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 寺島実郎 『問いかけとしての戦後日本と日米同盟――脳力のレッスンⅢ(岩波書店、2010年)


  最早、この連載(『世界』誌での連載「脳力のレッスン」)は私にとって毎月の発信などという営みを超えて、体中から溢れる時代への怒りを抑制し、眼を凝らして足元と世界を見つめ直し、理性を取り戻して時代というリングに上っていく大切な基盤となりつつある (「はじめに」より)

 そんな寺島実郎渾身の「脳力のレッスン」を集めたものの3冊目。自らの生い立ちとも絡ませた世代論(小田実、ゴジラ、月光仮面など)、アメリカがつまずき中国が台頭しつつある世界経済、普天間基地移設問題の本質たる今後の日米同盟のあり方、等々、定番の問題から興をそそる身近な事柄まで、幅広く、思考している。

 相も変わらず、読んでいると姿勢を正される思いがする。


 (宮沢喜一元首相が面談で、)「 日本人は思い込むと急に視界が狭くなるからなあ 」と呟やいていた。 長期的な「国益」を国際社会で実現するために実効ある外交施策を冷静に構想することよりも、狭隘な自己主張に熱を入れる傾向は、日本の国際関係において再三繰り返され〔てきた。〕 (p79)

 そんな日本人の一人として自戒し、普天間移設問題の先に日米同盟を、尖閣ビデオ流出事件の先に近代的政治制度を見据え、短絡的な感情に流されない強靭な思考と、確固とした理念と、しなやかな知性を、という気持ちになった。

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 中野雄 『丸山眞男 人生の対話(文春新書、2010年)


 丸山眞男に心酔している音楽評論家が、今はなき師匠・丸山眞男との交流を懐古的に綴っている本。

 様々なエピソードを通じて明らかになるのは、自身の体を蝕む病までをも対象にしてしまう飽くなき好奇心、具体的事例から瞬時のうちに一般論を引き出す抽象化力( ウェーバー的、社会科学的思考法 )、誰でも家に上げて話し込んでしまうほどの話好き、といった丸山眞男の圧倒的で魅力的な個性。

 そして、高度成長を予想できなかったり、期待した労働組合に裏切られたり、といった厳しい現実にのまれる分析・評論の天才の悲哀。

 それらが、「精神の貴族性」を説いた人物の弟子らしい、落ち着いた筆致で綴られる。今はなき古き良き時代を穏やかに淋しさもたたえながら振り返るあたりは、四方田犬彦の『先生とわたし』(新潮文庫)と似た雰囲気が漂う。


 素直に羨ましく思う気持ちがある一方、なんとも浮世離れした温い世界での話ばかりなところに( おそらく妬みも重なって )苛立ちの気持ちも湧き起こってくる。

 けれど、読み物としてはやはりおもしろかった。

 原武史 『滝山コミューン一九七四(講談社文庫、2010年)


 東京都東久留米市の新興巨大団地・滝山団地の住民のために開校された市立第七小学校で、筆者が小6のとき(1974年)に経験した、ある種、異様な、しかしながら、本質においてその後の教育にも受け継がれていた「学校教育」について、その内部にいたものによる詳細なノンフィクション。

 その教育は、ソビエト連邦的な「集団主義」と、全共闘世代が理想とした「戦後民主主義の実践」を徹底的に追求するものであった。

 しかし、その教育に批判的でそこにおいて疎外感を感じていた筆者が描くその実態は、「集団主義」を崇高な理念とし、そこから外れる者を敵、劣等種族とみなすファッショな空間と、上(一部の指導者、一部のクラス)から押し付けられ完全に形骸化した「民主主義」(の真似事)であり、スターリニズムの実践でしかなかった。

 それにもかかわらず、そんな教育が行われえたのは、全共闘世代の理想に燃える教師たち、何もない新たな土地にやって来てその土地で自分たちの理想通りの学校を作ろうと理想に燃えていた母親たち、そして、当時の最先端であった巨大団地に住まう児童たちが、鉄道の駅からも距離のある「陸の孤島」のような土地で国家や周辺地域からも独立して一つの共同体(コミューン)を形成していたからであると筆者は考える。


 この本を読んで恐ろしく感じるのは、そこが洗脳された人々による異様な空間になっているからというのもあるけれど、他にも、自分が受けた教育(小学・中学)でも(本書の七小ほど酷くはないにしても)同じようなことをした心当たりがあるからでもある。

 「ダメ班」を決めるほどえげつないことはしなかったけど、事あるごとに班ごとに話し合って意見を出したり、毎日班ごとにその日の反省と次の日の目標を言わされたり、気持ち悪いくらいに皆が優等生的な振る舞いをしていて気持ち悪いくらいに一体感のあるクラスがあったり、等々。 その教育の理想や原点はこの本で書かれているような教育であったのだと知って、その愚かさを再認識した。


 と思う一方で、民主主義社会における教育には形式的であっても民主主義の実践を何らかの形で取り入れる必要はあるのだろうという思いもある。

 とはいえ、戦中戦前の日本やドイツの過ち、共産主義下のソ連の過ちという歴史を知っている現代の人々はその教訓を生かすことができるのである。 その点、1974年の時点であっても戦前の日本やドイツの過ちは生かせたはずであったのに、それを生かせずにファッショなことをやってしまった本書の教師たちや母親たちは相当な過失を犯している。

 坂本敏夫 『死刑と無期懲役(ちくま新書、2010年)


 刑務官だった著者が、刑務所や拘置所で経験した、死刑の執行や死刑囚との交流などを綴った本。

 直に死刑囚たちと接してきた著者は、凶悪犯罪を犯した死刑囚たちが人間らしい側面を見せる場面にたくさん遭遇してきている。

 世間から隔離されている中での、報道もされない、そんな現実の一側面を白日のもとにさらすことは、死刑制度を考える上での有益な材料の一つとして非常に意義がある。

 もちろん、人間には二面性があり、その良い側面だけを見て死刑を云々するべきではないけれど。


 思うに、死刑だけが犯罪者の更生を考慮せず、一般抑止力や被害者感情だけで人を扱わざるを得ない現実はバランスを失している。 更生しつつある人に対してあっ気なく刑を執行せざるを得ない現実は色々と考えさせられる。

 人手やコストはかかるけれど、やはり終身刑を導入すべきだとは思う。

 上杉隆 『記者クラブ崩壊(小学館新書、2010年)


 以前取り上げた『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)の続編、その後の経過報告。

 政権交代が起こり、記者会見開放を公約に掲げていた民主党が内閣を構成するようになった。 そして、岡田大臣の外務省、亀井大臣の金融庁が記者クラブ以外の記者たちへの記者会見の開放を実現した。 その一方で、鳩山総理の首相官邸は開放できていない。

 どういう考えで岡田、亀井の両大臣は開放したのか、そして、なぜそれが実行可能だったのか、また、なぜ首相官邸などは開放できていないのか、など、政権交代後の「記者クラブ」に絡んだ動きを報告している。

 外務、金融以外の他の省庁でも開放する方向に向かっていて、記者クラブの敗色が濃厚になってきている。 良いことだ。 ただ、筆者は、すでにアメリカの有力紙は日本から撤退してしまい、日本の情報発信という点で手遅れだと述べているけれど。

 大手メディアはしっかりと敗北宣言と総括をしてほしいものだ。


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