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by ST25
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 更新が1週間も空いてしまった。

 けど、ネタがない。

 そんなわけで、この機を利用して、「音楽」カテゴリーに属する記事が2個と少ない上、2つともアイドルの歌という若干“世間的には”恥ずかしい惨状を改善しておこうと思う。

 とはいっても、「音楽」を語る言葉をそんなに持ち合わせていないから、ここ1~2ヵ月の間にリピートで聞いた曲について簡単に一言ずつコメントするだけだけど。

 ※「古い!」という文句・突っ込みは今の音楽を作ってる人へ。
 

 
 1.平原綾香 「ジュピター (作詞:吉元由美、作曲:ホルスト、編曲:坂本昌之)

 ホルストの曲に歌詞を付けた、言わずと知れた名曲。

 曲、詞、声、どれを取っても壮大で、作品をじっくりトータルに味わえる。

 ただ、「愛を学ぶために 孤独があるなら」というところ、仮定を明確にしているのは誠実だけど、「愛を学ぶために孤独がある」とは思えない。残念。
 
 
 2.KREVA 「国民的行事 (作詞・作曲:KREVA)

 冒頭が「♪バーカ アーホ ドジ マヌケ~・・・」という替え歌にされるモーツァルトの名曲に乗せて、「♪やるぞ~ やるぞ やるぞ~ 俺はやるぞ~」と連呼する二重にお馬鹿な曲。

 ノリはすごく良いから、何も考えずにカラ元気を出したいときに最適。
 
 
 3.ALI PROJECT

 通称アリプロ。アニメの主題歌なんかを歌ってる。かなり好き。アニメファンの間だけに留めておくのはもったいない。官能的。ただ、甘~い感じのお花畑っぽい歌はあまり好きではない。

 アリプロの歌は、強いて言えば、椎名林檎の音楽・世界からリアルな生々しさを取って、より幻想的(ある意味、二次元=アニメ的?)にした感じ。

 今まで自分が聞いたのは全曲には程遠いけど、「地獄の季節」、「未来のイヴ」、「愛と誠」がベスト3。(※Remember 文学作品, but 愛と誠)

 サントラ(「hack」とか)なんかに収録されてる歌のない曲も芸術的なセンリツ。
 
 
 4.ハレンチ☆パンチ 『DokiDoki!ファースト☆パンチ!

 3人組ガールズユニットの「ベスト」的ファーストアルバム。

 アイドルアイドルしてないガールズポップとしては最高峰に連なる。3人ともかわいいし。(ハレンチ☆パンチの方が多少曲調はロックだけど、今はなきchee'sの次に位置付けてもいいくらい。)

 「ジュエル」、「メガホン」、「急上昇JUMP!」、「Girl's Navigation」あたりが特に好き。

 ちなみに、つい最近、「ハレンチ☆パンチ」から「80★PAN!」に改名した。
 
 
 5.garbage 『Version 2.0

 「オルタナとポップを架け橋した」と言われるガービッジのセカンドアルバム。

 3枚目の『beautiful garbage』を先に聴いて退屈だったから期待してなかったけど、こっちは良かった。巷の評判ではファーストの『G』はもっと良いらしい。ちなみに、3枚目のアルバム、“聴ける”のはボーナストラックで収録されてる有名な「The World is Not Enough」だけ。この曲は大好きだけど。

 『Version 2.0』では、「Temptation Waits」、「I Think I'm Paranoid」、「When I Grow Up」が特に好き。
 
 
 6.小田和正 「言葉にできない」 (作詞・作曲:小田和正)

 小田和正はベストアルバム『自己ベスト』なんか、いい。自然に還ったときのような癒しをもらえる。

 だけど、このアルバムにも収録されてる「言葉にできない」という曲。

 言葉で表現する人(作詞家=小田和正)が、「言葉にできない」なんて堂々と敗北宣言しちゃいけないだろ、と突っ込まずにはいられない。
 
 
 7.郷ひろみ 「GOLDFINGER'99

 今、改めて聴くと、かなり笑える。

 大爆笑。

 「あーちーちー あーちー」って。

 やけどで必死。
 
 
 
 今回はここまで。

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 カレル・チャペック 『山椒魚戦争(栗栖継訳/岩波文庫、1978年)
 
 
 山形浩生による書評で知って読んだ。

 おもしろい。

 B級小説みたいなタイトルだけど岩波文庫に収録されている古典的SF小説。「ロボット」という言葉を作ったチェコの作家によって1936年に書かれた。

 知性の少し発達した山椒魚を見つけ、各国が争うように単純労働に使っていたら、徐々に増殖し、知能も人間に近づいてきて、ついには山椒魚によって人間が支配されてしまうという話。

 市民(平民)もしくは労働者階級が権利などを獲得していく“革命”(市民(民主化)革命 or 共産主義革命)、および、植民地争奪戦を繰り広げる“帝国主義的時代状況”の寓話的な表現になっている。

 山椒魚が一歩ずつ進歩し人類を支配していく“革命”成就の過程は、ノンフィクションやルポルタージュのような冷静かつ巧みな筆致で描かれていて、山椒魚が知性を持つという突拍子もないフィクションな設定でもリアリティを感じさせてくれる。 (“革命”とか“帝国主義”が実際にあった出来事であるというのもあるけど。)

 そして、進化・支配の主体として人間(のある集団)ではなく動物(山椒魚)を用いることは、意図や論点を先鋭化し、固定観念を相対化し、この小説の批評性を大きく高めるのに貢献している。
 
 
 とはいえ、つまるところ、この小説が、人間と山椒魚とを対立させることで提起している究極的な問題は、(民族や国家などの)“政治的法則”、(資本や生産などの)“経済的法則”、(あらゆる生物への慈しみなどの)“道徳的法則”といった、人間特有の人工的な規範に捉われてしまった人間が、自分たちの出自であるにもかかわらず忘却の彼方に追いやってしまった原始的な“生物学的法則”の前に敗れ去るという皮肉である、と(やや強引だが)まとめることができる。

 具体的には、“人類対山椒魚”という存在を賭けた究極的な問題であるはずのものの前に立ちふさがる、国家間の対立、金儲けへの欲求、同じ生き物である山椒魚への同情・慈悲などである。

 シュペングラーの『西洋の没落』のパロディとして登場する書物『人類の没落』が、山椒魚の前に人類が敗れ去る必然の理由を説明している。

  人間はエゴイズムから、人間と人間とのあいだに新たな差別を、永遠につくり出し、その後、寛容の精神と理想主義から、ふたたび、そのあいだにかけ橋を渡そうとしたのだが、山椒魚も、そのような誤りをくりかえす、と諸君は思うだろうか。
 (中略)
 山椒魚の世界が人間の世界より幸福だろうことは、疑う余地がない。それは統一がとれ、同質であり、同じ精神によって支配されるだろう。山椒魚と山椒魚とのあいだには、言語・見解・信念はもちろん、生活上の要求の差もないだろう。文化的な差はもちろん、階級的差もなく、分業が存在するだけだろう。主人もなければ、奴隷もないだろう。すべての山椒魚が、 (中略) 大山椒魚共同体にのみ奉仕するのであろうから。こうなると、存在するのは一つの民族、一つの階級だけなのだ。それは、われわれの世界よりもすぐれ、完成された世界なのである。 (pp354-355)

 しかし、だからといって、この事態を回避するために、人間が本来持っていた野蛮な生物学的側面を重視するようにすれば済む問題でもない。

 なぜなら、それは人間が山椒魚になり下がること、つまり、人間が人間であることを放棄することを意味するだけのことだからだ。

 「 山椒魚にならずに、山椒魚にも負けない 」

 この簡単そうで意外に難しい問題の存在を、この小説は明らかにしている。

 そして、この問題に対する解答が見つからない限り、「人間は山椒魚より下等である」ということを暗に示していると言えるのだ。

 PROPAGANDA STAGE vol.25 『 四月の風、ただ舞い上がる 』 ( 作・演出:砂川仁成/2007年4月5日~8日/@ザムザ阿佐谷 )
 
 
 「青春、夢、成長」を描いた芝居。

 ひどい、と思う。

 特に男性陣の演技。(の、特に準主役の演技。)

 「下手な演技」と言ったとき真っ先に思い浮かべるような、典型的な下手な演技。

 台詞も表情も、わざとらしい抑揚のつけ方で、ちょっと漫画っぽい。

 上演中、「わざとベタに下手っぽい演技をして素朴さを出そうとしているのか!?」とか、「わざとベタに下手な演技をして笑いを取ろうとしているのか!?」とか、考えた。(心の中で笑いは起こっていた。)

 でも、そのように好意的に理解するには、他の役者の演技との整合性や、ストーリーの内容からして、無理がある。

 したがって、「ひどいだけ」と結論づけた。

 しかも、よりによって話の展開が大してないから、演技がよく目立つ。

 ちなみに、話は、「 夢を追いかける。あるいは、夢を追いかけてる人に触発されて昔の夢を再び追いかける。 」というもの。(爆)

 ジョージ・オーウェル 『動物農場(高畠文夫訳/角川文庫、1972年)
 
 
 平等を目指したロシア革命が独裁制に陥った歴史を、農場主から独立した家畜動物たちに擬して描いた小説。

 家畜が主人公という設定からしてそうだけど、個々の発言とか行動の描写に滑稽だけど鋭い風刺が効いていておもしろい。

 例えば、 いやしくも二本脚で歩くもの、それはすべて敵である。いやしくも四本の脚で歩くもの、あるいは翼をもつもの、それはすべて見方である。 (p15)と、のたまっていたリーダーの豚が、最後には二本脚で歩いてしまうところとか。
 
 
 ちなみに、この小説を共産主義(マルクス-レーニン主義)批判とだけ捉えるのは狭すぎる。

 この小説は、共産主義の経済理論的欠陥ではなく、あくまで共産主義が独裁になるという政治的欠陥について主に描いている。

 そして、この独裁に至るという点では、エリート主義の右翼も共産主義の左翼も同類だ。

 そして、当然、民主主義も同じだ。

 また、独裁者になった豚(およびその取り巻きの犬たち)を批判するのも無意味だ。

 強者は力による支配へと誘惑される。権力は腐敗する。

 これらは人間である限り避けられない性質として受け入れなければならない。

 重要なのは、それを防ぐメカニズム(制度)であり、国民のレベル(民度)である。

 この「動物農場」でも、致命的に思考力のない(文字も読めない)馬や羊などの被支配者たちの存在、憲法のような掟である「七戒」の蹂躙などによって独裁へと至っている。

 ただ、「七戒」の蹂躙といった制度の機能不全は、被支配者側の文盲などのために発生しており、何より第一義的に重要なのは、被支配者(主権者)側の知性であることがこの小説からも教訓として引き出せる。

 結局、国民が賢くないなら、共産主義でもエリート主義でも民主主義でも破滅へと至るのだ。

 H・G・ウェルズ 『タイムマシン(石川年訳/角川文庫、2002年)
 
 
 今から100年以上前、19世紀末に書かれた言わずと知れた傑作SF小説。

 80万年後の未来を描いている。

 「タイムマシン」という、“未来”をイメージさせる機械を用いて行った“未来”(80万年後)の世界に生きる人間は、生物として大幅に退化している。

 そして、その未来の退化した人間は、2種族による「階級社会(社会?)」になっており、しかも、「労働者階級」たるモーロックが、「資本家階級」たるエロイより、食物連鎖上、上位に君臨している。

 悲観的な未来像を描いているけれど、大地震とか隕石衝突とか核戦争といったカタストロフィックな出来事を使わずに、生物学(進化論)的な理論の必然としての悲惨な未来を描いている。

 物語展開上の細かいところで「偶然」に頼りすぎている嫌いはあるけれど、2002年に公開された映画では描ききれていない哲学的・社会的な含蓄もあり、映画を観ていても改めて読む価値はある。

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