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by ST25
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 瀬谷ルミ子 『職業は武装解除(朝日文庫、2015年)

 

 「武装解除」とは、紛争が終わった後、兵士から武器を回収し、職業訓練をし、社会復帰させる仕事のこと。筆者は24歳で国連ボランティアになり、以後、国連、外務省、NGOと所属組織を変えながら、アフガニスタン、ソマリア、シエラレオネ、ルワンダなど世界中の紛争地帯の前線で武装解除に携わってきた。

 そんな筆者が、開発援助の分野に飛び込むことになった経緯や世界各地での武装解除の経験を書いているのがこの本。

 大学3年でルワンダに赴き自分の無力を悟り、その後、紛争解決学をイギリスの大学で学ぶ。そして、24歳で国連ボランティアになって以降はひたすら世界各地の現場で武装解除を行ってきた。アフガニスタンでは各部族の司令官と交渉して戦闘員のリストを出させるのに苦慮し、また、カルザイ大統領から副大統領や国防大臣の人事についてのアドバイスを求められた。ケニアでは難民が集まった村で村人たちで管理できる給水パイプの建設のために、村人たちを説得し指導するのに奮闘する。南スーダンでは犯罪が横行する町のストリートチルドレンを学校や職業訓練校に通わせるために粘り強く働く。もちろん、武装解除の仕事を止めるよう銃で脅されたり、犯罪に巻き込まれたり、という筆者自身に降りかかってくる辛い経験もあった。

 実際の現場で行動する筆者の前では、安穏な日本にいて抽象的に武力紛争や戦争について語ることははばかられる。ひれ伏すしかないような気持ちにさせられる。厳しい現場で行動する筆者には本当に頭が上がらない。

 戦争と平和や紛争の解決について考える際には、せめて、筆者のような現場で働く尊い人たちの存在を頭に留めておくのを忘れてはいけないと思った。







 
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 鈴木伸元 『加害者家族(幻冬舎新書、2010年)

 

 近代化された今の日本では犯罪者に対する私的制裁は禁じられている。それを頭では重々承知していても、どうしても犯罪者(主に故意犯)やその家族に対して行われるプライバシーの暴露や嫌がらせや解雇処分などの社会的制裁に対して溜飲が下がる思いを抱いてしまう。そんな野蛮な自分自身に対して嫌悪感を抱きつつも、それでも「犯罪者は自分で悪いことしたんだし・・・」という思いを拭いきれなかったりする。

 そんな割り切れない思いを少しは軽くし、自らを少し近代人にしてくれるのがこの本。

 犯罪者の家族に関して、有名事件の家族のその後、無名事件の家族のその後、ある殺人事件の家族になってしまった妻のドキュメント、日本の加害者家族支援の現状、加害者家族支援に関する先進的な仕組みを持つ外国の状況などが書かれている。

 特にさまざまな実例をたくさん挙げてくれているのがいい。

 宮崎勤の父が自殺したとか、林真須美の自宅がさまざまに落書きをされた上、放火されたとか、加害者家族が何らかの嫌がらせを受けたり、苦しんだりしているというのは知っているつもりではあった。

 が、実際に起こっていることは想像を超えていた。頭で知っているというのと実際のエピソードをドキュメントの形で読んで知るというのは、大きく違っていた。

 それまで普通に生活していた妻が急に犯罪者の妻として世間から厳しい視線や扱いを受けなくてはいけなくなる。子供がいる場合には急に犯罪者の子供というレッテルが張られいじめを受けたりする。これでは、ある意味では妻や子も被害者になっているとも言える。犯罪を犯したのは当人であり、その責を負うべきは当人であって、家族ではない。

 そんな当たり前なことをリアリティを伴って教えてくれる。ジャーナリズムの力をいかんなく発揮してくれている。ちなみに、犯罪などに関するジャーナリズムの暴走については『報道被害』(岩波新書)がこの本と同様にリアリティを伴ってその酷さを教えてくれた。



 しかしながら、確かに、犯罪を犯した当人が責任を負うべきであるとはいえ、少年犯罪における親のように家族に他のやり様があったのではないのかと思えることもないではないだろうから、完全に近代人にはなりきれない野蛮な自分が残っていたりするのも事実だ。



 それにしても、子育てに正解があるわけではないし、周りから見たらすべきでないことも当の親からしたら正しいと信じていたりする場合もあるし、犯罪に限らず、勉強であれ、しつけであれ、「親の責任」というのは一筋縄では語りきれないものだ。




 

 瀧本哲史 『僕は君たちに武器を配りたい(エッセンシャル版)(講談社文庫、2013年)

 

 現代を生きる若者に向けて、コンサル、投資家、大学教授といった肩書をもってきた著者が、今の社会のあり様を教えている。 これまで信じられてきた話とは異なる、現代の現実が様々なエピソードを交えて登場している。 京大卒の医者や司法試験合格者でさえ安泰ではないとか、学生起業家の失敗例とか。

 代替可能なものになる「コモディティ化」や、生き残れる4タイプといった独自の視点や指針も提示されている。

 読むと、なるほどと納得する点もあるし、へぇと驚く点もあるし、本当かなと疑問を持つ点もある。

 ただ、人にはそれぞれ具体的な状況がありそれに対処していく必要があるのだけど、この本で書かれていることは漠然とした抽象的なことが多くて、タイトルから想像される実践的な「武器」がすぐに手に入るというイメージからは遠いと思った。


 寺島実郎 『何のために働くのか(文春新書、2013年)

 

 多摩大学の学長でもある著者が、「働くということ」について、その意味、先達たちからの教訓、時代認識、自らの経験といった視角から語り明かしている。


 まず、働くことの意味について「カセギ」と「ツトメ」というキーワードを出し語り始めている。実に現実的な視点に降りて話していることに非常に共感しながら読み始められた。

 「フロントランナーから学ぶ」という続いての章では、スズキの会長やソフトバンクの社長やHISの会長の話を持ち出し、彼らの行動力や人間力を見習えと言う。成功者が往々にして持ち合わせている行動力やバイタリティは、あらゆる可能性をこじ開けてくれるものであり、その重要性は疑うべくもない。が、それを持つことを望める人がどれだけ存在するのだろうか? 少なくとも多数派ではないだろう。

 続く章で、筆者自身の経験が語られる。小難しい本を読み漁って先生に食って掛かった高校生時代。早大時代の博報堂でのアルバイト経験。三井物産で海外を渡り歩いて得たあらゆる知見。実にエキサイティングで魅力的な人生を歩んできている。ただし、一つ言えるのは、筆者は、自分の趣味に没頭したいと思うような凡人ではないということだ。

 続いて時代認識が語られる。グローバル化、アジアダイナミズム、IT革命、ものづくり、エネルギーなどいくつかの観点が選ばれている。

 その後の章は「企業の見極め方」という実に実践的なテーマになっている。ポイントとして挙げられているのは、自分自身をよく突き詰めて考えること、企業の収益の構造を確認すること、会社の人を見ることなどである。どこをどう見ていいか分からず、結局表面的な数字やイメージやらで判断せざるを得なくなりそうなところを、自分でもできる見極め方を提示していて、さすがは世界や時代を見抜いてきた分析力だと思った。ただ、そんなに優良な中小企業が簡単に見つかるだろうか?

 そして、最後の章で結論として、「不条理を取り除くため」に働くべきだと説く。


 どんなことにも当てはまるが、できる人というのは放っておいても勝手に自分でできるものだ。必然的に問題は、そうではない人たちをどうするかということになる。30%を超えるという非正規労働者、就職氷河期に特に多くいるであろう希望の職に就けなかった者、「失われた20年」を生きてきて理想もなくなり最低限の稼ぎさえあれば後は趣味に没頭してまったり生きたいと考える者、そういった人たちが多い現代の日本という時代を筆者はどう考えているのだろうか? 筆者が語るものの多くは、「できる者の話」、あるいは、「(高度成長であれ低成長であれ)右肩上がりの時代の話」にしか聞こえない。かつて、終身雇用などの「日本型雇用」と言われたものが実は大企業にしか当てはまらないという有力な批判が出されたことがあったが、同じ観点からの批判に筆者は向き合うべきではないだろうか?

 この本で語られる話はあまりに浮世離れした理想的な話ばかりにしか見えない。もちろん、難関大学を卒業し、一流企業に就職する人は絶対数ではそれなりに今でもいる。けれど、繰り返しになるけれど、それらの人たちはあーだこーだ言われなくてもできてしまうのだ。この、理想を持てない時代に青春時代を過ごしてきた若者たち、30%以上が非正規雇用という新たな労働環境の時代、未だに抜け出せずにいるデフレ、これらの今そこにある問題を視野に入れていない労働観なんてどれだけ存在意義があるだろうか。

 「不条理からの解放」という公共への視野のある筆者には時代の生んだ弱者への視点を期待したかった。


 

 佐々木紀彦 『米国製エリートは本当にすごいのか?(東洋経済新報社、2011年)


 『週刊東洋経済』誌の記者である著者が、休職してスタンフォードの大学院で修士号を得た2年間の留学経験をもとに、アメリカの大学教育から、留学生の生態、各国の人々の特徴、歴史を学ぶ意義、国際政治、現代の日本人論と、さまざまなことを語り尽くしている本。

 話題は多岐に渡っているけれど、その基本はあくまで留学中の体験であって地に足が着いており、さらに、著者の論理的な分析と大胆な抽象化、記者としての文章の巧みさによって、読み応えのある面白い本になっている。

 アメリカの大学・大学院(おそらく上位レベルの学校だけな気はするが)は、事前に大量のリーディングの課題を課した上で、授業では議論を積極的に行う。著者によると、アメリカでは、学部生でも最低480冊は本(といってももちろん学問に関連するもの)を読まされる。

 大量のインプットと大量のアウトプットが「米国製エリート」の知的能力を押し上げている。自分の経験からも、この方法は、(やってる最中はかなりキツイけど、)かなり効果的だと思う。そして、この学習法が身に付くと、その後の人生において、自分なりの課題や興味を発見次第、自分自身で勝手に勉強することが可能にもなる。これこそが、一生役立つ、大学で身につけるべき能力だと思える。

 翻って日本の教育では、大学入学までは受験勉強という、「“教科書”という聖典があって、それをひたすらインプット(というか丸暗記)する」という学習を行う。

 思うに、このやり方の問題点は2つある。(もちろんメリットもあるけれど。) 1つは、インプットしなければいけないものがあらかじめ与えられていること。そのため、何をインプットするべきか自分で考えたり探したりする必要がなく、また、常に何かしらの「教科書」のような「正解」があると錯覚してしまう。

 2つ目の問題点は、「テストによって暗記したかを確認する」という意味ではなく、「頭に入れた知識を活用する」という意味でのアウトプットの機会がないこと。そのため、頭に詰め込んだ大量の知識が後々に活かされることがなく、また、活かす場がないことにより、知識が有機的に体系化されずに個々別々のものとしてしか存在しえなくなってしまっている。(「トリビア」だとか「雑学」だとかがやたら持てはやされ、入試でもそのようなことを訊いてくるのは、そんな知識しか持てていない日本人の具体例かもしれない。)

 著者の言うとおり、日本は大学受験まで必死に勉強させられるから大学では遊び、逆にアメリカでは高校の時に遊んで大学では必死に勉強するという違いがあるという面もあるのだろう。そして、これは、受験する人が多く、皆が勉強することになり、その結果平均的な学力が高くなる日本と、大学に行くエリートだけが勉強し、エリート層の知力は優れているアメリカという違いを生んでいるのかもしれない。

 ただ、日本の政界や財界やマスコミなどの人々を見るにつけ、日本の大学教育もアメリカに見習うべきところは見習ってほしいと願わずにいられない。

 

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