by ST25
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水野和敏 『プロジェクトGT-R 常識はずれの仕事術』 (双葉新書、2013年)
見た目だけでなく中身のある世界レベルのスーパーカーを作るには、固定観念や組織の論理に囚われないようにしなければならない。責任者である著者は、スタッフや下請けに具体的な理想像を思い描かせ、妥協を許さず、地道に製作を指揮している。
そして、その困難な指揮を執る上で著者の様々な経験に基づく確固たる信念が大きな役割を果たしている。
正直なところ、読み物としては大きな感動も刺激もない。(停滞気味の自動車会社には得るところはありそうな気はするけれど。)
とはいえ、ここまで実力にこだわり、見かけ倒しではない実力を持ち合わせている日本産スーパーカーは稀有であり、いかにしてその車が誕生したのかは興味がわくところであり、読んでおいて損はない。
それにしても、こういう中身のある車は、やはり組織の論理が強いところでは誕生せず、一人のカリスマ的リーダーなくしては生まれてこないということなのだろうか。そういうリーダーがいるかどうかは偶然に任せるしかない。そう思うと少し暗い気持ちになる。
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「SKE48研究生 『会いたかった』公演」(2013年7月29日/@SKE48劇場)
かねてから48グループは劇場公演こそが核心で一番おもしろく、中でもSKE48は全力パフォーマンスで評価が高いというのをよく聞いていて、一回くらいは実際に体験してみたいなと思っていた。
とはいえ、人気も高くてなかなか当選しないという話もよく聞いていたから、行動に移すこともなく過ごしていた。
のだけど、空きの平日があるときになぜかふと思い立って、当たりやすそうな研究生公演に応募したところ、見事に当選したから、名古屋まで行ってきた。
この日の出演メンバーは、5期の大脇有紗と6期生15人。6期生はほとんど知らないから直前に予習はしたけど、それでも顔と名前が一致するのは数人程度。
『会いたかった』公演の曲も1,2回聞いたことあるような気がするというのがほとんど。
そんな状態で初めての48グループの劇場公演を体験してきた。
座席は真ん中のブロックの真ん中あたりの列のステージに向かって左寄り。
幕開けの定番「overture」が終わって、ステージにライトが当たり「嘆きのフィギュア」。上がった状態のセリの上に立つメンバーは演出の妙もあって神々しく見えた。この曲の間中、感動しっぱなしだった。
それにしても、客がすごい。それなりに人数がいるとはいえ、それにしたってかなりの大声援。初めて劇場公演を見た第三者的な自分からしたら、この元気いっぱいな客の存在によって公演の質が1段階も2段階も引き上げられているように感じた。
この日の公演には数人の先輩メンバーが見に来ていたようで、その日の夜、否定的な感想をブログなどで公開して苦言を呈して話題になっていた。そんなこともあって、この日の公演の良くなかったところを考えるに、この日のメンバーはキャリアのある先輩一人(しかも、センター)にまだまだ新人な15人という構成で、どうしたって一人の先輩が中心になるし、観客の視線も、一緒に出ている6期生たちの意識もその一人に集まる。のだけど、この先輩がリーダー的な存在ではないという本人の性格もあったのか、終始「へらへらと」とまではいかないまでも気の抜け気味なパフォーマンス。キャリアがあるだけにそこまで必死にならなくてもそれなりに(後輩に負けないくらいに)できてしまうというところもあったのかなと思う。そして、そんなところが全体的になんとなく弛緩しているような印象を与えたのかなと思った。
ちなみに、この日の公演で個人的に一番印象に残ったのは、踊っているときもMCでほかのメンバーが話しているときも最後のハイタッチのときも常に気を抜かず全力な青木詩織。
初めての劇場公演は、研究生公演ではあったけれど、劇場公演に対する評判も「なるほど」と納得のいくとても楽しいものだった。
見やすい劇場、演者の全力パフォーマンス、盛り上げる観客。この3つが揃って初めて高いクオリティーのものができているのだなというのを強く感じた。
SKE48の中でも特に評価の高いチームSとかチームKⅡの公演も見てみたいなと思ったけど、どうせ当たらないだろうし、そもそも日程が合わなそうだし、実現はしなさそうな予感が強くしている。
かねてから48グループは劇場公演こそが核心で一番おもしろく、中でもSKE48は全力パフォーマンスで評価が高いというのをよく聞いていて、一回くらいは実際に体験してみたいなと思っていた。
とはいえ、人気も高くてなかなか当選しないという話もよく聞いていたから、行動に移すこともなく過ごしていた。
のだけど、空きの平日があるときになぜかふと思い立って、当たりやすそうな研究生公演に応募したところ、見事に当選したから、名古屋まで行ってきた。
この日の出演メンバーは、5期の大脇有紗と6期生15人。6期生はほとんど知らないから直前に予習はしたけど、それでも顔と名前が一致するのは数人程度。
『会いたかった』公演の曲も1,2回聞いたことあるような気がするというのがほとんど。
そんな状態で初めての48グループの劇場公演を体験してきた。
座席は真ん中のブロックの真ん中あたりの列のステージに向かって左寄り。
幕開けの定番「overture」が終わって、ステージにライトが当たり「嘆きのフィギュア」。上がった状態のセリの上に立つメンバーは演出の妙もあって神々しく見えた。この曲の間中、感動しっぱなしだった。
それにしても、客がすごい。それなりに人数がいるとはいえ、それにしたってかなりの大声援。初めて劇場公演を見た第三者的な自分からしたら、この元気いっぱいな客の存在によって公演の質が1段階も2段階も引き上げられているように感じた。
この日の公演には数人の先輩メンバーが見に来ていたようで、その日の夜、否定的な感想をブログなどで公開して苦言を呈して話題になっていた。そんなこともあって、この日の公演の良くなかったところを考えるに、この日のメンバーはキャリアのある先輩一人(しかも、センター)にまだまだ新人な15人という構成で、どうしたって一人の先輩が中心になるし、観客の視線も、一緒に出ている6期生たちの意識もその一人に集まる。のだけど、この先輩がリーダー的な存在ではないという本人の性格もあったのか、終始「へらへらと」とまではいかないまでも気の抜け気味なパフォーマンス。キャリアがあるだけにそこまで必死にならなくてもそれなりに(後輩に負けないくらいに)できてしまうというところもあったのかなと思う。そして、そんなところが全体的になんとなく弛緩しているような印象を与えたのかなと思った。
ちなみに、この日の公演で個人的に一番印象に残ったのは、踊っているときもMCでほかのメンバーが話しているときも最後のハイタッチのときも常に気を抜かず全力な青木詩織。
初めての劇場公演は、研究生公演ではあったけれど、劇場公演に対する評判も「なるほど」と納得のいくとても楽しいものだった。
見やすい劇場、演者の全力パフォーマンス、盛り上げる観客。この3つが揃って初めて高いクオリティーのものができているのだなというのを強く感じた。
SKE48の中でも特に評価の高いチームSとかチームKⅡの公演も見てみたいなと思ったけど、どうせ当たらないだろうし、そもそも日程が合わなそうだし、実現はしなさそうな予感が強くしている。
中村文則 『去年の冬、きみと別れ』 (幻冬舎、2013年)
これまでに読んだ著者の「銃」、「土の中の子供」、「遮光」、「悪意の手記」では、主に、人殺しや拳銃など歪んだものによってしか生を実感できない人物が描かれていた。そして、「生きる意味とは何で、それがどんなものであれ生は尊いのか?」という実存に悩む人間の姿を攻撃的に提示していた。
そんなわけで、「今回は何によって生きる意味を感じる人物なの?」と少し見下した気持ちも持ちながら読み始めた。
そしたら、完全にノックアウトされてしまった。
そこで展開されていたのは、狂気を少々含んだ濃厚なミステリーだった。
一つの出来事を様々な視点から描写することで、読者に常に謎を与えて想像を巡らせた上で、(狂気な方向へと)予想を超える展開で戦慄を与えていく。
さらに、登場人物たちが中村文則らしい内側に闇をもった人物として描かれていて、こちらの面でも楽しめる。「対象の内面の全てを写してしまう写真家」、「実際の本人以上にその人らしい人形を作れる人形師」など。
こうして、狂気な展開に狂気な人物たちが相まって濃密な物語が紡がれている。
この小説は200ページに満たないもので、どちらかというとミステリーの要素が強く、登場人物の内面の掘り下げには十分な分量が割かれていない。
今後は、ミステリーの要素と人物描写の要素とが共にさらに深く掘り下げられた作品を是非とも期待したい。それこそドストエフスキーに近づくような長編になるかもしれないとさえ思ってしまう。
貴志祐介 『ダークゾーン(上・下)』 (祥伝社文庫、2013年)
「ハリーポッター」にチェスで同じような状況の場面が出てくるのが思い浮かんだ。 ただ、この小説では将棋と全く同じルールではない。
「解説」で大森望は、この小説オリジナルのルールに関して「最初から示されていた可能性がフルに活用され」(下巻p337)と書いているけれど、「昇進」の存在や昇進後の戦闘能力などオリジナルのルールが後出しじゃんけんでたくさん出てくる。そのため、読みながら「こういう戦略で行くべきなのでは」と読み手が想像し、それを小説が超えていくという驚きや敗北感が得られず、後から後から出てくるルールに「あぁそうなんだ」と思いながら完全に受け身で読み進めていくしかない。
「断章」として挟まれる現実での主人公たちの話もそれほど深い話ではない。
そんなわけで、ゲームの面でも人間の描写の面でもそれほど面白さに感動するようなところのない小説だった。
何だかんだ最後まで読めてしまったけど。
池井戸潤 『民王』 (文春文庫、2013年)
ぶっ飛んだ設定に、ぶっ飛んだ登場人物たち。 事実とは思えないような日本の現実についての事実とは思えないような一つの仮説なのかとか、世襲議員に対する皮肉なのかとか、下らない話に合わせた下らない茶々をいれながら読み進めた。 力のある作家だけに、現実離れした設定でもスムーズに読み進められた。
話が進むにつれて、親子が入れ替わることで気付くことが出てくる。 死期を迎える人たちを世話するホスピスで、息子の体をした首相が話を聞く。
「 自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。 」(p303)
そうして、自分でなくなって初めて自分とはどういう人間だったのかということに気付く。
そんなマジメなところもある、軽くて楽しい小説だった。