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by ST25
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 山崎正和 『歴史の真実と政治の正義(中公文庫、2007年)
 
 
 歴史と政治の関係を論じた表題作、現代における教養論、司馬遼太郎論の3つの中編を中心に編まれたもの、の文庫化。

 90年代後半に書かれた文からなっていて、グローバル化と情報化に影響されすぎた内容のものが多い。

 最近読んでないからあくまで読んだ当時の印象だけど、山崎正和の短文集なら『二十一世紀の遠景』が(良いところ悪いところ含めて)包括的で一番おもしろいと思う。

 とはいえ、今回の本も山崎正和の文章の中ではいまいちなのであって、巷に氾濫している駄文や駄コメントに比べれば少なくとも100倍はおもしろい。

 とはいえとはいえ、そんな本書の収録作の中でも、追悼・追想として書かれた2つの司馬遼太郎論は例外的に卓越しておもしろい。

 特に、「風のように去った人――追悼・司馬遼太郎」の方。

 著者は司馬作品の中でもモンゴルを舞台にした『草原の記』をこそ傑作だとする。その読後の感銘は次のように表される。

この作品を読了した私の胸を打ったのは、司馬さんはとうとうたどりついてしまったのではないか、という感慨であった。見るべきものはすべて見てしまったというか、偉大な歴史文学者がついに歴史のない世界、あるいは反歴史の世界観につきぬけていったという思いであった。 (p142)

 「反歴史の文学」・「反歴史主義の文学」。著者は司馬文学をそう表現する。

 この『草原の記』も含めて司馬作品をほとんど読んでない自分が言うのもなんだけど、司馬作品を読んでまず感じる印象的な乾いた筆致と、それとは対照的な愛読者の暑苦しい反応。この距離感に対する違和感に納得できる説明(というか、読んだ第一印象を正当化する読解)を与えてくれたのが、司馬遼太郎と親交もあったこの山崎正和による司馬遼太郎論だった(のを思い出した)。

 「歴史の真実と政治の正義」のような区別と似ているけれど、「作品自体の評価とその作品の自分にとっての意味」は、しっかりと区別しなければいけない。

 なんでもかんでも、やたらと自分や会社や社会にとっての教訓を引き出す類いの受容は、大抵の場合、おそらく、その作品の本来の意味や内容を理解していないのではないかと思われる。

 小説や映画や演劇などの感想によく見られる、1つの台詞をあげて「これが印象に残った」という類いの感想はその典型だ。

 別にそういう楽しみ方を全否定するわけではないけど、そういう“我田引水”の私的な受容だけでは、全てが「♪育ってきた環境が違うから 好き嫌いはイナメナイ」(『セロリ』唄:SMAP、作詞・作曲:山崎まさよし)で済まされてしまって、タコツボ的な狭苦しいコミュニケーションのない状況を生むだけなのだ。

 これでは緊張感も進歩もない。
 
 
 話がずれ始めているけど、とにかく、この司馬論を読んで、暑苦しい愛読者の反応ゆえ(だけでもないけど)に読むことを避けるようになった司馬遼太郎を、改めて読んでもいいなぁと思わされた(のも思い出した)のだ。

 けど、結局、読んでない。(弱められたとはいえ、英雄史観に変わりはないわけで。)

 でも、『草原の記』くらいは、読まなければ、とは思う。

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 Jean Fritz. Where was Patrick Henry On the 29th of May? (PaperStar, 1997)
 
 
 アメリカ独立運動時の名演説("Give me liberty, or give me death!")で知られるパトリック・ヘンリーについての子供向け伝記。

 調べてみても日本語の本はなさそうだったからやむを得ず英語の本(とは言っても子供向けの簡単で短いのだけど)を読んだ。

 子供向けの伝記だけに、思想信条とか政治行動とかに関する記述は少なくて、生い立ちとか名演説の場面みたいな象徴的な出来事の記述が多い。
 
 
 この本で描かれているパトリック・ヘンリーの人物像はこんな感じ。

▽ 子供の頃は裸足で野山を駆け回り、学校では落ち着きがなかった。
▽ そんな自然の中で育ったこともあって、自由については敏感だった。
▽ よく届く声(sending voice)の持ち主だった。
▽ 政治家で名演説家でもあった伯父の影響もあって演説や討論をよく聞いており、そのうちに演説の要諦を身に付け、また、弁護士を目指し弁護士になった。
▽ 税を課そうとし戦争の準備をしていたイギリス国王に怒るとともに、イギリス国王と仲良くし平穏に済まそうとしていたアメリカ人にも怒っていた。
▽ 州の独立を侵すアメリカ合衆国憲法に反対し、権利章典を制定させることで納得した。
▽ 引退後は莫大な土地を手に入れ、それを誇りにして暮らした。
▽ トマス・ジェファソンは彼を評して「Patrick Henry was all tongue.(弁舌しかない男だ)」と言っている。 
 
 
 名演説からイメージされるかっこよさを生き方にも貫いているとは言いがたいし、逸話に満ちているということもない。それに何より、自分好みではない。

 若干残念ではあるけど、まあ、あり得ることではある。
 
 
 とはいえ、変わらずに輝き続ける名演説(の最後の部分)を最後に。
 
 

It is in vain, sir, to extenuate the matter. Gentlemen may cry, Peace, Peace――but there is no peace. The war is actually begun! The next gale that sweeps from the north will bring to our ears the clash of resounding arms! Our brethren are already in the field! Why stand we here idle? What is it that gentlemen wish? What would they have? Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery? Forbid it, Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death!
 ――by Patrick Henry, March 23, 1775, at St. John's Church in Richmond, Virginia
 
 ※原文はこちらのサイト(「Project Gutenberg」)より

 
 続いて、拙訳。意訳という名の駄訳(かも)。

 事態を軽んじるのはもはや無駄なことだ。 諸君は、平和が、平和が、と叫び立てるだろうが、現に戦争は始まっているのだ! 次に通り過ぎる北からの風は、我々の耳に完全な武力衝突の知らせを運んでくるだろう! 我々の同胞はすでに戦場にいるぞ! それなのに、なぜ我々はこんなところで無為に突っ立っているのだ? 一体諸君は何を望んでいるのだ? 一体諸君は何を手に入れることができるのだ? 鎖と奴隷を代償にして購(あがな)われるほど、命は惜しいものか? 平和は甘美なのか? 断じてそんなことはない! 他の人たちがどんな道を選ぶか、私には知る由もないが、私に関しては、自由、しからざれば、死だ!
 
 ――パトリック・ヘンリー、1775年3月23日、セント・ジョンズ教会(ヴァージニア州リッチモンド)にて

 

 東京セレソンDX公演 『 歌姫 』 ( 作・演出:サタケミキオ/出演:宅間孝行、村川絵梨ほか/2007年7月11日~8月5日/@シアターサンモール )
 
 
 数週間前に観た、昭和30年代の高知の田舎町で繰り広げられる人情物語を描いた芝居。

 テレビドラマ『花より男子』(TBS)の脚本を書いているサタケミキオ=宅間孝行が主催している劇団の芝居。

 大泉洋も絶賛している。( この日記を読んで観に行った人もけっこういたみたい。)

 秋からはTBSで連続ドラマ化される。
 
 
 そんなこの芝居、今まで観た作品の中で、一番泣いてる人が多かった。

 公の場所であれだけの人が一斉に泣いてるのなんて、葬式ぐらいでしか見たことがない、というくらいにたくさんの人が泣いていた。( いろんな感想読んでると男女かかわらず泣いていた様子。)
 
 
 なんだけど、自分は別に泣けなかった。

 それどころか、憲法学者の毛利透が指摘するところの“表現の自由を行使することで少数派になることのリスク”を引き受けてはっきり言えば、感動もしなかった。

 なぜなら、彼ら・彼女らの、境遇の悲劇度は高くないし、思慮レベルも浅薄なんだもん。
 
 
 この芝居の話の筋は、かなり端折って言えばこうなる。

 過去の記憶が全く思い出せない一人の男(宅間孝行)がいる。医者は、過去の記憶を取り戻すと記憶を失って以後の記憶がなくなるかもしれないと言っている。そんな男を愛する純情娘(村川絵梨)がいる。男の方もその娘を好きなようである。が、二人とも田舎者らしい気の強いところがあって素直になりきれない。そんなところに、その男の妻であるという女が小さな子供を連れてやってくる。そんなあるとき、その男の過去の記憶が戻る。過去の記憶は戻ったが、その後の記憶が消えることはなかった。しかし、その男は最近の記憶は消えたふりをして好きだった娘に別れを告げて子供の方を選び去っていく。その娘は涙ながらに笑顔で男を送り出す。以上。

 まず男の方としては、過去の記憶が戻るかもしれないというリスクを覚悟しながらその娘を好きになっている。そして、記憶が戻り、自分が結婚していて子供がいたことが分かった以上、昔の妻の方を選ぶというのは誰もがそうするであろう難しい決断ではない。そして、それによって失うのは、リスクを覚悟の上で好きになった娘と結ばれることである。(別にすでに付き合ってたわけでもない。) これは事前に想定できたことだし、記憶喪失になっていた以上やむをえないことだと、辛いにしても納得できる理由が存在している。

 娘の方としては、好きな男が記憶喪失であって、過去に結婚しているかもしれないことも、記憶が戻ったときに最近の記憶がなくなるかもしれないことも、知っていたし確実に想像もできた。だから、実際にそうなったとき、悲しいとしてもそれは事前に想定できたことであって、納得できる理由はあるし、衝撃度、悲劇度は高くはない。
 
 
 道を歩いてたら車にひかれて死んだ。

 この、毎日、新聞でほんの数十字であっけなく語られる――というか、記事にさえならないことの方が多い――事実の方が、どれだけ悲劇であることか。

 事前に想像することもできない。納得できる理由もない。その後の人生もない。

 劇団BLUESTAXI・第14回公演 『落ちた男』 ( 脚本・演出:青田ひでき/2007年6月6日~6月11日/@中野ザ・ポケット )
 
 
 2ヵ月以上前に観た芝居。11年前の作品を手直ししての再演。

 以前観たこの劇団の芝居について、「 人の気持ちの変わり方・変わる契機が安易で浅薄 」と書いた

 そしたら、今回はもろに「人間は変われるか?」がテーマだった。このブログが影響を与えたわけではないだろうけど、思わず一人ほくそ笑んだ。
 
 
 それで、今回の作品での「変わり方・変わる契機」はどうだったか。

 確かに、主人公たちを中心に、惰性的な生活の中でなんとか変わろうという摩擦なり葛藤なりはあって、いきなり安易にあっけなく変わってしまう/変わらないでいるということはなかった。

 ただ、そんな主人公たちに精神的に大きな(プラスの)影響を与える“救い”的な位置付けの盲目の女性が、一人のプレイボーイ男をずっと信じていられる(=変わらないでいる)理由というのが、過去の一つの出来事(=転んだとき彼がただ一人助けてくれたこと)を絶対化しひたすら盲目的に信じ続けているだけだというのは、いただけない。なんせ、主人公たちの心の葛藤を全て相対化してしまうことになるのだから。( もちろんそれは、この作品が意図しない結論である。)
 
 
 さて、これとは別にこの芝居全体の感想を書くのに、チラシにも載せられている次の劇中の会話ほど分かりやすくて象徴的なものはない。

 「 誰? 」
  「 探偵です。 」
  「 ・・・コナン? 」
  「 違います。 」 

 この会話が実際に演じられたところで別に笑えないのはさておき、この話の展開のさせ方は強引で不自然だ。

 「探偵」という言葉を聞いて、それ以前に何の伏線もなくいきなり「コナン」を登場させることには無理がある。「コナン」は確かに「探偵」ではあるけれど、「コナン」の枕詞は「名探偵」以外にはあり得ない。

 このような不自然さや強引さが、他の会話でももっと大きな話の流れでも、しばしば見られる。

 これだと観る側にかなり無理や寛容を強いることになるし、いちいち話の流れの不自然さにつまづいてしまって話の中に入っていけないということになってしまう。

 つまりは、この芝居の半分は観客の優しさ(あるいは、鈍感さ。もしくは、無知。)でできていると言えるのだ。
 
 
 この劇団、客演を含めて、役者たちは“何ものかを演じること”に関してのプロと言っていいようなレベルを満たしている人たちばかりであるだけに、戯曲と役者との間に(主に戯曲の浅さ・平凡さのために)お互いを高め合う相互作用、相乗効果が働いていないように見えるのは、作品や劇団にブレイクスルーやインパクトを欠く原因になっているような気がしてならない。

 NODA・MAP番外公演 『THE BEE 《ロンドンバージョン》』 脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン演出:野田秀樹出演:野田秀樹、キャサリン・ハンター、トニー・ベル、グリン・プリチャード原作:筒井康隆「毟りあい」2007年7月12日~7月29日@シアタートラム
 
 
 前に感想を書いた《日本バージョン》のオリジナルである、ロンドンで上演されたものの日本での再演。台詞は英語で、日本語字幕つき。

 もう観てから1ヵ月くらい経った。

 《日本バージョン》の感想で言いたいことは色々と書いたから、今回の感想は《日本バージョン》との比較で気付いたことをいくつか簡単に書いておくに止める。
 
 
 まず全体的な印象としては、日本版では凝った演出が(良かれ悪しかれ)最大の見せ所だったものが、ロンドン版では演出がシンプルになり、話への注意を引くものになっていた。

 ただ、これは、演出・仕掛けへの注意が少なくて済むようになった分、話自体への注意がより多く行くようになった、というだけではなく、ロンドン版での演技にも大いに依っているように思う。

 まあ、とはいえ、基本的な話は同じわけだから、これは「より話が鮮明になった」というだけであって、しかも、話自体はそんなに完成度が高いわけではないから、全体としては、演出による楽しみがあった《日本バージョン》の方がおもしろかった、と言える。
 
 
 で、その日英の全体についての評価とは逆転するのが演技に関する評価。

 上で書いたように、迫力といい、間の取り方といい、ロンドン版の方が話をしっかり活かすように上手く表現されていた。(※ ただ、井戸に関してはロンドン版は平常から狂気への変化の幅が小さく、日本版(=野田秀樹)の方が狂気に陥っていく変化の様子がよく演じられていた。)

 これは、あるいは、役者の戯曲の理解度の差なのではないかと思ったりしている。

 日英両方のバージョンを実際に観て思った以外にも、第一に、日本人(俳優)と英国人(俳優)とで「対テロ」という名の“暴力の連鎖”という現象に対する切実さ・現実感が異なる点、第二に、パンフレットに載っている役者一人一人のインタビューの発言内容に現れている作品解釈の深さにおける日英間の違い、という2つのことからもそれが推測される。

 パンフレットの文章とかインタビューは、何でもかんでも真面目に語れば良いというわけでは全然ないけど、それにしても、 小説とかを読んでいても、ジョゼフとかジョンとか色々出てくると、僕はもう3ページぐらいで筋を見失う・・・(笑) (p5)なんていうことを平気で言ってしまうのは、色々とどうなんだろう・・・。この役者が脚本を読んで話を理解できなかったであろうことが丸分かりで、情けない。
 
 
 日本版とロンドン版を観て気付いたのはこんなところ。
 
 
 それにしても、野田秀樹の作品って、( 舞台自体はまだ色々観たわけではないけど彼の発言などを見てると、)観客を試しているようなところがある。

 ただ、それに対する日本の観客のリアクションは、( いろんなブログなどを読んだ感じだと、)(制作者と)コミュニケーションが取れていないように思える。

 もっと刺激的なことしないとダメなんじゃないでしょうか、野田先生。
 
 
 とまれ、外国人によって外国語で演じられる舞台を観る機会なんて滅多にないから貴重な経験になったし、二国の文化的な違いを念頭に入れて作り分けたりしていてなかなかおもしろい企画だと個人的には思った。

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