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前回の映画感想の記事から大分間が開いたために、観た映画が蓄積されつつある。だから、ここらでまとめて感想を放出。
ただ、観てからかなり時間が経って内容を忘れかけているものもあるから、短めでも勘弁を。
まず一本目は、『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー監督)。
同性愛を描いているため、アカデミー賞〈作品賞〉を受賞して良いのか悪いのかがアメリカで問題になった(が、結局受賞しなかった)作品。1960年代のアメリカの雄大な山脈の中が主な舞台。
個人的には、いまいち。
確かに同性愛を直接的に描いてはいるけど、同性愛を巡る社会状況に関しては二次的な位置付けしか与えられていなくて、話のメインテーマは「純愛(の男同士ヴァージョン)」。同性愛に対して非常に冷酷な社会状況は、純愛の“障害の一つ”という位置付けでしかない。
だから、「社会派」として騒がれた割りに、「社会性」とか「メッセージ性」はそんなに強くない。
とはいえ、これは精神の奥底までリベラルで「異質なもの」に寛容である(と自負している)自分にとっての話であって、(頭ではいけないと思いつつであっても)同性愛に感覚的な嫌悪感を抱いている人にとっては印象深い作品となるのではないかと思う。実際、アメリカで話題になったのはキリスト教保守派的な心性を持つ人が多いからだろう。
良かったところは、舞台である大自然の魅力を余すところなく伝えてくれる映像の綺麗さくらいなもの。
二本目は、『ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女』(アンドリュー・アダムソン監督)。
有名なファンタジーである原作をディズニーが映画化した作品。ごくごく簡単に言えば、イギリスの4人の兄弟が思いがけず迷い込んだナルニア国で王になることを運命づけられていて、その運命を受け入れて悪者を倒し、王になるという話。
原作を読んだことがないからこの後に話がどう展開していくかは分からないけど、少なくともこの「第1章」に関してはストーリーが単線的であまりおもしろくない。
同じヨーロッパ童話風なファンタジーなら、間違いなく「ハリー・ポッター」シリーズの方がおもしろい。
映画化スタッフの力量不足なのか、一話ごとに区切ったのが失敗だったのか、原作がそもそもいまいちなのか、一体どこに失敗の原因があるのだろうか。
それにしても、パニックの時とか危機の時とかに“苛立たしいほどに不合理な行動を取る人”が特にアメリカ映画によく出てくるのは何とかならないのだろうか。確かに、人間はいざという時は平時には理解しがたい行動を取るものなのだろうけれど、観てる側にハラハラドキドキさせたいという意図があまりに明らかな「不合理な行動」は稚拙であって高度な技術とは言いがたい。
三本目は、『シリアナ』(スティーブン・ギャガン監督)。
石油を巡る中東におけるCIAおよびアメリカ政府の活動の話。原作は、ロバート・ベアという元CIA工作員の自伝『CIAは何をしていた?』(新潮文庫)。
映画はありきたりな話という印象を受けた。驚くほどの衝撃はない。
四本目は、『ヴェニスの商人』(マイケル・ラドフォード監督)。
言わずと知れたシェイクスピアの劇作の映画化。公開は大分前で、すでにDVDも発売されている。
ストーリー展開に緊張感はあるし、演技は鬼気迫るものがあるし、映像は時代の雰囲気を上手く表せているし、音楽は幻想的で透き通った「水」をイメージさせる感じだし、映画の基本的な構成要素のどこを取っても平均を上回る質の高い映画の部類に入る。
4月にDVDが発売してからというもの、買うべきか買わざるべきか悩み続け、結局買わざるまま今に至っている。ここまで来たら「もういいか」という気持ちが大勢を占め始めているが。
五本目は、『Vフォー・ヴェンデッタ』(ジェイムズ・マクティーグ監督)。
独裁国家となった未来のイギリスを舞台に、「V(ヴィー)」と呼ばれる仮面の男が自由を取り戻すべく様々な画策を試みる。
1605年にイギリスで実際に起きた「ガイ・フォークス火薬陰謀事件」を話に取り入れたり、最近のアメリカとイギリスの「反テロ」という名の恐怖煽動政治を意識したり、ほとんどの人にとって想像の中のものである独裁国家のリアリティを可視化したりと、政治的な題材がいろいろ取り入れられているのだけど、これらが独裁国家・独裁者を倒すというメイン・ストーリーに上手く活かされているとは言いがたいように感じた。
それから、中世ヨーロッパ風のセットといい、仮面の男といい、その仮面の男が紳士だけど冷血な復讐魔であるところといい、ロイド=ウェーバーの映画『オペラ座の怪人』を思わせる。というか、似すぎていてちょっと引いた。
六本目は、『ホテル・ルワンダ』(テリー・ジョージ監督)。
今回取り上げた6本の中で間違いなくベスト作品。フツ族とツチ族とで内戦状態にある1994年のルワンダを舞台に、そのあまりに悲惨な状況と、その中で必死に人命を守ろうとする高級ホテルの支配人の行動を描いた、事実に基づく作品。その主人公は「アフリカのシンドラー」とも呼ばれているらしい。
民族、軍事力、金、国連、先進国、といったものに対して重く鋭い圧力をもって考えさせる。「民族とは何か?」「軍事力は絶対的な悪か?」「金持ちも貧乏人も、赤の他人も家族も、人の命は平等に守られ、扱われなければならないか?」「日本はアフリカに自衛隊を派遣すべきか?」等々。
ただ、やむを得ないことではあるが、この映画もいくつかの重要なバイアスが含まれている。この点は、この映画から現実の紛争問題に対する教訓や対応策を引き出す際には注意しなければならない。
一つは、フツ族が大規模な大量虐殺をしたのは事実だが、フツ族だけが一方的に相手民族を攻撃したわけではないこと。両民族ともに攻め攻められという経験をしている。つまり、単純に善悪はつけられないということ。
この映画では、フツ族の虐殺ばかりが出てくる。
もう一つは、上のこととも関係するが、先進国や国連が軍事力をもって介入することは、簡単には善悪が決められない場合、どちらか一方に有利になるように加担することに往々にしてなってしまうこと。確かに、虐殺される側からすれば「先進国や国連はルワンダを見放した」というように見えるだろうが、国連などがルワンダを(一時的であっても)軍事的に支配することは内政干渉だから許されないだけでなく、紛争をより複雑かつ過激にしてしまうだけである。厳しい現実だが、当事者同士での一定の解決なしには他国は介入するわけにはいかないのだ。それが更なる無秩序を生まないために世界が学んできた自制の国際ルールだ。
この映画を観ると、国連軍や自衛隊の軍事的介入を積極的に推し進めるべきだという短絡的な主張に傾きかねない。しかし、これはまさにアメリカのネオコンの論理(例えば、シャランスキーの本のまんまだ)である。そして、この主張をアフリカのルワンダに適用するなら、北朝鮮やミャンマーといったより近隣の独裁者や軍事政権の国にすぐに軍事介入してそこの国民を救えということになりかねない。イラク戦争の例のように別の被害者をまた生み出すことにもなってしまう。
映画によって明らかになった辛い現実があらゆる国で今現在も起こっていることを、映画製作者と同様の強靭な想像力を働かせてしっかりと思い起こしてから、現実の問題に対する対応策についての発言は行うべきである。
しかし、このようなバイアスがあるとはいえ、これらはあくまで現実の紛争問題を考えるときに気をつけるべきことであって、映画としての問題提起、現実把握、分析視角はどれも一級のものだと言える。
ただ、絶賛した割りには、個人的には、この映画の中の内容・現実は想像の範囲内であって、自分の価値観や考えを揺るがすような新しい衝撃といったものはなかった。傲慢に言えば、これくらいのことは想定した上で自分の主張をしているつもりである。
とはいえ、久しぶりの、観る価値のある映画。