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 今田洋三 『江戸の本屋さん(平凡社ライブラリー、2009年)


 本好きなら思わず興味を惹かれてしまうタイトルのこの本は、1977年に出版されたものの再刊で、江戸時代の、本を取り巻く人々(出版=販売、書き手、読者、幕府など)や環境が包括的に分かるものになっている。

 作品を勝手に真似されるのを防ぐ自衛的な(今の著作権と似た)取り決めがあったり、人気のある書き手を一つの(出版も販売も行う)店が独占的な約束を交わして囲い込んでしまったり、幕府が規制・取締をしたりと、現在と似ているところもあれば、貸本・写本が一般的だったり、同一人物がやたらと筆名を変えていたり、出版と販売が一体化していたり、移動が不自由で流行に時間的なズレやローカル性があったりと、現在と違っているところもある。

 勝手に現代とのアナロジーで思い描いてしまう害や愚を取り除いてくれて有益で、読み物としても学術論文的な堅いものではなくてなかなかおもしろかった。


 それにしても、前近代だけあって、やはり、幕府は思想・良心の自由、表現の自由のようなものは認めず、シモ関係、幕府批判などは(時に厳しく)取り締まっている。 しかし、その一方で、お触書程度のものなら本屋が無視していたり、なんだかんだで幕府をおちょくったりして捕まるような人がしばしば現に出てきていたりという側面もある。

 両方の側面があると言ってしまえばそれまでだけど、町人文化が花開いた前近代たる江戸時代は果たしてどう理解すればよいものだろうか。 歴史はなかなか一筋縄ではいかない。

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 竹内政明 『名文どろぼう(文春新書、2010年)


 読売新聞の「編集手帳」の執筆者が、味のある機知に富んだ文を軽快にたくさん紹介している本。

 文章なんて所詮は既に存在している言葉の組み合わせにすぎない。 そう考えると、もはや、おもしろい短文を生産するのは不可能なのではないかと思ったりもする。 けれど、この本を読むと、言葉の可能性がまだまだあることと、おもしろい文を生み出せる凄い人たちがいることを思い知らされる。

 著者自身が書き下ろした本を読んでみたいとも思うけれど、この本はこの本で、名コラムニストが選びまとめ上げたらしい小気味良い一冊になっている。 

 最後に、この本で引用されている中で自分が好きなものを一つ。

 ドリトル先生の物語で、先生の飼っている犬と豚がケンカをする。 犬が罵って言った。
 『 トンカツの生きたの! 』 ( ロフティング/井伏鱒二訳『ドリトル先生アフリカゆき』 )(
p126)

 酒井雄哉 『一日一生(朝日新書、2008年)


 山の中を7年かけて4万kmほど歩き、最後に90日間お堂にこもり、食事やトイレや1m四方の縄床での2時間の仮眠以外の1日20時間以上の時間を、念仏を唱えながら阿弥陀仏の周りを歩き続けるという荒行「千日回峰行」を2回やり遂げた、天台宗大阿闍梨によるエッセイ。

 これほどの修業をした人はどんな考えに至るのかということに興味があったのと、そんな人の言葉を論破してやろうという気持ちから読んでみた。

 悟ったような偉そうなことを大上段から言ってくるのかと構えて読んでみたら、あまりにも肩の力の抜けた威張らない言葉の数々に拍子抜け。 

千日回峰行を経てどんな変化がありましたか」とよく聞かれるけど、変わったことは何にもないんだよ。 みんなが思っているような大層なもんじゃない。 行が終わっても何も変わらず、ずーっと山の中を歩いているしな。(p15)

 といった調子。 しかも、わざと澄ましてクールぶっているということでもない。


 そんなわけで、言葉の一つ一つに深さや新しさはないけれど、背伸びをしない生き方や発言に感心した。

 ブレインナビ編著 『伝説の「スーパーカー」がよくわかる本(PHP文庫、2010年)


 1970年代のスーパーカー・ブームの頃から現在までのスーパーカーを42台、それぞれ4~6ページでエピソードなどとともに紹介している本。

 出てくる車は、ランボルギーニ・カウンタック、デロリアン・DMC-12、フェラーリ・F40、ポルシェ・959、ブガッティ・ヴェイロン、レクサス・LFAなど。

 一般向けの本だから、マニアックな内容とか難しい機械の話とかはあまりなく、手軽に読める。

 どの車も壮大な夢が詰まっていて、個人的な好みを超えてどの車もカッコよく見える。

 ひるがえって、今、現実の日本の、そこらの道を走ってる車を見ると、軽とかミニバンとか、あまりに実用的な車ばかりで、さびしくなる。 今、小学生の男子たちが普段そこらの道で車を見ても、心ときめかすことはほとんどないだろうなと思う。

 重松清 『疾走(上)(下)(角川文庫、2005年)


 自分にはどうすることもできない様々な不幸に巻き込まれ、苦しく厳しい境遇の中を、ひとり疾走しながら生きる少年の物語。 他の重松清の作品とは大きく異なり、人間や日々の生活の温かさは(ほとんど)ない。

 なかなかの佳作。


 他の重松作品は、人間の弱かったり優しかったりする気付きにくく言葉では表しにくい一側面だけを切り取って表現しているものが多いけれど、今回の作品は人間をトータルに描いている。 その壮大さのために、読んでいて物語に圧倒されおもしろく感じた。

 また、孤独な少年が彷徨い続ける物語を描いている点では、村上春樹の『海辺のカフカ』とも似ている、という印象を受ける。 ただ、両者には大きな違いがある。 舞台が空想か現実かというのが一つ。 それから、もっと本質的なところでは、村上作品は「人間や少年は孤独なものだ」という前提で書かれているのに対して、重松作品は「家庭崩壊や学校での疎外があって初めて人間は孤独に陥る」と考えている点が、根本の人間観のところで違っている。

 それから、Amazonのレビューではやたらと「救いがない」と騒いでいるけれど、まず、「救い」はある。 あんな全てを許してくれる神父さんみたいな人間が普通にいるだろうか。 主人公の少年・シュウジにとって、同じ「ひとり」であるエリと出会えていることはなんて幸運なことだろうか。 故郷での開発は失敗に終わり、にぎやかで新しい街に変わり果てず、その片隅にひまわりが咲いていることはなんて運がいいのだろうか。

 というか、そもそも、小説の中に「救い」を探すのは個人の勝手だが、それは所詮、小説の受容方法の一つにすぎず、決して普遍的なものではない。 小説は読者を元気づけ励ますためだけのものではない。 ギャグ漫画とか料理みたいに皆が共通の目的を持っているものとは違う。


 話がそれたけれど、人間をトータルに描いているところ、物語の壮大さ、(外在的な悲劇に頼っているとはいえ)人間の孤独を描いているところ、はおもしろかった。

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