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重松清 『疾走(上)・(下)』 (角川文庫、2005年)
自分にはどうすることもできない様々な不幸に巻き込まれ、苦しく厳しい境遇の中を、ひとり疾走しながら生きる少年の物語。 他の重松清の作品とは大きく異なり、人間や日々の生活の温かさは(ほとんど)ない。
なかなかの佳作。
他の重松作品は、人間の弱かったり優しかったりする気付きにくく言葉では表しにくい一側面だけを切り取って表現しているものが多いけれど、今回の作品は人間をトータルに描いている。 その壮大さのために、読んでいて物語に圧倒されおもしろく感じた。
また、孤独な少年が彷徨い続ける物語を描いている点では、村上春樹の『海辺のカフカ』とも似ている、という印象を受ける。 ただ、両者には大きな違いがある。 舞台が空想か現実かというのが一つ。 それから、もっと本質的なところでは、村上作品は「人間や少年は孤独なものだ」という前提で書かれているのに対して、重松作品は「家庭崩壊や学校での疎外があって初めて人間は孤独に陥る」と考えている点が、根本の人間観のところで違っている。
それから、Amazonのレビューではやたらと「救いがない」と騒いでいるけれど、まず、「救い」はある。 あんな全てを許してくれる神父さんみたいな人間が普通にいるだろうか。 主人公の少年・シュウジにとって、同じ「ひとり」であるエリと出会えていることはなんて幸運なことだろうか。 故郷での開発は失敗に終わり、にぎやかで新しい街に変わり果てず、その片隅にひまわりが咲いていることはなんて運がいいのだろうか。
というか、そもそも、小説の中に「救い」を探すのは個人の勝手だが、それは所詮、小説の受容方法の一つにすぎず、決して普遍的なものではない。 小説は読者を元気づけ励ますためだけのものではない。 ギャグ漫画とか料理みたいに皆が共通の目的を持っているものとは違う。
話がそれたけれど、人間をトータルに描いているところ、物語の壮大さ、(外在的な悲劇に頼っているとはいえ)人間の孤独を描いているところ、はおもしろかった。