by ST25
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』 (文春文庫、2010年)
どのようにランナーとしての日々の鍛練を行っているのかとか、走ることが小説家としての自分にどのような影響を与えているのかとか、フルマラソン中どのような気持ちなのかとかいった、「走る」ということから外れることなく、そのことだけを中心に色々なことを書いている。 その中で、なぜ小説を書くようになったかのエピソードも出てくる。
村上春樹らしく、辛さとかストイックな自分とかをアピールするという意識が微塵もなく、気持ちよく読める。
そんなわけで、村上春樹ないしは走ることのどちらかに興味があればスムーズに読めるエッセイ。
PR
青柳碧人 『浜村渚の計算ノート』 (講談社文庫、2011年)
「心を伸ばす教育」のため、芸術科目や道徳が重んじられ、数学などの理系科目がほとんど教えられなくなった日本。 そんな状況に不満をもった数学者が連続殺人を起こしながら数学の地位向上を図っていく。 それに対抗して、一人の数学の天才である女子中学生が警察に協力しながら事件を解決していく。
と、何とも気持ちいいくらいに破天荒な設定の、気持ちいいくらい軽く読み進められるミステリー。
犯人の側も、真実に迫る中学生の側も数学を愛する者であり、どちらの側にも数学の論理を尊重し、数学に対する敬意がある。
そして、フィボナッチ数列や円周率や四色問題といった数学がとてもわかりやすい形で駆使される。
読んでいる間、難しいイメージの強い数学を手近で楽しいものに感じさせてくれる。 ただ、トリックとかは軽いものでミステリーとして期待するべき小説ではない。
立花隆 『立花隆の書棚』 (中央公論新社、2013年)
テレビで解説者として話す立花隆におもしろみを感じたことは正直ないけれど、この本の中で自らの蔵書を前に話す立花隆は、脳科学、キリスト教、哲学、絵画、外国、政治、文学、性などあらゆる分野について生き生きと語っていてとてもおもしろい。 そんなわけで、写真も入れて600ページを超える大部の作品だけどすらすらと読み進められる。
必要に迫られての読書や買書から離れて、ひと時の精神的な余裕や楽しみを得られ、またその方向での欲を掻き立てられる(それがまた心地よかったりする)本だった。
濱野智史 『前田敦子はキリストを超えた』 (ちくま新書、2012年)
読んでみると、学者畑出身の批評家である著者が今まさにAKBに熱狂して高揚している様がひしひしと伝わってくる。
その気持ち、高揚感、わかる。 かつてアイドルに入れ込んでいた時期のある自分にもそういう気持ちになった経験がある。 何か、応援しているアイドルが異様に崇高で素晴らしいものに思えて、大学やら独学やらで学んで知っていた高等な学術用語やらでそれを語っても何ら言葉が過ぎることもないし、むしろその高等な言葉でこそ語るべきものだと感じられてくる、という。
その点、著者の言葉は当人の本当の実感から出てきたもので、そして、著者のみに特有の感情でなくそれなりの普遍性もあることは間違いない。
ただ、(少なくとも)アイドルを応援する者に共通するものなら、AKBだけが有する特徴ではないとも言えるわけで、その点、著者には相対化する視点が欠けている。 (おそらく著者が今まで見下し見向きもしなかった)アイドル界において連綿と存在し続けていたものを、著者がAKBで初めて経験したというだけのことにすぎない。 ちなみに、AKB批判としてよくなされる握手をエサにしたCDの複数枚買いも、それ以前からアイドル界では普通に行われていたものだ。 そもそもAKB=秋葉原という名前の時点からして、秋葉原に多数生息していたマイナーアイドルの一つとして自己定義して出発したのがAKBだった。
それから、タイトルに関連する本書の内容について。 宗教としてAKBを捉えるということで著者がやっていることは、聖書などの断片を恣意的にもってきて、そこがAKBと同じ!とこじつけるだけのことだ。 例えば、キリストがゴルゴダの丘で磔刑を受けた時、「 自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉 」(p36)を言ったことと、前田敦子が選抜総選挙の時、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」という利他的な言葉を言ったこととをこじつけて、前田敦子はキリストだ!と主張する。 それなら、世の中キリストだらけになってしまう。
万事がこの調子なのだ。 学問を習得したものとしての最低限の良心やら冷静さはどこへいってしまったのか・・・。
過度に祭り上げるのも過度に貶めるのもおかしい。 AKBは個人の趣味の領域のものであり、好きなら好きでいいし、嫌いなら嫌いでいい。 そして、個人が何が好きだろうが他人に優越感を抱いたり他人を見下したりするべきものではない。 公と私の区別ができない人は本当に面倒だ。
早野透 『田中角栄--戦後日本の悲しき自画像』 (中公新書、2012年)
生まれや政治家になる前の話から首相になってからの話まで、どこかだけを多く描いているのではなく、角栄の人生の歩みのスピードに寄り添いながら角栄の人生を通覧している。 今でも評価の大きく分かれる人物なだけに、その点、バランスもあり、偏ってもいなくて好感を持って読み進められる。
そこで描かれる人物像は、いかにも「大物」の典型のようなもの。 細かいことには目もくれず、目的のためには手段を選ばず、良いと思ったら即実行するなど。 抽象的な倫理やら理論やら思想やらとは無縁である。 まさに戦後の世の中から体一つで建設会社を作り生き延びてきた人物らしい。
翻って現代の政治は、実に現実感、現場経験の希薄なものとなっている。 それは政治家しかり、国民しかり。 政治に関わる必要がないというのは良いことでもある。 ただ、そういう環境で生きてきた人が政治家になり、有権者になって、政治を決めていくというのは恐ろしいことだ。
その一方で、増田悦佐が『高度経済成長は復活できる』で書いている角栄の「日本列島改造論」的な経済・国土政策の結果、日本経済が低成長へと至ったという統計データに基づく分析もあり、抽象的な視覚がすべて不要ということももちろんない。
そんな2つの視点から考えると、著者が「あとがき」で書いている「 いま、日本政治を見ると、国家像を見失い、技術主義に陥り、ポピュリズムが跋扈する 」(p396)という言葉は、2つの視点が混ざって包括的になりすぎていて、角栄からの教訓を生かし切れないものだ。
「友愛」、「生活が第一」、「税と社会保障の一体改革」、「戦後レジームからの脱却」など抽象的な主張が跋扈する今の政治を見るに、角栄の現場主義、現実主義はとても大事な資質、視点だと思う。