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 ウィリアム・シェイクスピア 『ジュリアス・シーザー(福田恒存訳/新潮文庫、1968年)
 
 
 偉大なる君主ジュリアス・シーザー、及び、その暗殺者にして高潔な勇将ブルータスを中心に描かれる政治劇。

 格調高い名演説の場面が重要な役割を負わされていて、シェイクスピアらしい作品。

 それだけ。
 
 
 訳者は解題で、「主人公は誰か」、「誰の悲劇か」とかいった話を(紹介)しているけれど、これも、『ヴェニスの商人』におけるキリスト教徒とユダヤ人(シャイロック)の善悪二元論同様、読みが浅いのか穿ちすぎなのか、明らかに無理筋。

 登場人物は皆救いがたい。(それが人間的ではあるけれど。)
 
 
 ところで、ここのところ立て続けに『リア王』、『ヴェニスの商人』、『ジュリアス・シーザー』と、どれも新潮文庫で読んできたのだけど、3作ともに共通する、訳者による「解題」と中村保男による「解説」は何とかならないものだろうか?

 訳者の「解題」は、作品ができた年はいつだとか、オリジナル版はどれが良本だとか、そんな細々とした論争に5ページとか10ページとかも費やしている。新潮文庫版というもっとも大衆向けのものにそんな学術的な話(しかも読解に際して大して意味をなさない話)はいらない。書くとしても1ページ以下には抑えてほしいところ。内容に踏み込んだ話でも、学説(読解)上の異説(やや極端な解釈)に反論することばかりで、積極的な意味は見出しにくい。

 中村保男の「解説」も、作品を読めば誰でも分かることとか、訳者の「解題」の説明をそのままなぞっただけのこととか、読んだところでなんの足しにもならない(無)内容ばかり。

 訳はいい(と思う)んだけど。(あと、『ヴェニスの商人』に収録されてた作品年表は便利だけど。)

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 ウィリアム・シェイクスピア 『ヴェニスの商人(福田恒存訳/新潮文庫、1967年)
 
 
 『ヴェニスの商人』は以前にも読んだことがある。また、映画( 雰囲気と緊迫感を見事に捕らえたなかなか出来のいい作品 )を観たこともある。
 
 
 『ヴェニスの商人』では、ユダヤ人高利貸し・シャイロックをどう見るかが、何かと論争の的になる。

 訳者による解題で指摘されているように、シェイクスピアの時代のイギリスの状況を重視するなら、“単純な悪役”と捉えるべきなのだろう。

 でも、それにしては、いくらなんでも主張や行動がまともすぎる。

 キリスト教徒とユダヤ人(シャイロック)の“どっちも悪いところがあるし、どっちも正しいところがある”という、“どっちとも割り切れないもの”ということでいいのではないだろうか?

 善か悪かどっちかに決めてしまおうとする一元的な読解は、どっちにしても無理が生じているように思える。
 
 
 ところで、シェイクスピアの作品は、話の筋にしても登場人物のキャラクターにしても、けっこうベタで単純である。それが演劇向きでもあるのだろう。

 でも、こういう“ベタで単純な作品”とは、注目すべきところ、おもしろいところがはっきりしている作品のことであり、つまりは、“表現しやすい作品”のことである。

 であるなら、いつまでもそういう作品こだわり続ける演劇界というのは果たしていかがなものだろうか?

 演劇という表現手段( に限らず、実際は芸術一般 )の真価は、「 もっと微妙な感情や状況、もっと複雑な感情や状況など、どんな媒体であれ表現するの(理解するの)が難しいものを表現できるかどうか、あるいは、それをいかに表現するか?」においてこそ測られるべきだ。

 にもかかわらず、“ベタで単純な作品”を、純粋な娯楽としてならいざ知らず、妙に権威あるものとしてもてはやしている現状というのは、演劇界の視点や関心や芸術としてのレベルが芳しくないことを表していると言えないだろうか?
 
 
 なんていうことは、せめて、蜷川幸雄のシェイクスピア作品を観てから言うべきだろうことくらい、自分でも分かっている。

 その蜷川-シェイクスピア、次は来年初め上演の『リア王』。

 そして、なんと、チケットの一般発売が今週の土曜日。

 To buy...?

 Or, to be able to buy...?

 BOMB No.333 (Gakken、2007年)
 
 
 老舗アイドル雑誌。通巻333号記念。(創刊28年。)
 
 
 その記念すべき今月号の巻頭は、“オシリーナ”こと秋山莉奈木口亜矢の仲良しコンビ。冷静に考えれば、333号というのは言うほど特別な数字ではない。と考えるなら得心がいく。「PART2」での2人へのインタビューを“諸行無常”を思いながら読むと、儚さが心を満たす。
 
 
 アイドル以外の他分野で活躍する美女・美少女を取り上げるコーナーに浅尾美和が登場。彼女には、アイドル的な輝くかわいさがある。アイドルの近野成美の完成度を高めた、もしくは、近野成美の若い頃のかわいさをそのまま保って大人にした、そんな感じ。(いや、“コンちゃん”、嫌いじゃないんだけど。)
 
 
 来月号の巻頭は優木まおみとのこと。ご本人お喜びのご様子。似たようなタイプの人による巻頭が続くということか。そんなに、表紙にイヤラシイ写真を持ってきて売り上げを伸ばしたいのか。
 
 
 “袋とじ”に森下悠里が登場! 4泊5日密会旅行!! 森下悠里史上、最高のセクシー激撮!!! ・・・うん、切り取る手間と過剰な期待だけを提供するのは、今や“袋とじ”のお決まりだよね。
 
 
 「金八」がまた始まる。前回、エグいぐらいに厳しい境遇を主人公的な男子生徒に与えていたから、今回はどうだろう?という期待と不安とが入り混じった現在の心境。でも、女の子に関しては期待してよい。このブログでも(多少消極的ではあれ)「いい」と言っていた娘が2人も出る。1人は“制コレ '07”準グランプリの水沢奈子。もう1人は“国民的美少女コンテスト”審査員特別賞の忽那汐里(くつなしおり)。菅澤美月は、「金八」という地味な世界の中で魅力を出せるか疑問。
 
 
 白黒のインタビューページに、AKB48の渡辺麻友柏木由紀菊地彩香多田愛佳の4人が一緒に登場。デジャヴ。キャラといい、会話の展開といい、前号のAKB48の娘たちと似すぎ。
 
 
 80★PAN!(ハレパン)の大空さやが脱退して今後はソロ活動をしていくとのこと。若干遅ればせながら初めて知った。非常に適切な望ましい判断。80★PAN!にとっても大空さやにとっても。80★PAN!の音楽が今後どうなっていくかは興味深いところ。
 
 
 新人へのインタビューページ「Fresh Girl」。前回、「KISSの経験は?」という質問への回答にこだわった。今回は、4人中、「ない」が3人、「ないしょ」が1人。自信が確信に変わり始めている。
 
 
 読者からの投稿ページ。一言(短い)ネタを中心に、今月はいつも通り、まずまずおもしろい。(比較的長い)文章のは、昔はもう少しおもしろかったような気がするんだけど。でも何がいけないのか理由は分からない。
 
 
 諸々のインタビューについてまとめて。堀田ゆい夏、いいネタ(実話)持ってる。石原さとみ、すごく楽しそうなのがいい。熊田曜子、いつも同じようなこと話してる。小向美奈子、あっ、復活してたの。長谷川恵美、本人とは関係ないけど、自分が応援してるアイドルも英語の番組やってくれないかな。他は特にインパクトも印象もない。
 
 
 上戸彩。ライブのレポート。アンコールでファンに語られたメッセージがいい。ファン冥利に尽きる。
 
 
 「金八」にも出る菅澤美月がグラビアページに出てる。「おはスタ」で、ショートパンツ姿で見事な番組進行をしてるところ以上に輝ける場所が、果たして存在し得るのかどうか。
 
 
 全体について。せせこましい。一生懸命時勢に媚びようとして時の流れから一テンポ遅れてしまっているような印象を受ける。老舗アイドル雑誌の割に、今をときめくトップアイドルたちが勢揃いしてるわけでもない。かといって、アイドル雑誌の割に、これを読んだところでこれからのアイドル界を引っ張る(だろう)アイドルが分かるわけでもない。“ただのエロ雑誌”的要素を強める方向に進んでいるようにしか思えない。

 それにしても、随分と厳しいことばかり書いてきた。

 いろいろと期待しすぎだろうか・・・。

 でも、ここに出てるアイドルたちの中で、自分が応援するかどうかは別にしても、応援したくなるのが分かる、アイドルとして魅力ある娘が少ないのは事実なのだ。

 I wanna be sacrificed ! Shit !

 ウィリアム・シェイクスピア 『リア王(福田恒存訳/新潮文庫、1967年)
 
 
 『リア王』は、本、芝居、映画を通じて初めて。
 
 
 登場人物たちの感情とか境遇の触れ幅が大きくて、文字通り、“劇的”。( もともと戯曲ではあるけれど特に。)

 これをダイナミックに表現できてる芝居なら観てみたいと思った。

 それから、個々の台詞が詩的で心に響く。

 あと、当時の時代の雰囲気をうまく使ってるなと思った。

 こんなところ。
 
 
 ところで、この『リア王』を原作にした作品に、日本が誇る“世界のクロサワ”、黒澤明監督の『乱』がある。

 のだけど、このDVDが、日本では6300円もする。

 他方で、アメリカでは17.99ドル(※1ドル=117円換算で約2100円)で買える。

 この文化状況の違いを見て、何か感じないだろうか?

 2007生命のコンサート・音楽劇 『 赤毛のアン 主催:NPO法人・国連クラシックライブ協会出演:浜畑賢吉、榛名由梨、岡本茜ほか2007年9月29日~30日@東京国際フォーラム・Cホール
 
 
 一般からの参加もある「赤毛のアン」のミュージカル。後援には外務省、文科省、カナダ大使館など、そうそうたる組織が名を連ねている。

 30日17時の回(花組)を観た。
 
 
 子供が出てその親や友達(いつもよりおしゃれしてる)が観に来る。開演前は、大都会東京の威力を見せつける近代的で巨大な会場ということもあって、アットホームな中にちょっぴり緊張感が混じっている。

 そんな雰囲気が「赤毛のアン」の世界にマッチしていて良い。

 幕が開くと、一番手に出てくる“子役アン”(潮崎遥)が、純朴でかわい気のある女の子を見事に表現して心を掴む。

 マシュウ(浜畑賢吉)、マリラ(榛名由梨)の老兄妹は、「さすが」な老練の演技。

 と、なかなか好調な滑り出しの舞台ではあるんだけど、いかんせん、大人数で踊るノリのいい(はずの)曲のノリが実際にはいまいちで、客席が乗り切れない。

 その結果、劇中の客席からの拍手も、「熱演の後に自然に」という感じではなく、「区切りが良さそうなところでなし崩し的に」という感じになっていく。

 ただ、例外もあって、特に印象に残ってるうちの1つは、「太陽と月に誓って」云々というアンとダイアナの掛け合いが終わった後の拍手。これはテンポのいい熱演への拍手。他には、物売りのフレデリック(膳亀利次郎)の場面。こちらは自ら会場を乗せて盛り上げた。
 
 
 “子役アン”時代から“少女アン”時代に(場面やキャストが)変わって以降は、全体的に、幼い魅力に溢れた登場人物を表現しきれてなくて、心ときめくような見せ場はなかった。“大人アン”役の宝塚出身の岡本茜にしても、歌が上手くて感性豊かなのはよく分かるけど、アンにはなりきれてなく、ただのつまらない女性しか表現できていなかった。もちろん、脚本の問題もあるけれど。

 その脚本は、“少女アン”時代以降は特に、(登場人物が増えることもあって)登場人物たちの人柄を端的に伝えるはずのエピソードが簡単に済まされたりしていて、淡々と話が流れ去っていくように感じられた。だから印象に残るシーンもできにくい。もっと大胆に切ったり伸ばしたりして話の密度を上げた方が良かったと思う。
 
 
 そんなわけで、話は最後に飛ぶ。最後の方で、話を中断して“アンからのメッセージ”を伝える演出があった。それ自体はいいんだけど、「メッセージを伝える」と言いつつ、いきなりウクライナ語とかスペイン語とか韓国語とかで話されても、何も理解できない。目的を見失った、ただの自己満。もし、「友達になりませんか?」と言われた後に、自分が知らない言語でいきなりまくし立てられたら、その人と友達になれるだろうか? あるいは、ちょっと状況を変えて考えてみれば、誰彼構わず専門用語ばかり使って話す人とコミュニケーションが取れるだろうか?

 その独善性が対立を生む。
 
 
 でも、なにはともあれ、総じて、大人数で歌って踊って踊って歌って、観ててとても楽しそうだった。ファミリーな舞台は、これが何より大事。必死さがにじみ出てる姿は見てておもしろくない。

 観客の方はといえば、終演後の客出しの準備時間に行われた、上演中はオーケストラの指揮をしていたバイオリニストでもある尾花輝代允のソロ演奏に、この日一番の盛り上がりを見せ、大喝采を送っていた。確かに大熱演ではあったけど、そんなに満たされてなかったのか・・・。

 まあ、出演者の方でも、同じく終演後の待ち時間に行われたエキシビジョン的なダンスは、なかなか活き活き伸び伸びしていたけれど・・・。

 Toward a Free World.

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