「不合理な行動」は稚拙であって高度な技術とは言いがたい。
 
 
 
 三本目は、『シリアナ』(スティーブン・ギャガン監督)。

 石油を巡る中東におけるCIAおよびアメリカ政府の活動の話。原作は、ロバート・ベアという元CIA工作員の自伝『CIAは何をしていた?』(新潮文庫)。

 映画はありきたりな話という印象を受けた。驚くほどの衝撃はない。
 
 
 
 四本目は、『ヴェニスの商人』(マイケル・ラドフォード監督)。

 言わずと知れたシェイクスピアの劇作の映画化。公開は大分前で、すでにDVDも発売されている。

 ストーリー展開に緊張感はあるし、演技は鬼気迫るものがあるし、映像は時代の雰囲気を上手く表せているし、音楽は幻想的で透き通った「水」をイメージさせる感じだし、映画の基本的な構成要素のどこを取っても平均を上回る質の高い映画の部類に入る。

 4月にDVDが発売してからというもの、買うべきか買わざるべきか悩み続け、結局買わざるまま今に至っている。ここまで来たら「もういいか」という気持ちが大勢を占め始めているが。
 
 
 
 五本目は、『Vフォー・ヴェンデッタ』(ジェイムズ・マクティーグ監督)。

 独裁国家となった未来のイギリスを舞台に、「V(ヴィー)」と呼ばれる仮面の男が自由を取り戻すべく様々な画策を試みる。

 1605年にイギリスで実際に起きた「ガイ・フォークス火薬陰謀事件」を話に取り入れたり、最近のアメリカとイギリスの「反テロ」という名の恐怖煽動政治を意識したり、ほとんどの人にとって想像の中のものである独裁国家のリアリティを可視化したりと、政治的な題材がいろいろ取り入れられているのだけど、これらが独裁国家・独裁者を倒すというメイン・ストーリーに上手く活かされているとは言いがたいように感じた。

 それから、中世ヨーロッパ風のセットといい、仮面の男といい、その仮面の男が紳士だけど冷血な復讐魔であるところといい、ロイド=ウェーバーの映画『オペラ座の怪人』を思わせる。というか、似すぎていてちょっと引いた。
 
 
  
 六本目は、『ホテル・ルワンダ』(テリー・ジョージ監督)。

 今回取り上げた6本の中で間違いなくベスト作品。フツ族とツチ族とで内戦状態にある1994年のルワンダを舞台に、そのあまりに悲惨な状況と、その中で必死に人命を守ろうとする高級ホテルの支配人の行動を描いた、事実に基づく作品。その主人公は「アフリカのシンドラー」とも呼ばれているらしい。

 民族、軍事力、金、国連、先進国、といったものに対して重く鋭い圧力をもって考えさせる。「民族とは何か?」「軍事力は絶対的な悪か?」「金持ちも貧乏人も、赤の他人も家族も、人の命は平等に守られ、扱われなければならないか?」「日本はアフリカに自衛隊を派遣すべきか?」等々。

 ただ、やむを得ないことではあるが、この映画もいくつかの重要なバイアスが含まれている。この点は、この映画から現実の紛争問題に対する教訓や対応策を引き出す際には注意しなければならない。

 一つは、フツ族が大規模な大量虐殺をしたのは事実だが、フツ族だけが一方的に相手民族を攻撃したわけではないこと。両民族ともに攻め攻められという経験をしている。つまり、単純に善悪はつけられないということ。

 この映画では、フツ族の虐殺ばかりが出てくる。

 もう一つは、上のこととも関係するが、先進国や国連が軍事力をもって介入することは、簡単には善悪が決められない場合、どちらか一方に有利になるように加担することに往々にしてなってしまうこと。確かに、虐殺される側からすれば「先進国や国連はルワンダを見放した」というように見えるだろうが、国連などがルワンダを(一時的であっても)軍事的に支配することは内政干渉だから許されないだけでなく、紛争をより複雑かつ過激にしてしまうだけである。厳しい現実だが、当事者同士での一定の解決なしには他国は介入するわけにはいかないのだ。それが更なる無秩序を生まないために世界が学んできた自制の国際ルールだ。

 この映画を観ると、国連軍や自衛隊の軍事的介入を積極的に推し進めるべきだという短絡的な主張に傾きかねない。しかし、これはまさにアメリカのネオコンの論理(例えば、シャランスキーの本のまんまだ)である。そして、この主張をアフリカのルワンダに適用するなら、北朝鮮やミャンマーといったより近隣の独裁者や軍事政権の国にすぐに軍事介入してそこの国民を救えということになりかねない。イラク戦争の例のように別の被害者をまた生み出すことにもなってしまう。

 映画によって明らかになった辛い現実があらゆる国で今現在も起こっていることを、映画製作者と同様の強靭な想像力を働かせてしっかりと思い起こしてから、現実の問題に対する対応策についての発言は行うべきである。
 
 
 しかし、このようなバイアスがあるとはいえ、これらはあくまで現実の紛争問題を考えるときに気をつけるべきことであって、映画としての問題提起、現実把握、分析視角はどれも一級のものだと言える。

 ただ、絶賛した割りには、個人的には、この映画の中の内容・現実は想像の範囲内であって、自分の価値観や考えを揺るがすような新しい衝撃といったものはなかった。傲慢に言えば、これくらいのことは想定した上で自分の主張をしているつもりである。

 とはいえ、久しぶりの、観る価値のある映画。

 最近、硬めの本ネタばかりだから、たまには息抜き。

 今年の初めに、「今年は映画(劇場・DVDともに含む)の感想をもっと書こう」と思ったのだが、未だに一つも書いていない。もちろん、あまり本数を観てないというのもある。ただ、何よりあまりおもしろい作品に巡り合えていないというのが一番大きい。

 そこで、いまいちな作品の中から戦争映画に絞った上で、それらをまとめて取り上げることにした。

 
 
 
 まず一本目は、『ロード・オブ・ウォー(LORD OF WAR)』(主演:ニコラス・ケイジ)。去年の12月公開だからやや古い。戦争用の武器を売買する、いわゆる“死の商人”の話。主人公は、闇社会との抜け出せないくらい深い結びつき、莫大な富、家族、良心との間で引き裂かれる。事実に基づいた作品ではあるけれど、誰でも思いつくような単純な構図。しかも、それぞれの葛藤や緊張は深くないし、突っ込みも甘い。そんなわけでおもしろくなかった。
 
 
 
 二本目は、『ミュンヘン』(監督:スティーヴン・スピルバーグ)。こちらは現在も公開中。1972年、ミュンヘン・オリンピック中に、武装したパレスチナ・ゲリラ、“ブラック・セプテンバー”がイスラエル選手村に乱入し、選手・コーチ2名を射殺し、残りの9名を人質に取って立てこもった事件を基にした作品。映画は、事件後、パレスチナ・ゲリラへの復讐を命じられたイスラエルの工作員たちの活動・葛藤に焦点が当てられている。

 そこで描かれているのは、「暴力の連鎖の“恐怖”」だと感じた。そして、ここがまさに、良くも悪くもスピルバーグ作品らしいところだと思う。つまり、観ている最中は話の展開にドキドキするのだが、その話の展開による気持ちの高ぶり以外にはおもしろさや評価できるものがほとんどないということだ。今回の作品で言えば、政治的・社会的な題材を扱っていながら、結局、感想が“恐怖”という“感情のレベルのもの”でしかないのがそのことを表している。

 しかし、これは逆に言うこともできて、この監督は映画によって何がしかの感情を喚起する才能に長けていることにもなるのだ。ただ、今回の『ミュンヘン』にしろ、さらには前作の『宇宙戦争』はなおさらだと思うが、どちらも“恐怖”や“スリル”といった感情を引き起こすだけに終わっていて、それを使いこなせていないために、観終わった後に残るものがほとんどない。

 そんなわけで、スピルバーグには、喚起した感情を上手く利用することが求められるのだが、これは難しいだろうから、いっそのこと“扇情だけに特化した映画”を作ってみて欲しいと、最近の二作品を観て思った。
 
 
 
 最後、三作品目は、『ジャーヘッド』。これは湾岸戦争の兵士の記録を基にした作品。題材が「初めての現代戦争」と(たぶん)言われる湾岸戦争だけに、新しい戦争映画になっていることを期待したが、期待外れだった。(※以下、ややネタバレあり)

 スタンレー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』といったこれまでの戦争映画の有名なシーンを取り入れたり、結局イラクで銃を撃たずに帰ってくる兵士と身近な人を戦争で失った人とを対比させたりしながら、「戦争(体験)は人によって違うから戦争は一つではない」ということが一番言いたかったのだと理解した。

 ただ、主張が「戦争は人によって違う」というところで止まっているから、それを認識することがどういう意味を持ってくるのかが不明。しかも、戦争の多様性を示すのに、過去の戦争観=戦争映画や、色々な境遇の人を列挙しているだけだから、新しさを感じられずにつまらない。この映画を観るより、何本かの戦争映画を観た方がよっぽど“個人にとっての戦争の多様性”は理解できる。

 ちなみに、「現代戦」を扱った映画としては、ソマリアでの米軍特殊部隊の失敗を描いた『ブラックホーク・ダウン』が今のところ一番おもしろい。個人の心理というミクロな側面ではなく、戦場というややマクロな視点からの映画という点でこの『ジャーヘッド』とは異なるが。
 
 
 
 どの作品に対しても批判的に書いてきたが、映画は次から次へとベルトコンベアーのように映像が流れていってしまうから、一回観ただけだと、見落としたりしている可能性もあるし、もう一回観たら別の理解・評価が生まれてくる可能性も十分にある。ただ、だからといってあらゆる作品を二度鑑賞することもできないからそれは仕方がない。
 
 
 
 さて、近日公開も含めて最近興味を持っている映画は、CIAの諜報員を描いた『シリアナ』(3月4日公開)、差別や偏見などを描いた『クラッシュ』、言わずと知れた大作『ナルニア国物語』(3月4日公開)、主人公が公務員ということで(?)『県庁の星』(2月25日公開)といったところ。正直、『クラッシュ』以外はあまり期待していないが。

 オペラ座の怪人(The Phantom of the Opera)』 (アンドリュー・ロイド=ウェーバー製作・脚本・作曲/ジョエル・シューマッカー監督)


 先週観てきた。形式的な誉め言葉としてではなく「すばらしい」という言葉がぴったりの映画。音と映像だけでかなり魅せられる。


 物語の重要なモチーフである「明と暗」、「光と闇」のコントラストが見事なまでに、音楽、歌、舞台(セット)、衣装で表現されている。また、小道具や場面転換の演出など細部に至るまで製作者の才能がにじみ出ている。これらが絡み合って観ている人を映画に引き込む。


 これら聴覚と視覚に訴えてくる「すばらしさ」には感動をおぼえる。安易な「物語」で感動を誘おうとするテレビ番組や映画が多い中、「音と映像だけ」で人々をこれだけ感動させるのは凄い。

 さて、いきなり話は変わるがこの映画であまり評判が良くないのはストーリーと字幕である。もちろん、音楽や映像にはこれらの気になる点を上回るに余りある良さがあるが。この映画みたいに音と映像が良い場合に誉める以外に書くことがあまりない。そこでよく否定されるこの2点について書いておく。


 まず、字幕だが、確かにこれは気になった。ただ、この映画はミュージカルのように歌が多用されているため、そもそも字幕には馴染まない。だからやむを得ないのかもしれない。日本の学校教育で英語を習ってきた自分としては、むしろ歌の場面では日本語の字幕より英語の字幕を出してくれた方が良かったかもしれない。しかしながら、そもそも英語を聞ければ問題は起こらないわけで、英語のリスニング力を身に付けたいと切に思うと同時に日本の英語教育を恨みたくなった。


 次にストーリーであるが、こちらも確かに、単純すぎである点や、人物の行動の一貫性が怪しかったりする点など気になった。しかし、ファントム(怪人)の悲壮感や醜態さは見事に描かれているし、共感もできる。例えば、「自己に対するコンプレックスが駆り立てる歪んだ醜い精神」というようなものは、自分はもちろんのこと、キムタクやイチローといった人たちまで誰にでもあるものではないだろうか。しかも、そんな(精神的に)醜いファントムが音楽の天才だという一見一貫しないかに思える設定も、逆に外面的には天才でるように見える人(=「明」)でもその内面では苦しんでいる(=「暗」)という人間のアンビバレントな奥深さを考えさせてくれる。


 この点で思い出すのが、寺島実郎が雑誌の連載「脳力のレッスン」で触れていたこの映画の作者アンドリュー・ロイド=ウェーバーの人生である。(※これは本になった『脳力のレッスン』にも収録されている。)ロイド=ウェーバーは、まさに“音楽の天才”で「現代のモーツァルト(だったかな?)」との呼び声も高いほどにその才能は評価されている。しかし、私生活では何度かの離婚をするなど苦悩の人生を歩んでいるのだ。


 こういう点を念頭に置きながらこの映画を観ると単純なストーリーと思っていたものもなかなか感慨深い「自叙伝」になる。




 さて、かような訳で、この映画を観終わった後は映画の中の世界に完全に引き込まれた状態になる。そして、その余韻をいつまでも心の中に止めておいて楽しみたいと感じる。これを実行するには、映画を観終わってすぐに地上の明るいところに行かずになるべく暗いところに止まるのがいい。

 あれから3年。今考えると、あの時点での衝撃も相当大きかったのですが、その後の世界に与えた影響も非常に大きなものでした。そんな懐古的な気持ちで(だから今回は丁寧語!)、この日にあえてあの映画の感想を書こうと思います。3年前の記憶と3週間ほど前の記憶を辿りながら。
 


公開2日後に映画『華氏911』(M.ムーア監督)を、久しぶりに映画館まで行って観てきました。

 まず、この映画の謳い文句であるブッシュを告発するストーリーに関する感想としては、監督の自著『アホでマヌケなアメリカ白人』や、B.ウッドワード『攻撃計画』あたりを読んでいたため、1~2つのことを除いて目新しさはなく、物足りなささえ感じました。しかし、だからといって、このあたりの前提知識がないとブッシュ政権の“黒い関係”の話は分かりにくいのではないかとも感じました。ただ、そもそもこの点に関しては、人々をブッシュ政権の不支持に動かすほどの説得力には欠けているように思います。石油とか軍需産業とか巷に知れ渡っているもののブッシュ版で、ジョブの応酬といった感じです。

 そんなわけで、上の点よりもむしろ、この映画(というよりドキュメンタリー)の意義は戦争、死、セキュリティ、兵士、愛国といった内容について、現実に即しながらも“一般的に”、そして深く、考えさせるところにこそあると思います。したがって、この点からすると、「ブッシュの政策を支持するか、反対するか」についての判断は、これら戦争などについて深く再考させた後に視聴者に委ねられているのであり、必然的に反ブッシュに至らせる訳ではありません。事前の宣伝とは裏腹な、この反ブッシュでの一貫性の欠如、生ぬるさが、この映画の期待に対する失望や不満へとつながっているように思います。(だからといって中立に戦争等を描いているわけではない。つまり、戦争は戦争としてブッシュとはあまり結び付けずに描いている。)

 さて、ここで911以後の世界を冷静に考え直してみようと思います。そもそも9月11日に起こったテロというものはあの時あの場所にしか存在しないものであり、911それ自体が直接変えたものはWTCビルの消滅等限られたものです。この点では情報革命やイラク攻撃などが直接的に広範の人々の物理的生活を変えるのとは性質が異なります。つまり、「911以後の世界」とは、人々の911の解釈を介した上で、人々によって変えられた世界なのです。例えば、同じ事件やテロでも他のものと比べてみればこのことは明らかです。そして、そうであるならば改めて911について冷静に再考するのも意味のあることです。

 そこで911がそれほどまでに重要であるなら、「911の一体何が新しいのか?」を考えてみようと思います。アル・カイダという組織は911前からすでに活発に活動していました。テロという行為は古くから行われており、外国においてではあっても米国の大使館等が標的にもされています。米国の中枢部を攻撃するために何十年もかけて米社会に同化し信頼を得て米国内部から実行する可能性は常に存在しています。あるいは、(911と)同様のことを米国人が行おうと思えばより簡単に実行可能です。2億人以上いる米国人の誰もこんなことをしないと言い切れるでしょうか。このように考えてくると、911以前も以後もこの種の事件の可能性は常に存在しており、物理的な世界や環境は911以前も以後も変わっていないのです。そして、この種のものは今後も防ぐことも不可能だと言えます。

 '結局のところ、“このような悪事を起こす人がいるか、いないか”が全てなのです。'

 911以後の政治家や専門家は事あるごとに引照基準や正当化事由として911を持ち出します。それを受け入れる人々の側でも頭の中で暗黙の前提として911のような事態を想定します。奇しくも、911を過剰に利用しようとするブッシュを批判しようとしたムーアまでもが911を使ってしまい、人々の中の「911という基準」を再生産するのに寄与してしまっています。しかし、911が前述のようなものであるならば、引照基準として持ち出される911とは無内容な空虚なものなのです。

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