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藤原敬之 『日本人はなぜ株で損するのか?』 (文春新書、2011年)
5000億円ものファンドマネージャーが自らの投資哲学や情報処理法などを語っている本。
実際に実践している新聞記事の整理法や株価を分析する視点など、具体的な方法がいろいろと紹介されている。ただ、大学で行われた講義が元ということもあって、それぞれが大まかな紹介に留まっているきらいはある。
また、学問や教養の重要性やおもしろさを随所で説いていて、筆者が感銘を受けたり影響を受けた様々な学者が所々で登場する。シュンペーター、アダム・スミス、ハイエク、岩井克人、小林秀雄、網野善彦、丸山眞男など。
自分は投資をやらない人間だけど、そんな部外者からするとどうしても株式運用もギャンブル的な要素が大きく、ファンドの運用も運という要素が大きいように思えてしまう。しかし、成功したファンド・マネージャーもそれなりに個人の哲学があり、それに基づいていることは垣間見れた。
とはいえ、筆者が開陳している様々な手法や視点がそこまで普遍的で有用なものだと確定できるほど説得的ではなかった。
「敏腕トレーダー」とかカッコよさ気で憧れるけど、果たしてどこまで当人の実力によるものなのだろうか。
大江健三郎 『読む人間』 (集英社文庫、2011年)
大江健三郎がこれまでの人生で実践してきた読書の仕方とそれを執筆につなげる仕方について語った講演を書籍化したもの。
大江健三郎の落ち着いた語り口と相俟って、人生を読書にかけてきた悠々自適な(もちろん実際はそんなことないだろうけど)人生を感じ取れる。
「2年(だっけ?)で一人の作家を集中的に読む」といった長期的な読書なんてものができたら、じっくり自分というものを成熟させていけるのだろうなぁと思う。けれど、現実の時間的制約の中では実践困難であり、どうしても「効率的な読書術」的なものに魅かれてしまう。
そんなわけで、ちょっと別世界を眺めるような感覚で読んだ。
取り上げられている本自体は、これまでの各種エッセイや小説の中やらで見たことのあるものが多い。渡辺一夫、ダンテ、ブレイク、サイードといった。
マルカム・ラウリーの『火山の下』が出てきてた。積ん読中だけど読んでみたくなった。
中川右介 『第九――ベートーヴェン最大の交響曲の神話』 (幻冬舎新書、2011年)
ベートーヴェンの「第九」の誕生から現代までの歴史を、様々なエピソードを交えながら辿っている本。
軽い読み物としては良くできていて、最後まで退屈することなく楽しめた。
「第九」が、たった一つの曲にすぎないにもかかわらず、ベルリンの壁崩壊、ナチス政権、民主化革命など、これほどまで歴史的な大事件と関わっていることに改めて驚愕した。そして、それだけ人々の感性に訴えかけ、人々の感情を喚起し、歴史的な場面に立ち会った人々の興奮にさえ負けずに寄り添えるこの曲のパワーにも改めて圧倒される思いがした。
また、フルトヴェングラーやカラヤンやバーンスタインといった世界的な指揮者たちがこの曲をどう捉え、どう関わってきたのかというのも興味深かった。自分の持ってるCDで指揮をしている者がどういう考えを持ち、どういう状況でタクトを振っているのかという物語性が付与されるのは面白い。
こういった様々な知識や物語性の付与は、「第九」を聴く楽しみにますます深みを与えてくれるものだ。
太宰治 『斜陽』 (新潮文庫、1950年)
母、息子、娘の3人からなる旧上流階級一家のそれぞれの滅び方と、上流とは対極な生活をし貴族を嫌う流行作家の人生を描いた小説。
かつての貴族流の振る舞いを頑なに守る母。偽悪的に貴族的な道徳を消そうと麻薬やアルコールや女に溺れるが、その実、そのような生き方に楽しみを見出せない息子。古い道徳が廃れた後は革命と恋が新たな道徳になるとお上品なお勉強から学ぶが、革命も恋もいまいち上手くは行えない娘。嫉みからか貴族的なものをけなし、あえて堕落した生活を送るが、そのくせ思想や文学にやたらと通じている作家。
そんな精神的な依りどころのない4人がついには破滅へと至る。
この小説が書かれたのは戦争が終わって2年後で、その頃であれば、支配的なイデオロギーの急変という人々を不安定にさせる要因が切実なものであったのかもしれない。
ただ、支配的な思想や道徳のない現在に生まれ育った身としては、そんなどこかから与えられるような道徳にすがろうとも思わないし、そもそもそんなものがあること自体も想像しにくい。
そんなわけで、一つの話としてその意図するところは頭では分かるけれど、いまいち切実さをもって読むことができない小説だった。
(もちろん、現在とは時代状況が違うものでも、その書き方によっては切実さを伴って読めることもあり得るけれど、この小説ではできなかった。)
奥田英朗 『オリンピックの身代金(上・下)』 (角川文庫、2011年)
『イン・ザ・プール』などこれまでの奥田英朗のエンターテインメント作品とは違い、コミカルな登場人物が出てくることはなく、淡々と話が進んでいく純粋なミステリー小説。
この小説では、東京オリンピック時の日本の政治・経済・生活・人々など様々な現実が描かれている。すっかり豊かになった日本で生まれ育った自分のような人間には想像できない当時の日本に、改めて気づかされた。また、北京オリンピックの際に中国の現状を批判・冷笑した日本の人たちに対して鋭く突き刺さる。この点では社会派の小説とも言うことができる。
しかし、ミステリー小説として見ると、トリック自体はそれほど手の込んだものではなく、主人公は5階から(木の上とはいえ)落ちてもすぐに走れるとか設定に無理があり、話が長い割に(いくつかの視点で同じことを書いていることもあって)話が大して進まないし深まっていかないし、と、完成度はそれほど高くない。それに、最後まで読み通すだけの最低限のおもしろさは辛うじてあるとはいえ、それほどではなく、途中から退屈も感じながら一応最後まで読んでいる状態だった。
エンターテインメントにするか、社会派にするか、どっちつかずで、おもしろさもなんとなく振りきれない中途半端な小説だった。