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 ナタン・シャランスキー 『なぜ、民主主義を世界に広げるのか(藤井清美訳/ダイヤモンド社、2005年)
 
 
 帯に書いてある宣伝文句がとにかく激しい。

ブッシュ政権のバイブル、世界の行方を左右する問題の書!

「とにかく読んでほしい。私の信念に理論的裏づけを与えてくれた書」ブッシュ米大統領

「世界は、圧政国家に対するシャランスキーの考えを採用すべきだ」ライス米国務長官

 また、カバーの裏にはこんな逸話も書かれている。

第2期ブッシュ政権の根底に流れる「自由拡大思想」。その原典が本書である。米ネオコン人脈と親交があった著者シャランスキーは、再選後のブッシュからホワイトハウスに招かれ、本書の論理を説明。それ以来、大統領は会う人ごとにこの本を勧めるようになった。

 これだけ激しく大々的に宣伝文句を並べられると、逆に、軽くてつまらない本なのではと疑ってしまいそうだが、[解説]に宮台真司を擁することでその難点が抑えられている(?)。そして、実際、切れの鋭い読み甲斐のある本だった。

 筆者は、まず世界には「自由社会」と「恐怖社会」があるとし、恐怖社会では人々は「二重思考」を使っているため表面には表れないが、たいていの人は自由を望んでいるし、無自覚であってもその方が幸福になれると考える。

 そして、その恐怖社会を強いる圧政を支えるものとして二つ指摘する。一つには、独裁者が意図的に外に「敵」を作り出すことによって国民の目を外に向けさせ、団結を維持すること。これは「反米」や「反日」のように自由社会にとっての脅威となる。二つ目に、先進国が「民主主義より安定が大事」という考えや、交渉のしやすさという点から独裁者を存続させようとすることによっても圧政は支えられている。しかし、独裁者は体制の維持や私財の蓄積などの自己利益にしか興味がないため、いくら先進国が融和や改革を進めようとしても、そもそも独裁者は和平を進める気がない。そのため「独裁者の下で平和はない」とされる。

 以上の分析から自由社会が採るべき策が導き出される。それは端的に言えば、「人権派」と「タカ派」の結合だ。つまり、全世界を自由社会にすることなしに平和や安定はないとの考えの下、相手国の自由化・民主化の程度やそれらへの改革の前進に応じた経済・軍事面での外交(リンケージ政策)を主張する。

 これらの主張を、前半では理論的に、後半ではパレスチナ問題の歴史を辿りながら述べている。
 
 
 ユダヤ人である筆者は、ソ連でイスラエルへの移住を求める運動を行い、強制収容所に入れられたこともある。イスラエルに移り住んでからは政党を立ち上げ、ネタニヤフ、バラク、シャロン政権では閣僚として活動した。そのため、親ユダヤ・イスラエルのバイアスがかかっている(と思われる)記述が随所に見られる。

 また、本書の中では軍事力の行使が自然のことのように述べられていて、それを正当化する詳細な分析や論理が述べられていない。ただ、この点はイラク戦争当事話題になったロバート・ケーガン著『ネオコンの論理』(光文社)が理論的な基礎を提供してくれているように思う。両著を併せることでネオコンの「人権派」と「タカ派」の両面での認識がよりよく理解できる。
 
 
 さて、彼らネオコンをいかに批判するべきか?

 宮台真司は[解説]で、イラクを攻めて中国を攻めない恣意性や国際世論などの文脈への鈍感さ等を批判している。

 この2点はごもっともだ。特に、後者はイラク攻撃で中心的役割を担ったアメリカ・イギリス・スペインへの国内でのテロに見られるように、見逃すことのできない重大な欠陥だ。そこまでして武力による自由化・民主化を行うべきなのか? 世界を自由社会にするという理念には賛同するが、やはり手段や戦略については再考の余地がある。軍事力を使わずにソフトにリンケージ政策を取り入れる以外に名案もないが、自国内の国民の生活や安全を守るという点からすれば、安易に強硬なネオコン路線に関与すべきではない。テロの時代に重要なのは予防外交だ。予防外交以外にはあり得ない。

 もう一つ、本書の欠点を批判しておこう。それは、自由と民主主義をかなり混同していることだ。本書の中で自由と民主主義は(一部自覚的に論じられてはいるが)ほぼ入れ替え可能な同時発生的なものとして出てくる。しかし、イラクを見れば分かるように、民主主義体制にはなっても自由や人権の概念が欠如する可能性は十分にある。両者が同時に生まれないことには安全な自由社会にはならない。自由・人権をいかに拡大・保障・定着させるか(あるいは、させるべきなのか)は、本書の枠を超えた別の種類の重要な問題だと思われる。

 しかし、いくつもの問題を抱えてはいるものの、筆者シャランスキーの外交センスは鋭く、洞察は論理的で、本書は非常におもしろく勉強になった。外交が必要ないからか外交に弱いと言われる日本人にはありがたい本だ。それにしても、日本には「首相の主張を支える本」の類がほとんど登場しなくて寂しい。

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 五百旗頭真 『日米戦争と戦後日本(講談社学術文庫、2005年)
 
 1989年に出版され、吉田茂賞を受賞した単行本の文庫化。日米開戦から戦後復興までの日米両国の動きを当事者の人物描写を中心に描いている。電車の中で読むために買ったのに、少しだけと思って家で読み始めたらおもしろくて最後まで読んでしまった、というよくあるエピソードを生じさせてくれる、とても読ませる本。

 筆者も「あとがき」で書いているように、この本は「原資料に基づく詳細の実証」というより、「系統立った解釈による全体像の提示」を意図しているため、たくさんの逸話や心情解釈などが盛り込まれていて、学問的な緻密さ・厳密さはない。けれども、その分読み物としてのおもしろさは格段と高くなっている。ただ、筆者自身は歴史(政治史)研究者であるだけに、事実関係についての記述における信頼性は巷に溢れる歴史物に比べれば十分なほどに高いと考えられる。また、筆者による歴史や人物の解釈も事実に基づいた推測や判断であるだけにイデオロギッシュではなくバランスの取れたもので、心を乱さずに読み進めることができ、こちらも信頼が置ける。

 中学生・高校生はつまらない教科書ではなくこういう本を読んで冷静だが活き活き描かれた歴史を学ぶべきだと思う。そうすれば、偏狭な歴史観や古めかしいヒロイズム(英雄主義)に陥らずに済むのではないかと楽観的に考えたりもする。
 
 
 本書の内容で特に興味深いと思ったのは、本書が日米双方を並行して記述しているため、日本から見た太平洋戦争や戦後復興政策だけでなく、アメリカから見た日本社会や日本政治についての認識も描かれている点である。特に、アメリカ国内にける真珠湾の被害者や戦勝国としての国民及び大統領の過激な対日政策の主張と、それを抑えようとするわずか数人の知日派とのせめぎ合いはおもしろい。
 
 
 なお、「学術文庫版へのあとがき」によれば、この本は小泉首相も読み、その結果、アフガン戦争後にブッシュ大統領・パウエル国務長官に、第二次大戦後の対日占領政策でのアメリカの迅速な対応を教訓にアフガンも復興支援を速やかに行うべきことを訴え、日本でのアフガン復興支援会議につながったとのことである。小泉首相の満足そうな顔が思い浮かぶ。

 しかし、イラク戦争に際してのアメリカの戦後占領政策の重大な欠陥はしばしば指摘されるところであり、結果からみれば、小泉首相のアフガン戦争時のアドバイスはブッシュ大統領にはしっかりとは届いていなかったようだ。
 
 
 しかし何はともあれ、この本は「なんで政治家が歴史という過去の問題ばかりを議論しているのだ? 政治家になるには歴史に詳しくないといけないのか? それなら歴史学者が入閣することもあり得るのか?」というような素朴な疑問を現在の政治に感じつつも、「それでも歴史も知らなければ」と思っている適度なバランス感覚を持った人におすすめである。

 坂野潤治 『明治デモクラシー(岩波新書、2005年)
 
 
 自分は、タイトルに「デモクラシー」とか「民主主義」が入っているとついつい惹かれて買ってしまう性分だ。

 ただ、明治時代のこととなると現代で言うところの民主主義とは異なっていることが多く、敬遠しがちだ。

 しかし、本書の帯の文句は「明治の日本には、民主主義の息吹があった!」という挑発的なもの。

 どうやら、時代状況に拘束されたかなり限定的な意味での“民主主義”ではなく、現代的な意味での民主主義を明治時代に見出しているようである。そこで読んでみた。

 本書での筆者の狙いは「はじめに」で簡潔にまとめられている。長いが全文引用しておく。

 今日のわれわれは、自国の過去100年以上にわたる民主主義思想と運動を、連続した、累積的な伝統として再構成する必要に迫られている。それには第一に、「上からの近代化」や「上からのファシズム」の呪縛から自らを解き放たなければならない。第二に、1880年に始まるいくつかの下からの民主化の波を、相互に比較できる形に再構成していかなければならない。
 このような観点から、筆者は、日本の近代史を、上からの「富国強兵」の枠組ではなく、下からの「デモクラシー」の枠組で捉えなおし、それを「連続」的なものとして理解することに努め、そのために「明治デモクラシー」、「大正デモクラシー」、「昭和デモクラシー」という用語で分析していきたいと考えている。本書は、その第一着手として、これまで「自由民権運動」、「大同団結運動」、「初期大正デモクラシー」と区別されてきた明治12年(1879)から明治末年(1912)までの民主化の波を、「主権論」と「二大政党制論」を中心に「明治デモクラシー」として相対的に理解しようとするものである。(pⅢ)

 このような目的の下、福澤諭吉、植木枝盛、中江兆民、板垣退助、徳富蘇峰、北一輝、美濃部達吉といった思想家であり運動家(政治家)でもある人たちの主張を連続的かつ一貫的に検討している。

 筆者が本書のような構想や問題意識を持った理由は、後世の歴史研究者の不十分さのためというより、歴史の中の登場人物たちへの不満に存する。このことを端的に表す文章が本書の最後のページに出てくる。

 筆者は、吉野作造の「民本主議論」を高く評価するものである。その内には、「明治デモクラシー」のすべてが吸収されているからである。二大政党制、普通選挙、社会民主主義だけではなく、悪名高い「主権在君」の容認についてすら、「明治デモクラシー」の「主権問題棚上げ論」の系譜を引いているのである。ただ、吉野がこの4つの主張を、自国の近過去からの継承としてではなく、3年間の欧米留学の成果として提唱したことだけが、惜しまれる。自国の民主主義的伝統を継承発展するものとして自分の思想を訴えていかなければ、次の新思想に簡単に足をすくわれてしまうのである。(p219)

 本書を読むと、筆者の狙い通り、明治から大正にかけて日本で行われていた民主主義についての民主的な議論の様子とその内容の詳細がよく分かり、とてもおもしろい。

 ただ、(史実についてはよく分からないため、それ以外のところについて)いくつかコメントをしておく。

 一つ目は、思想と実践との距離について。本書の中では、思想と実践を特に意識することなく同時に同列に論じている。しかし、思想が直接的に実践に反映されているのは稀なことだ。特に、その時代の先進的な思想となれば、より一層実践との乖離は大きくなる。トマス・モアの『ユートピア』が出されたのは1516年だし、ロックの『市民政府論』は1690年、ルソーの『社会契約論』は1762年だ。歴史がこれらの思想に追いつくのに果たしてどれだけの時間がかかった(かかる)か。もちろん、本書の試みが思想的源流を探ることに限定していれば問題にはならないが。

 二つ目は、筆者の「下(から)」の定義だ。最初に引用したように、本書は日本の近代化について「上から」の変革ではなくて「下から」の動きを捉えるものだ。しかし、本書で考えられている「下」とは“国家(あるいは旧幕府)ではない”という程度の意味である。もちろん、その非国家に属する運動家が普通選挙など「下から」の民主主義の制度・実践を指向したことは間違いないが、その運動自体が果たして(当時においてさえ)「下から」だったと言えるかどうかは留保を付けざるを得ない。

 三つ目のコメントは、(日本史に弱い自分の)個人的な課題でもある。筆者は明治維新以降から現代に至るまでの民主主義の思想に連続性を見出している。これは換言すれば、明治と江戸との間に断絶を想定しているということだ。実際、思想家として最初に取り上げられる人たちは、欧米から思想を学んだという以上のことは書かれていない。しかし、欧米の思想を急に採り入れて確信するようになるにはある程度の前提条件や素養がなければならないだろう。もちろん、欧米からの輸入が大きなウェイトを占めるとしても、その吸収や採用を促した江戸から連なる要素も存在していたと考えるべきだろう(ただ、だからといって日本の先進性を強調したいのではない)。これは丸山真男以降、あまたの研究者が(肯定否定どちらであっても)追究していることだ(と思われる)。この点について、筆者の見解も聞いてみたいものだ。

 いずれにしても、明治から大正期の日本における近代民主制についての議論を描き出す本書は、明治憲法や天皇主権や軍部独裁といった暗い概念によって安易に覆い隠されてしまいそうな歴史的イメージを健全に保つのに非常に有意義だ。

 そして、(やや飛躍的に結論だけ言えば、)日本対西洋という図式の非妥当さや、「日本型」「日本独自」といった類の保守的言説のいかがわしさを改めて確信させてくれる。

 佐藤優 『国家の罠 ――外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮社、2005年)

 
 本書は、鈴木宗男と結託して日本の対ロシア外交を牛耳ったとしてマスコミから散々叩かれ、背任罪と偽計業務妨害罪で逮捕された外交官の手記である。

 この本については、朝日新聞の書評欄で経済学者の青木昌彦が取り上げているほか、個人的に信頼できると思っているブロガーも「おもしろい」と書いていたため読んでみた。

 著者の佐藤優は、同志社大学大学院神学研究科で組織神学を学び(研究テーマはチェコスロバキアにおける共産党政権とプロテスタント教会の関係)、その後、外務省にいわゆる「ノンキャリア」として入省している。

 本書を読んで一番に感じるのは、著者の頭のよさと博識さだ。本書の中でも「情報分析官」という職名に恥じない分析眼を外交分野以外でも発揮している。また、聖書からヘーゲルやハイエクに至るまでの幅広い学識も頻出している。

 そんな著者が本書で書いている内容はかなり衝撃的である。

 基本的な主張は、鈴木宗男と自分が逮捕されたのは「国策捜査」によるものであるということだ。そして実際、それを裏付ける検察官の発言や行動が見られるし、自分の行為は取り立てて問題視するほどのものではない普通の外交行為だと主張する。この主張を時間的経過に従いつつ、具体的な個人名や発言をかなり大胆に明示しながら展開している。

 もちろん、本書で被告人である著者が書いている内容がどこまで真実であるかは確かめようがない。したがって、本書の内容は事件や外交の当事者による一解釈に止まらざるを得ない。しかしながら、個人名を出すなどしてかなり具体的に記述がなされているため、明らかになることの少ない日本外交や外務省の内幕を知ることができる貴重な書であることは間違いない。
 
 と、長々と本書及び筆者の賛辞を述べてきたが、私自身は(ネット上などで見る)本書の肯定的読者とは異なり基本的に本書と筆者に対して手放しで拍手は送れないと思っている。以下で本書(および筆者)の問題点について書いていく。(※かなり引用も多用しているので注意)

 

 本書の問題点は、共通する特徴を有しているように思われる。すなわち、著者によるバイアスが掛かっているということだ。もちろん、個人の手記であるのだから著者自身の観点で書くのは当然だ。しかしながら、事実の説明として書かれている箇所ではできる限り客観的な記述が求められるし、また、著者個人の考えや解釈を書く場合も他のあり得る考えを考慮する必要がある。情報分析官としてロシア政治などに対する冷静な情勢判断を披瀝している著者にはこの種の注意が必要なのは分かっているはずだ。であるにもかかわらず、自己弁護的な方向へのバイアスが掛かっている点がしばしば見受けられる。いくつか例を挙げていく。
 
 
 まず1つは「国益」や「お国のために」といった言葉の使用法だ。これらの言葉は、著者自身が使用するところ以外でも外務省の官僚や政治家などの発言で頻繁に出てくる。具体的には、田中真紀子外相が著者の異動を求めていることについての野上外務事務次官と著者との会話が典型だ。

(野上)「いや、俺たち外務省員のプライドが大切なのだ。田中大臣なんかに負けられない」
(佐藤)「その点について私は意見が違います。プライドは人の眼を曇らせます。基準は国益です」(p99)

 ここでは明らかに田中外相の主張は無知による浅はかな考えであって、自分たちの行動は国家規模での利益を考えたものだという前提がある。しかし、「彼ら自身の主張が国益に適うかどうか」の判断は彼ら自身が行っている。言い換えれば、国益の定義を自分たちで行っているということだ。これは官僚組織に対する典型的な批判が正しいことを見事なまでに表している。つまり、官僚は「国益」という言葉を用いることで「省益」であるに過ぎないものを覆い隠しているのだ。
 
 
 2つ目のバイアスは1つ目とも関連する。つまり、著者(やその他の外務官僚)が外務大臣の主張や行動を奇行や私的利益だと断じて嫌悪感を露わにする点だ。ここでは、(自己が考える)「省益」が全ての判断基準であって、より上位の価値について全く考慮が払われていない。いくら酷いと自分が考える大臣であっても、その大臣は民主主義の理念に則った手続きを経て選ばれているのだ。公務員とは(その内容の如何にかかわらず)民主主義の理念や手続きに奉じることを運命付けられた公僕のはずだ。この観点が抜け落ちている著者(やその他の外務官僚)の行動や考えは数多い。先の引用も一つの例だろう。
 
 
 3つ目のバイアスは鈴木宗男と筆者との関係についての記述で見られ、さらに細かく分類できる。すなわち、第一に、鈴木宗男が外交に関与していること自体の正統性を疑問視する視点が完全に欠如している点。(もちろん鈴木宗男がそれ相応の地位に就いているときは問題ないが。)第二に、鈴木宗男と他の議員との比較の視点がなく、鈴木宗男に対する評価が独善的になっている点。第三に、鈴木宗男と筆者との関係が公私に渡っていて、ほとんど馴れ合い・癒着と呼べるほどになっている点。これらは筆者が鈴木宗男を自分の国益観などから照らして評価していることから起こる、よくありがちなバイアスだ。
 
 
 4つ目のバイアスは、著者の権力観についてだ。著者は、情報分析官であり、情報の政治性に気付いていないはずはない。にもかかわらず、本文の記述においては情報を表面の言葉じりだけで判断するような箇所がしばしば出てくる。特に官僚間や官僚と政治家の間での会話では表面上の言葉じりをそのまま解してはその本質や意図を見損なう。つまり、そこには権力関係が存在しているのであり、発言の内容もその権力関係に規定されることになる。それを見事に表すエピソードが出てくる。著者は以下のように語っている。

二〇〇二年に国会で私が鈴木氏に同行してロシアや北方四島に十九回出張したことが鈴木氏と私の不適切な関係として取り上げられたが、これらはいずれも欧亜局からの依頼に基づき、正式の決済を経て行ったことである。(p174)

 しかし、この「欧亜局からの依頼」が決まった場面というのは以下のようなものである。

私が北海道開発庁長官室で鈴木氏にロシア内政動向について説明しているときに西村(欧亜)局長が訪れ「御多忙中のところ恐縮ですが、国後島、択捉島に鈴木大臣が現職閣僚としてはじめて訪問される機会に、JICAの専門家を連れて、電力調査に行っていただけないでしょうか」と頼みこんだ。
 鈴木氏は私に向かって「あんたも現地を見てみないか」と言うので、私は「是非見てみたいと思います。ただこれはうちの局(国際情報局)の話ではないので、私が決めることのできる話ではありません」と述べると、西村局長が私を遮り、「佐藤も同行させます」と答えた。
 こうして私は欧亜局長の要請に基づいて北方四島に出張することになった。(p174)

 権力を有する鈴木宗男の意向に反して欧亜局長が佐藤優を同行させることを拒否させることは事実上できない。
 
 
 5つ目のバイアスは上の点でも少し出てきている。つまり、著者が本文中で行う諸々の人たちの発言の解釈が恣意的であることだ。ときには発言の政治性を汲み取って解釈しているのに、別のところでは発言を文字通り解釈していたりする。これを例証するのは、この本のメインとも言える逮捕後すぐの取り調べでの西村検事と著者との会話の箇所だ。

(西村検事)「あなたは頭のいい人だ。必要なことだけを述べている。嘘はつかないというやり方だ。今の段階はそれでもいいでしょう。しかし、こっちは組織なんだよ。あなたは組織相手に勝てると思っているんじゃないだろうか」
 (佐藤)「勝てるとなんか思ってないよ。どうせ結論は決まっているんだ」
 (西村検事)「そこまでわかっているんじゃないか。君は。だってこれは『国策捜査』なんだから」(p218)

 この文は著者が自分と鈴木宗男が捕まったのが「国策捜査」によるものだというのを端的に示す一つの根拠として出てくる。しかし、まず第一に、本当に国策捜査だったとしたらむしろ検事は国策捜査なんていう言葉を持ち出さないであろう。そして第二に、この種の発言は検事が被告が諦めて証言や自白をするようにするための脅し文句だと解するのが一般的だ。なのに、ここでは著者はあまりに素直に理解している。
 
 
 さて、6つ目のバイアスは上でも出てきた「国策捜査」についての著者の主張の曖昧さだ。著者は自己の逮捕を「国策捜査」によるものだと(公判でも)主張している。しかし、その肝心の「国策捜査」についての記述が一貫していないように思われるのだ。例えば、この国策捜査の黒幕(主導者)に関して、ある箇所では森善朗前首相であるかのようにほのめかしているが(p344)、また別の箇所では山崎派の参議院議員だともほのめかしている(p103)。しかし、また他方では西村検事の以下のような発言もある。

(西村検事)「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」(p287)

 そして、政治家に対する国策捜査での法律の適用基準について以下のように続く。

(西村検事)「実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない。」(p288)

 もしこちら(後者)の国策捜査像であるのなら国策捜査とは呼べない。果たしてどちらなのだろうか。思えば、本文中には著者自身による「国策捜査」の定義やメカニズムが全く述べられていない。そして、論拠のほとんど全てが状況証拠に基づくものである。
 
 
 
 さて、以上、著者の6つのバイアスについて説明してきた。しかし、どれも一つしか例を示していない。実際には同種のバイアスがところどころに見られる。

 そして、この6つのバイアスに留意しながら本書全体を読むに、私は「本書での著者の主張は信頼するには留保を科す必要がある」と結論付ける。しかしながら、本書の内容の全てが虚偽であるとは思われない。またあるいは、著者の主張が事実である可能性も全くないとは言い切れない。(何せ権力は信用できないから)
 
 
 ところで、以上の全てを勘案するに、こんな憶測を呼び、読者を惑わす本を出す著者・佐藤優はやはり「怪僧ラスプーチン」であるように思われてならない。しかも、「外務省のラスプーチン」ではなく、「日本のラスプーチン」だ。

 石川真澄 「メディア――権力への影響力と権力からの影響力」 (『レヴァイアサン』7号、1990年)


 本論文は昨年逝去された石川真澄が朝日新聞の記者だった頃に書いた20頁弱の小論である。基本的な主張を冒頭の要約から引用すると、「『マスメディアの影響力』は通常思われている程大きくないこと、むしろ逆に、メディアが権力集団から(中略)影響を受けやすい構造となっている」ことを実際の記事と報道を基に論証することにある。

 このように主張する筆者のマスメディア観は「文字通り伝達のメディアであって、影響力の主体となる他の集団(政党や官僚など)とは異なる」ものということになる。

 以下ではその論旨をやや詳細に追っていく。

 本論ではまず、メディアの議題設定能力が検証される。そこでは初めにD.ウィーバーの著書から「プレスの報道のピークが、実際の出来事や争点のピークよりもかなり前にくる場合が多い」というアメリカでの状況についてのファンクハウザーの研究を引用する。そして、その後に朝日新聞の記事データベースを利用して日本について検証している。その結果、「日本の新聞の伝える記事は議題設定の能動性に欠け、実在する事象の受動的な反映である傾向が強い」という結論を導いている。

 そして、以上の結果から、「一般に事象内容を新聞記者にもたらすソースへの働きかけより、ソースからの働きかけに受動的になりやすい傾向を新聞が持つ」のではないかという仮説を立て、「メディアに情報をインプットするソースと新聞記者との関係」(=影響力の向き)の検証を「容易ではない」としながらも試みている。

 影響力の向きの検証は、「政治に関係する記事の年間ジャンル別本数」と「各部の記者クラブ配置」から行われている。そして、これらから、「記者たちの取材源が政官各機関にどんなに強く依存しているか一目瞭然」だとする。つまり、「マスメディアからの政党や官僚への影響力よりも、政党や官僚の側からのマスメディアに対して及ぶ影響力のほうがはるかに大きいという構造のできあがっている」ということである。

 また、筆者はこのあたりの事情について共同通信社の元社長である原寿雄の「発表ジャーナリズム」という言葉を用いている。つまり、「権力者や権力機関が洪水のような発表で記者たちを発表以外の事象に目を向け難くし、そのなかにジャーナリズムへの操作を織り込んでいく現象」のことである。

 そして、論文の最後では、マスコミ人としての筆者の規範意識が簡単に述べられる。

 以上が本論文の全体の流れとその主張である。



 このような日本のメディアの状況をどう見るべきだろうか? “第4の権力”としてのメディアの役割に期待したいならば、アメリカのような議題設定能力を有したメディアを目指すべきだろう。しかし、私は石川真澄が暴き出した日本のメディアのあり方を肯定的に捉えている。

 というのも、以前、このブログで読売新聞の社説を批判したが、他紙・他テレビ局も似たような知能レベルであることは確実である。そんな知能レベルの人たちが選別した議題(アジェンダ)や情報を与えられても消費者としては“百害あって一利なし”だ。それなら、メディアは情報伝達だけを行っていてもらった方が良い。こう考えるからだ。(もちろん、見識のある人の情報なら話は別だが)

 この点、NHKは“公正中立”というありもしない幻想をあえて協会の報道方針に掲げ、報道内容が問題なきよう最善を尽くし、権力側である政治家(与党限定)の先生へ自らご説明申し上げる、文字通りの“メディア(媒体)”に徹した望ましい報道機関である。そんなわけで、私は「ニュース9」をよく観ている。(ただ、“政府広報”を一時間もぶっ続けに見るのはさすがに疲れるから「ニュース10」はあまり観ない。)



 最後に、論文についてコメントをしておきたい。すなわち、石川真澄が主張するように議題設定能力は受け身だとしても、そこから先の評価や判断においてメディアの果たす役割が大きい場合には、メディアの役割は一概に小さいとは断定しきれないのではないか?ということである。この点は論文の中では触れられていない。ただ、私が断定したようにメディアの知能が低い場合には結局、“発表ジャーナリズム”の下で、気付かぬうちに政府や企業の意のままになっている可能性が高い。

 思えば、そもそもメディアは政府や企業よりも情報や専門知識で劣っているわけであるから、文字通りの“メディア”として行動する以外に道はないのかもしれない。

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