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by ST25
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 ボブ・ウッドワード 『ディープ・スロート――大統領を葬った男(伏見威蕃訳/文藝春秋、2005年)
 
 
 ときの米大統領・ニクソンを辞任に追い込んだウォーターゲート事件でスクープ記事を連発したのが「ワシントン・ポスト」紙の記者だった筆者ウッドワードとその相棒のバーンスタインである。そして、彼らの重要な情報源は“ディープ・スロート”と呼ばれ、それが誰なのかについては、長い間、様々な推理が行われてきた。

 それが、今年の五月、当時のFBI副長官・マーク・フェルトが自分がディープ・スロートであることを認めた。

 その告白から間もなくして出版されたのが本訳書の原書『The Secret Man』である。あまりにすぐに出版されたから驚いたものだが、ウッドワードは以前から将来のために書きためておいたようだ。

 ところで、ウォーターゲート事件の捜査と取材の詳細についてはウッドワードとバーンスタインの共著で『大統領の陰謀』(常盤新平訳/文春文庫)として1970年代にすでに本になっている。この本は映画化もされた。本も映画も見たことがないために、本書『ディープ・スロート』との異同は分からないけれど、本書を読んだ限り、『大統領の陰謀』では書かれていないであろう内容もいっぱいあるように思う。
 
 
 さて、その内容だが、この本ではウッドワードがフェルトに初めて会ったときのことから、その後のウォーターゲート事件の際の二人の密会でのやり取り、フェルトのキャリア、ウッドワードが最近フェルトに再会したときの様子などが書かれている。内容のおもしろさに筆致の上手さが加わって、読み始めると止まらなくなる。

 中でも、最初の、ウッドワードが後にディープ・スロートとなるフェルトに会い、親交を深めていった頃のことが書かれているところは、ウッドワードの性格が見えてくるようで非常におもしろい。

 フェルトに初めて会ったときウッドワードはまだ26,7歳で、まだ記者でもなく、将来、ロースクールに行って弁護士になるか、それとも他の職業に就くかで悩んでいる若者だった。それが、父親と同じ年齢である50代のフェルトにその役職も知らずに話しかけ、半ば強引に話に引きずり込み、継続的な関係にしていった。そんな無鉄砲な人間でないと、巨大権力に立ち向かう記者は勤まらないのだろう。

 この他にも、「ワシントン・ポスト」紙の内部でも「ディープ・スロート問題」を抱えていたことや、ウォーターゲート事件の解明をウッドワードたちが行ったという印象に対するFBIの苦悩や、ディープ・スロートが誰かをすでに見抜いていた人の話など、おもしろい逸話がたくさん出てくる。
 
 
 また、ウォーターゲート事件の一連の報道におけるディープ・スロートをはじめとしたたくさんの情報源への、ウッドワードの感謝の念が至るところで述べられているのには感心した。一連の報道以来、ウッドワードは一躍有名になったにもかかわらず、記者の仕事を可能にしているメカニズムを冷静に認識しているのだ。

 そして、まさに、そんなウッドワードだからこその発言がこれである。

新聞にせよ本にせよ、調査報道というものは、どれだけ迅速に手ぎわよくやれるかが結果を左右する――物事の核心にすばやく迫り、事情を知る人間、文書を持っている人間を見つけて、そうしたひとびととできるだけ早く信頼関係を結ぶ。
 ディープ・スロートという大いなる遺産が、この申し合わせを確立する基礎になった。そのことが、私がぜったいに口を割らない証左になっている。最初の話し合いで相手が即座に話をしてくれることも多い。(p187)

 大したスクープも見つけないのに「情報源の秘匿」の“原則”ばかり声高に主張し、しかも、自分たちは重要な働きをしていると勘違いしている日本のマスコミ各社および記者たちを見ていると、その(働きだけでなく)姿勢の違いに驚きはひとしおだ。
 
 
 なお、この本には、バーンスタインによる「一記者による分析」、徳岡孝夫による「解説」、それに「訳者あとがき」とおまけが盛りだくさんである。中でも徳岡孝夫による「解説」は、ウォーターゲート事件の流れと、ウッドワードたちの報道の現実政治およびジャーナリズムへの影響についての、簡にして要を得た解説である。依然として残されている謎についての言及もまさに解説の使命をきっちりと果たすものだ。
 
 
 「訳者あとがき」によると、最近ではアメリカでもコストのかかる調査報道は下火になってきているようである。

 とはいえ、ウッドワードの記者としての姿勢には日本のマスコミ関係者は学ぶところがとても多いのではないだろうか。

 と言いながらも、自分は、日本のマスコミには文字通りの“メディア(媒介)”の役割り以上は全く期待していない。そもそも、最近では、マスコミ自身も第四の権力として権力の監視を行うことを自分たちの使命だと考えていないきらいがあるが。

 そんな現状認識と諦念とをもって本書を読むと、ウッドワードのかっこよさにより一層惹かれてしまう。

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 原彬久 『吉田茂――尊皇の政治家(岩波新書、2005年)
 
 
 歴代の首相の中でも何かと取り上げられることの多い吉田茂の一生を追った本。副題に「尊皇」とあるけれどそこまで「尊皇」という点に絞って書いているわけではなく、吉田茂の公私に渡る全体像をエピソードなども交えながら初心者でも分かるように叙述している。高坂正尭『宰相吉田茂』などの吉田茂論と対話を試みることはあまり意識されていない(と思う)。

 本書が提示する吉田茂像が端的に示されているのは、おそらく以下の文であろう。

天皇に対する吉田の絶対的帰依は、戦前においても戦後においてもその表われ方に変わりはない。戦前戦中の軍国体制下にあって吉田が「英米派」として「三国同盟」に反対し、なおかつ軍部の独善的政治支配に反旗を翻したのは、何も民主主義のためではない。明治維新に再興した天皇体制を軍部の「反体制」的妄動から守るためであった。(p233)

 
 
 ところで、吉田茂というと戦後の首相としてのイメージや行動が有名である。しかし、吉田茂の政治信条がよく表われている出来事は戦前戦中の外交官時代にこそ見られる。特に興味深いのは、吉田茂が、戦中、対中国政策においては非常に帝国主義的で武断的であった一方で、大戦後半では日本が独伊側につくことや軍部の暴走、日米開戦に強硬に反対したことである。

 この点について本書では次のように説明されている。中国に対する帝国主義的政策は、1.中国に対する侮蔑感、2.秩序維持を重視する治安主義、3.豪胆な性格からくる自信過剰、の3つの理由によるとされる。一方、独伊側に与することに反対した理由としては、1.軍部はドイツを買いかぶりすぎ、2.枢軸側との協定は「防共」目的から軍事的なものに進展してしまう、3.独伊と英米を比較すれば英米が日本の将来にとって望ましい、という3つが挙げられている。

 以上をまとめると、結局、“親欧米イデオロギー”とでも呼べるものが吉田茂の行動の底流に流れていたのが見て取れる。
 
 
 歴史上の人物というものは過度に美化される傾向があるが、吉田茂といえども結局のところ、「非常に単純な人」(p231、曽根益の回想)であったのだろう。

 しかし、その単純さが豪傑さに結びつくとき、以下のような、いかにも政治家としての器の大きさを感じさせるような発言をさせることになる。

帰京した吉田が寺内(正毅・首相)に挨拶参上に及ぶと、寺内はいきなりこう切り出した。「吉田、俺の秘書官になれ」。寺内に「何かと可愛がっていただいた」吉田の応答がふるっている。「総理大臣は勤まると思いますが、総理大臣秘書官は勤まりません」。(中略)「『生意気な奴だ』と一喝されて、秘書官の職を棒に振ってしまった」のは、いうまでもない。(pp38-39)

 
 
 吉田茂にはいかにも“昔の政治家”らしい豪快さがある。

 だからといって、「吉田茂は大物だった。それに比べて今の政治家は・・・」という老人たちの嘆きには賛同できない。

 過去をいたずらに美化する(自民党の元老たち)のでもなく、過去を全く顧みない(政策新人類)のでもない、そんな政治家像を求めたいのだが・・・。

 古賀純一郎 『政治献金(岩波新書、2004年)
 
 
 政治献金について、現状の概観、歴史、贈る側の論理、受け取る側の論理、最近の手法、外国でのやり方、改革の方向性が、実例や数字を取り入れながら分かりやすく紹介されている。まさに好著。

 読んだ結論としては、結局、献金のほとんどを占める企業・団体による政治献金というのは、財界や企業が金で政策を買うための手段にすぎないということ。

 数年前から経団連は独自に政党の政策評価を行い、その評価と献金額を連動させる方法を導入した。これなどはまさに、献金を政治的な駆け引きの道具とする意図があからさまに表れた方法だと言える。にもかかわらず、経団連はいまだに政治献金を「政治寄付」と呼び、議会制民主主義の維持や企業の社会的責任(CSR)の観点から献金していると主張してはばからない。

 また、最近では経済界代表候補として政治家を擁立し始めている。自民党から参院議員に当選した近藤剛は有名である。しかし、彼は測らずも道路公団総裁になってその無能ぶりが明らかになってしまった。そもそも組織の中で出世してきた組織エリートが政治的なリーダーシップを発揮できるとは考えにくい。

 とはいえ、このように、財界が政治に影響力を行使しようとする動きが活発化していることは間違いない。そして、財政力という点では他のどんな個人も団体も寄せ付けない財界がその独占的フィールドで動くことの強さと怖さを認識しなければならない。

 しかし、だからといって、より閉鎖的な民主主義にしてしまう恐れのある、企業・団体による政治献金の禁止まで行う必要はないように思える。

 要は、財政力で圧倒的な企業・団体による献金なしには政党や政治家が政治活動を行えないような状態にさえしなければよいのである。ただ、“抜け道”的な政治献金である政治資金パーティーなしには基本的な政治活動(もちろんそれがどの程度かについては議論があるだろうが)を行うことさえ厳しい現状では、政治献金を贈ったり、パーティー券を買ったりする企業・団体が政治家の“政治生命線”を握っていることになる。これでは、政治家が財界や企業を向いて政治をするのもやむを得ない。

 無能な“小泉チルドレン”の大量発生を見て、テレビの無能なコメンテーターたちは、バカの一つ覚えのごとくみんなして「議員歳費が高すぎる」と叫んでいるが、彼らが言っていることは90年代初めの政治改革が目指した方向を押し戻そうとしているだけだ。

 ここは冷静に、事務所維持費やもう2~3人分の秘書給与など、現実を鑑みた上で、政治活動にかかる最低限の額は政党助成金などで国が支出するようにすべきだろう。もちろん、使途の公開は前提である。

 そうしない限り、金のあるもののみが政治家になれ、金があるもののみが政策に影響を及ぼせる現状が強化されるだけだ。
 
 
 さて、政治献金が結局は財界が政策を金で買うための道具にすぎないということの他に、この本を読んで気になったのが、今でも企業にとって「政治」が重要なのかということである。

 この本で紹介されている2002年の自民党に対する大口献金の数字を見ると、業界団体では、日本自動車工業会がトップで8040万円、次が日本鉄鋼連盟の8000万円、以下、東証取引参加者協会7425万円、日本電機工業会7000万円、石油連盟6000万円、不動産協会3300万円、全国信用金庫協会3000万円などと続く。また、企業別では、トヨタ6440万円、本田技研3100万円、新日本製鉄2500万円、東芝2324万円、日立2324万円、松下2324万円、前田建設2291万円などとなっている。

 石油のように政治的な環境が重要である業界や公共事業に密接に関係のある業界が献金するのは分かるが、自動車業界や電機業界が多いことには驚いた。経済摩擦が問題になっていた頃ならともかく、今でも自動車や電機といった産業は、(具体的どこで関わりがあるかは分からないが)政治と関係があるのだろう。でなければ、主張を通すための政治的道具である政治献金を一企業や一業界として行うとは考えにくい。(あるいは、財界の暗黙のルールで、企業業績に応じた献金額であるとするなら話は別だが。ちなみに、公的資金を投入した金融業界や外資は政治献金ができないから入っていない)
 
 
 しかしながら、日本の世論やマスコミの論調では、経団連をはじめとする経済界に対する信頼がかなり高いように見受けられる。どうも日本では(外国のことは知らないが)、ヒラの会社員も“企業”にアイデンティティを持つようで、その必然的な結果として、一ヒラ社員が“経営者”の立場でのみ物事を考えるようになる。しかしそうすると、安易なリストラや「働きすぎ」といった労働者にとって不利なことをも簡単に容認してしまうことになるのだ。

 そんなに、何でもかんでも、経済=市場=企業の論理で考える必要があるのだろうか。

 政治には政治の論理があり、労働者には労働者の論理がある。それを主張することは別に資本主義や会社の利潤追求を否定することにはならない。

 人権、再分配、福祉、余暇、子育て、教育など、あらゆる重要な価値は、経済=市場=企業の論理とは違う次元の、人間(として)の論理、市民(として)の論理、労働者(として)の論理、父親(として)の論理、女性(として)の論理といった、様々に存在する自己の立場や役割規定やアイデンティティや価値観から、ごくごく自然に発して良いもののはずである。しかも、一人の人間の中に様々な立場・アイデンティティがあるわけだから、衝突するあらゆる要求を調整することも、一人が一つだけの立場に固執する状態においてよりも、比較的容易に行える。
 
 
 そして、これを実現することは民主主義の深化にもつながるのではないかと思う。

 星浩 『自民党と戦後(講談社現代新書、2005年)
 
 
 帯によると「政治部記者の目で描く長期政権の成功と限界」とのこと。ポイントは、「政治部記者の目」というところ。つまり、真実でも、学問上の通説でも、統計上の数値でもなく、あくまで一人の人間による勝手な一解釈であるということ。

 内容は、最近の自民党の状況、自民党の歴史、自民党のスキャンダルの歴史、理念の対立軸など。ただ、そのレベルは“小中学生向けの自民党入門書”というくらいに簡単・簡潔なもの。ページ数も「資料」を除いて173ページと新書としてもかなりの短さ。

 とはいえ、「天の声にも変な声がある」(福田赳夫)、「日本を不沈空母にする」(中曽根康弘)、「山が動いた」(土井たか子)、「重大な決意」(海部俊樹)など、比較的知られていない名言を多用しているところは良かった。

 ただ、兎にも角にも、論理的思考力の欠如、不用意な断定、無根拠な推定に満ちていて、いかんともしがたい。

自民党本部が2005年2月に発表した2004年現在の党員数は140万8164人。前年比で12万6000人(8.2%)減った。7年連続の減少である。自民党の党員数は1991年に546万人を記録。その後、景気後退とともに減少基調が続いた。(中略)
 最大の原因は参院比例区の選挙制度の変更だ。1998年までは拘束名簿式で、党員や後援会員集めに応じて候補者の名簿掲載順位が決められた。そのために、業界単位の党員集めが熱を帯び、党全体の党員増につながったのである。それが、2001年以降は非拘束名簿方式となり、投票は政党名でも候補者名でも有効となった。その結果、各候補者は党員集めを競うのではなく、実際の得票を争うようになり、これが党員減少に直結したのである。(pp30-31)

 

森は2000年6月に衆院を解散。総選挙で森首相への風当たりは強かったが、それでも自民党は定数480のうち233議席を確保、公明党の31議席、保守党の7議席と合わせて、連立与党は過半数を維持した。
 森政権が存続した理由は、①小渕の死去への同情があった②野党が民主、自由、共産、社民と分裂して得票が拡散した③公明党が選挙区で自民党候補を全面支援した、などの理由があげられる。(pp100-101)

 
 
 しかし、「自民党の歴史」「スキャンダルの歴史」を読みながら、自分にとっての“自民党原体験”は消費税導入とリクルート事件だったなぁと懐かしく思い出していた。ただ、小泉政権以降、この種のダーティな“イメージ”(実際はどうであれ)は過去のものとなってしまった感がある。ついに、右対左の対決の時代が来たのだろうか。

 林博史 『BC級戦犯裁判(岩波新書、2005年)
 
 
 いわゆる「歴史認識」に大いに関連する対象を扱っているけれど、気持ち良くもなれないし、自尊心も満たされないし、他人を思いやれる“優しい”人にもなれない、そんな本。筆者に全く偏りがないとは言えないけれど、学者としての倫理観は持ち合わせていて、信用できる資料をもとに事実を示すことに主眼が置かれている。

 したがって、BC級戦犯裁判について、実際の裁判例もふんだんに取り入れながら概括した、この問題についてのよくまとまった分かりやすい入門書となっている。そんなわけで、初学者の自分にも具体的なイメージを喚起しながら読むことができた。

 一番の率直な感想は、自分の国が他国に迷惑をかけたそれほど遠くない歴史についてまだまだ知らないことがあり、それは日本が行った行為の問題ではあるのだが、同時に戦争一般が内包する問題でもある、というありきたりだと思われていること。自分の不勉強もあるが、他の多くの日本国民も知らないことは多いのではないかと改めて思う。分かっているのは「戦争してアジア諸国に攻め入った」という漠然とした事だけなのではないかという気さえする。あまりに浅薄な認識で謝罪しても、それでは意味をなさない。

 もちろん、BC級戦犯というものは基本的には被告個人の問題なわけだが、戦争遂行中の行為に対して果たしてそうと言い切れるかは、疑わしい。
 
 
 法務省の資料に依った本書のまとめによると、“通例の戦争犯罪”を裁く対日BC級戦犯裁判では、被害を受けた国である米・英・豪・蘭・仏・中・フィリピンなどにおいて、5700人が起訴され、死刑が最終確認されたのが934人、無期・有期刑が3419人となっている。ただ、全ての国を通しての戦犯裁判の最大の特徴は、政治環境が大きな影響を与えていること。影響に止まらず、ほとんど成り行きを決していると言ってもいいくらいだ。8ヵ国の戦犯裁判の特徴を要約した箇所を見るとその内実がよく分かる。長いが引用しておこう。

中国とフィリピンのように、本国が直接日本に侵略され、民衆が被害を受けた国の裁判では、もっぱら民衆への犯罪が裁かれたことは当然であろう。ただ中国の場合、裁判の内容においても、その終息においても、国共内戦が深刻な影響を与えていた。フィリピンは、中国に次いで日本軍による住民虐殺が頻発した地域であった。特に44年秋に米軍が再上陸し、抗日ゲリラの活動が活発になるなかで、そうした残虐行為が多発した。フィリピンは日本に対して厳しい姿勢で臨んだが、戦後賠償との関連で戦犯の早期釈放がおこなわれた。
 イギリス、オランダ、フランスという、東南アジアに植民地を持っていた西欧諸国の場合、本国と植民地の民族運動との関係が、戦犯裁判のあり方に大きな影響を与えた。比較的民族運動が弱く、また華僑の多かったマレー半島やシンガポールのようなイギリス植民地では、抗日運動が強く、そのため日本軍の民衆に対する残虐行為がひどかった。イギリスは植民地民衆の支持を獲得して植民地を再建するうえでも、そうした民衆の被害を積極的に取り上げて裁いた。
 宗主国フランスが民族運動を徹底して弾圧し、かつフランスと日本が共同で支配したインドシナでは、民衆は、日本だけでなくフランスにも強く反発した。フランスが日本と共同の加害者であったという事情もあり、フランスは植民地民衆への(日本軍による)残虐行為を裁こうとしなかった。
 (中略)
 フィリピンを除いて東アジアに植民地を持っていなかったアメリカは、もっぱら米兵捕虜に対する残虐行為を裁いた。植民地の民族運動に直面することなく、かつ冷戦の影響をあまり受けなかったオーストラリアは、共産主義よりも日本軍国主義の復活を警戒し、最後まで戦犯処罰を遂行した。(pp115-116)

 ・・・ひどいものだ。
 
 
 さて、戦犯裁判の他の問題点として「上官の命令問題」がある。この問題に関しては、第二次大戦中、連合国戦争犯罪委員会が「上官の命令にしたがって行動したという事実だけでは戦争犯罪を犯した者をその責任から免責しないという見解」を満場一致で承認している。しかし、実際の戦犯裁判では末端の実行者まで起訴されたケースは少なく、命令者あるいはその下位の指揮官レベルまでしか起訴しないことが多かった。ただ、

命令者といっても現場にいた者が裁かれる傾向はあり、上級の命令者、あるいは明確に命令していないにしてもそうした状況に追いやった上級者が裁かれない傾向があったことは否定できない。(中略)(このことが、)裁かれた者たちに不公平感を残したことは事実だろう。しかし命令に従った者には責任がないと言うならば、その論理を突き詰めていくと、(以下略)。(pp173-174)

 これまたひどいものだ。
 
 
 (政治環境という先述の点も含めて)このような戦犯裁判に関する不公正な事実から、戦争責任に関連してなされる、東京裁判=A級戦犯に対するのと同様の主張が可能になるだろう。すなわち、以下のようなものだ。

東京裁判がきわめて疑問の多い粗雑なものであったとすれば、こうした「戦争責任」を、日本国民自らが再点検してみるべきではないか。/戦勝国による政治的枠組みの中で規定された「戦犯」概念とは一定の距離を置いた見直しが、必要だろう。/それは、「A級戦犯」14人を合祀した靖国神社の論理とも一定の距離を置いた見直しでもあろう。(読売新聞2005年8月15日付朝刊・社説)

 以上をまとめると、BC級戦犯裁判は各国の政治環境に左右された不公正なものであって、しかも責任追及が現場の軍人に偏重していた。そこで、「戦争責任を日本国民自らが再点検」する必要が生まれる、ということになる。

 このとき、真っ先に議論の俎上に上るのが天皇であることに異論はないだろう。不勉強のため、ここで詳しくは論じられないが、憲法上・制度上、トップの地位を与えられ、実際に、政策決定の場にもいた人間に責任がないとは言えないのは間違いない。しかも、その責任が小さなものではないのも間違いない。これが「現在の日本国民」が論理的に考えたときに導かれる自然な結論だろう。

 ちなみに、参考までに、終戦当時、日本国自らが戦犯を裁くという試みがなされているとのことであるから紹介しておこう。それは俘虜関係調査中央委員会である。閣議によって設置が決定されたこの委員会は、調査を行い報告書をまとめている。その結果、8人を処罰した。例えば、フィリピンでのいわゆる「バターン死の行進」を指揮した本間雅晴陸軍中将は、礼遇停止という“行政処分”を受けている。しかし、これはとても連合国の容認できるものではなく、GHQは日本側の自主裁判を禁止した。(本書p47参照)
 
 
 最初にも書いたが、この本を読んで得た最大の収穫は、日本軍が他国で犯した戦争犯罪という具体的な行為の内容と、その後の不完全な処理をリアリティーをもって知ることができたことである。

 このような事実を知ったとき、終戦から60年経った今現在、戦犯裁判についてできることは2つのうちのどちらかであろう。すなわち、一つは、読売新聞が主張するように改めて一から再検証を試みること。そして、もう一つは、戦犯裁判が不公正なものであったという事実を認識しながらも、それをそのまま受け入れること。

 もちろん、感情論や正論では前者であろう。私個人も前者の立場に立って、改めて、天皇の戦争責任や、東郷や広田といったA級戦犯たちの刑罰の適切さや、岸信介や重光葵といった戦犯でありながら釈放後に何事もなかったかのように表舞台で活動した人たちの道義的責任、アメリカなどが行った戦争犯罪、等々について問い直したい気持ちはある。しかし、60年間も消極的にであれ追認してきた事実や、裁判が戦争後という非正常時だったことなどを考えると、戦犯裁判をそのまま受け入れるという後者の選択肢を選ばざるを得ないと思う。

 ただ、そのような選択をしたとしても、なお問われ続けることが可能な問題はある。それは、「戦争責任」ではなく、「戦争原因」についてだ。原因に主眼を置くことは、より自由で建設的な議論を可能にすると思われる。
 
 
 まだまだ歴史問題については勉強が足りないとはいえ、上で書いたことはそれなりに自信を持っている考えだ。ただ、自分の考えが旧来の自虐/自慰の二分法から判断されないことだけは最低限、願いたい。

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