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宮下奈都 『スコーレNo.4』 (光文社文庫、2009年)
1人の平凡な女性の(ささやかながら確かな)成長を描いた小説。
さほど有名ではない筆者の、人物描写・情景描写の力はなかなかのもの。しっかりとした筆力のある作家だと思う。
話は、派手な出来事や劇的な展開があるわけではないけれど、1人の女性が様々な日常の出来事から思考し、気づき、学び、そうして、少しずつ本来の背伸びしない自分やそんな自分の居場所を見つけていく。
例えば、魅かれる男性でいえば、年上の大人、自分とは対照的な性格の同級生、そして、骨董屋の娘である自分と似た感性をもった同僚へと落ち着いている。
そして、その時々の主人公の女性の心情を見事にすくい取って描いてくれているから、物語の静かな世界にどっぷりと浸り、心地よく読み進めることができる。
この作者は、もちろん全く同じではないけれど、小川洋子、三浦しをんといったあたりに比肩しうると思う。そして、やや単線的すぎるきらいのあるストーリーに深みが出れば、芥川賞の候補になってもおかしくない筆力を持っていると思う。(芥川賞を獲れることがどれだけ良いことなのかはおいておいて。)
木村榮一 『ラテンアメリカ十大小説』 (岩波新書、2011年)
ボルヘス、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサなど、スペイン語圏のラテンアメリカで20世紀に次々登場してきた世界的な作家とその作品について、穏やかな語り口で紹介している、ラテンアメリカ小説の入門書。
ラテンアメリカの現代小説は、民話的世界、独裁政治といった共通する背景をもった数々の名作が20世紀に数多く生み出されてきた。
そんなラテンアメリカ小説の主な10人を取り上げて、その代表作だけでなく、その作家自身の来歴や主な作品の紹介をしてくれている。
そんなわけで、読む小説を見つける良い手引きになっている。他の地域・国でもこんな本があればいいなあと思う。 特に、ピンチョン、マッカーシー、デリーロがいる現代のアメリカ。
この本を読んで一番面白そうに感じたのは、ガルシア=マルケス。 次がボルヘス。 その次が、バルガス=リョサ。 さすがといったところか。
重松清 『卒業』 (新潮文庫、2006年)
父親が自殺していたり、いじめを受けて引きこもっている息子がいたり、母の病死後に父が再婚した新しい母がいたり、と、「普通」の家族とは何かしら異なっている家族が、苦境を前向きに受け入れ「和解」していく様を描いた4つの中篇小説からなる本。
色々な場面で、「あー確かにそんな気持ちになったなぁ」と思わされるところがたくさんあって、重松清はどれだけ人間心理を見事にすくい取るんだ、と改めて思った。
と同時に、10代の尖っている時期に読んだらやっぱり好評価は下さなかっただろうなとも、(いつものことだけど)思った。
その違いは何なのだろう?と読んでいるとき考えた。
~ここから下は本の感想ではない~
もちろん、様々な感情や出来事を経験してきたというのが大きいのは間違いない。だけど、重松清の作品を受け入れられるようになったのは、そういう「共感」といった過去の確認作業とか修繕作業みたいな後ろ向きなものだけによるのではないように思える。
重松清の小説を読むことで、何か前向きな満足感を得られているように感じる。
すなわち、大人になった今だからこそ欠けている何か、を埋め合わせて満たしてくれているように感じるのだ。
じゃあ、様々な経験もして大人になったけど、それでも、「大人になった今だからこそ欠けている何か」とは何か?
というのを、言葉で表そうといろいろと数日の間に何回も考えたけど、いまいちはっきりとつかみきれない。
本を読んでいるときは、確かに「あー、与えられているなぁ」という感覚はあったのだけど・・・。
誤解を恐れず、陳腐なかなり漠然とした言葉でいえば、「愛情」とか「優しさ」とかそういったものだ。
でも、「小説を読んで愛情を与えられる」というのは、一体どういう状況なのだろうか? 自分でもよくわからなくなってきた。
から、今回のブログではここまでで終わりにしよう。
「岩井俊二まで関わったAKBのドキュメンタリー映画!!!」ということで、泣くことを覚悟/期待していたら、全然期待外れで、拍子抜け。
内容のメインは、主要メンバーのインタビュー。 そこにちょこちょこチーム入れ替えとか選抜総選挙とかのAKB全体の話が組み込まれてるだけ。 ( インタビューは、地元に帰ってとか、何かしらやりながらというメンバーも数人いるけど。)
AKBは、普段から、総選挙をはじめとした「劇的なイベント」を提供していて、その度ごとにテレビ番組やらDVDやらで(メンバーの心境告白を含んだ)ドキュメンタリーを作って見せているから、今さらメンバーの「語り」を見せられても、目新しさも感動もない。
せっかく映画まで作るならデビューから今までの軌跡を描いてほしかった。 もちろん、総集編的なものを作ると「もう終わり」感が出てしまうから、未来志向にしたい気持ちは分かるけど、そこを上手くやるのが映画製作者の力量ってもんだと思う。
とはいえ、もちろん、個々に見れば心に残ったシーンもあって、例えば、柏木由紀のキャプテンとしての苦悩とか、研究生だった横山由依が大先輩の篠田麻里子のためにダンスを懸命に教えてるところとか、指原莉乃の帰郷とか。
それから、映画館の大画面でかわいい子を見れるのはなかなか悪くない、というのも良い点ではあった。 ( というのを考えると、映画館の音響を使えるのに彼女たちの歌を含めた音楽が効果的に使われていなかったのが、残念なところとして思い浮かぶ。)
それにしても、この映画の副題の「10年後」というのもそうだし、「歌手志望」だとか「女優志望」だとかをやたらと語ったりするのもそうだけど、AKBのメンバーと売り手たちは、やたら将来のことを話題にする。 こんなやや不自然なところに、様々なサプライズを仕掛けて何回もファンたちの度肝を抜いてきた秋元康といえども、人気が昇りつめてしまった彼女たちをどう処理していくのかに関しては、やはりかなり気になるし頭を悩ます問題なのだろう、というのが窺い知れる。
ちなみに、2011年の人気の下降については、(少なくとも)主要(≒初期)メンバーたち自身はかなり自覚的だし、人気もありAKBとしての最高傑作ともいえる「ヘビーローテーション」より、その後に出された「Beginner」の方が売り上げが多かったというのも、「ワンテンポ遅れる大衆の動き」の見事なまでの現れのようで、人気に関しては「Beginner」の頃にすでにピークを迎えていたように思われる。 また、飽きられてくるだろう現在の主要(≒初期)メンバーと並ぶ、あるいはそれを超えるような個性を持った人材も、見い出そうと策を弄してはいるが( 指原猛プッシュとか横山由依猛プッシュとか研究生オーディション開催とか)、逸材は出てきてはいない。
そんな絶頂期だが大事な岐路を迎えつつもあるAKBを、秋元康らは、果たしてどう着陸させるのだろうか。
AKBは専用の劇場を持っているからまた劇場に引きあげていくというソフトランディングもあるだろうし、まだ人気があるときにパッと解散するというハードランディングもサプライズ好きな彼らならあり得なくはないだろう。 また、この映画で大島優子が「卒業のことはいつも頭にある」というようなことを言っていたけど、主要メンバーが少しずつ抜けていって空中分解するという道もあり得るだろう。
映画に内容があまりなかったから、映画と関係ない話題も長々と書いてしまったけど、まあ、そんな映画だった。
2004年にSNSサイト「Facebook」を創った若き起業家であり大富豪でもあるマーク・ザッカーバーグとその周辺の人達を描いた映画。
典型的な(コンピュータ)オタクのザッカーバーグ、堅実で慎重な友サベリン、ナップスターの共同創業者でパラノイアなパーカー、文武両道な好青年でありライバルとなったウィンクルボス兄弟、と、キャラの立った登場人物たちが、若さゆえの危うさを持ちつつも、一世一代のビッグプロジェクトを前に様々な人間模様を展開する。
話は、Facebook立ち上げまでと、その後の支配権争いの2つが中心。(ただ、Facebookの制作自体はザッカーバーグがほとんど一人であっけなく作ってしまう。)
話の展開は、『セブン』の監督らしく、誰かが絶対的に正しいと思わせることなく、それぞれの立場で葛藤し、引き裂かれたまま進み、終わる。
そんなわけで、話としては、緊張感と深みがあるとも言えるし、逆に結末がなくすっきりしないとも言える。両者を足し合わせれば、まあ、普通といったところだろうか。
映画の作品として見ると、やたらと随所に飲酒のシーン(とパーティーのシーン)が出てくるのと、ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーが担当した魂に働きかけてくるような音楽のおかげで、ちょっとした狂騒の中で映画が進んでいくのが、(話の緊張感と相まって、)心地よくもあり、結局彼ら若者たちの成し遂げた/ていることがそういうものにすぎないと言っているようで虚しくもあり、一番強く心に残った。
全体としては、取り立てて言うほどおもしろくもないし、だからといって、批判するほどつまらなくもないし、実に平均的な作品。
映画の評価と関係ないけど、映画の中で、クラブのような場所の2階でザッカーバーグとパーカーが話している場面での(DJ風の?)音楽がノリがよくて、映画館の大音量で聴いてたら、今にも踊りだしそうなくらいすごく気分良かった。