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by ST25
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 宮島喬 『ヨーロッパ市民の誕生』 (岩波新書、2004年)


 日本人は移民や難民、多民族というものに対する想像力が貧困である。ただ、環境が環境であるだけにやむを得ないことであり、現実として受け入れるなら問題は小さい。しかし、そんな日本で、大して議論(マスコミで)も行われないまま、昨年、介護などの分野で外国人労働者を受け入れることが決まった。フィリピンとFTAを締結したからだ。これに賛成しているのは経済界と保守派だ。安い労働力を得たいからだ。

 しかし、果たして日本に外国人労働者を受け入れる体制や覚悟は整っているだろうか?

 このような問題意識をもっている人に、本書は役立つ内容になっている。


 ヨーロッパは様々な事情のために移民・難民・多民族というものに対する経験が豊富だ。まず第一に、ヨーロッパは複数の民族を含んだ国が多い。バスクやアイルランドはよく知られた例である。また、ヨーロッパは歴史上植民地を持っていた国が多く、各国は各々の植民地から移民を受け入れてきた。そして、ヨーロッパはEUに統合されつつあり、域内であれば国境を越えた移動も簡単に出来るようになっている。

 このように、ヨーロッパは複合的・多層的な理由のために民族や国家が相対化され、アイデンティティも複雑になっている。そうした中からヨーロッパ市民が誕生しつつあると筆者は考えている。しかしながら、筆者の主眼は、ヨーロッパ市民の誕生を望ましいものとして歓迎することよりもむしろ、その中に存在している困難な問題とそれへの取り組みを直視することにある。

 例えば、言語の違う複数の民族が共に生活することは相当な困難が伴う。特に子供への学校教育をどちらの言語で行うかという判断は、あまりに政治的な問題になってしまう。片方の民族の固有の言語を地球上から消滅させることになるからだ。このような問題を抱えた自治体は様々なアイディアを出し、熟慮の末に政策を実施している。日本語がほぼ問題なく基本になる日本とは事情が異なる。

 他方で、近年、ヨーロッパにおいて極右政党が勢力を伸張していること、移民排斥の暴力が頻発していたことはよく知られている。その背景とそこに至る政治上の経緯を知っておくことも日本人にとって有益だ。


 本書を読んだのとちょうど同時期(昨年末)に雑誌『NPOジャーナル』(vol.8)が「多文化社会ニッポン」という特集を組んだ。そこには、すでに多文化化しつつある日本の姿が描かれている。分かり易い例を挙げれば、日本人の国際結婚の割合は20人に1人にまでなっているとのことだ。ヨーロッパほどの困難さはないが、多くの人の気づかぬ間に新しい現実が進行していることは間違いない。思えば、日本で外国人労働者が多い地域というのは大工場のある地域(浜松、群馬など)などに限定されている。それ以外の地域には全くリアリティーのない話だ。


 本書と『NPOジャーナル』からすると、外国人(あるいは他民族の人)をより本国人(=マジョリティー)と同等に包摂(同化ではない)すればするほど、マイノリティーの犯罪や問題は軽減され、共生が可能になるということが共通の教訓として引き出せるようだ。

 FTAを結んで外国人労働者を法的に受け入れてみたら、「労働者を呼んだつもりだったが、やって来たのはまさに人間だった」(p14)ということのないようにしたい。

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 ジョゼフ・S・ナイ 『ソフト・パワー』 (山岡洋一訳、日本経済新聞社、2004年)

 最近の国際政治では、主権国家の力を重視するリアリズムのみが国際政治を見る唯一の視角になったかのような感さえある。思えば、平時において理想主義的な思想がはやり、戦時において現実主義的な見方がはやるのは、歴史が教えるところである。しかし、結局どちらか一方のみが普遍的で正しいことはないというのも、また歴史の教訓である。それならば、パワー・ポリティクスのみに視線が集まり、時としてそれのみが真理だと思われがちな現代において、それとは異なる点に注意を払っておくこともまた必要なことである。

 本書は、ハーバード大学教授であり、クリントン政権時代に国防次官補を務め、リアリズムの観点も持ち合わせた代表的リベラリストである著者が、(国際関係論における)リベラリズムの立場から最近のアメリカの行動に懸念を抱きつつ、著者が生み出した概念であるソフト・パワーについて詳細に論じたものである。


 ソフト・パワーという言葉は、「非軍事的なパワー」というような使用法も散見されるが、この概念の提唱者である著者・ナイの定義では、ソフト・パワーとは「強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力」、あるいはより具体的に言えば、「自国が望む結果を他国も望むようにする力であり、他国を無理やり従わせるのではなく、味方につける力」のことである。具体例としては、人権や文化や政治制度などが挙げられている。また、著者は国際関係を、軍事・経済・トランスナショナルの三次元のゲームとして捉え、それぞれを(アメリカ)一極支配・(アメリカ,EU,日本,中国等の)多極構造・力の分散と分析している。そして、これらの枠組みを踏まえた上で多くの実例を挙げながらソフト・パワーの重要性を説き、アメリカはハード・パワーとソフト・パワーのバランスを改善してスマート・パワーを目指すべきだと主張する。

 パワー(力、権力)という概念については今まで様々な考察がなされている。ウェーバー、ダール、バラッツ=バクラック等々。ナイのソフト・パワーもこれらに連なる一つの視点を提供するものであるのだろう。しかし、ソフト・パワー-ハード・パワーという類型が妥当であり有意義だとは確信ができない。疑問なのは、ソフト・パワーの概念では力の効果が(力を及ばされる)相手側の“選択”に完全に依存している場合があることである。このような場合に、(力を及ぼす)自分側に(ソフト)パワーがあると言い得るだろうか。そもそもパワーとは力を及ぼす相手側との関係性を前提にして成り立っている。つまり、力を行使する自分側のパワーの存在・行使の“結果”として、相手側に何らかの変化をもたらすことができた場合に初めて、パワーが存在していたと言い得るのである。そうは言ってもしかし、ソフト・パワーは魅力によって相手側を動かしている、あるいは相手側の選択を導いている、とも確かに言える。どっちとも間違ってはなさそうに思える・・・

 概念上の問題は措いておいて、著者も述べているように、ソフト・パワーはハード・パワーほどには政府が管理できるものではない。それでも、政府が影響を及ぼせるものとして広報外交や国際公共財の提供等が挙げられている。だが結局、日本のアニメのように他国の人を惹き付けるかどうかは偶然的な要素が大きい。

 また、ソフト・パワーとハード・パワーの違いは簡単に言えば、パワーによって動かされる側の心理的な態度の違いということになるのではなかろうか。つまり、好意的に積極的に動くのと、消極的にやむを得ず動くのとの違いである。これらは結局のところ、他国の人たちから嫌われずに、好かれろというだけのことではないだろうか。

 視点自体は正しいと思うが、ソフト・パワーという概念や言葉については、理論的な不完全さが解消されるまで留保を付けざるを得ない。

 横江公美著『第五の権力 アメリカのシンクタンク』(文春新書、2004年)を読んだ。この本は、アメリカ政治の政策や人材に大きな影響を与えているシンクタンクの活動、仕組み、ビジネス、歴史、さらには、6大有力シンクタンクの紹介が書かれている。日本には、アメリカの定義(非営利でなければならない等)でいうところのシンクタンクはほとんど存在しておらず、ましてや実際の政治に影響を与えることは皆無といっていい。したがって、日本政治を見ているだけでは想像できないアメリカ政治の一側面を知ることができる。

 この本を読んでまず感心するのは、日本政治の泥臭いイメージとは対照的なアメリカ政治の有する知的雰囲気である。日本で、「政治家」や「評論家」や「大学教授」がテレビや新聞や論壇雑誌で行う、感情の吐露や、論理というルールさえもない発話など、議論や分析とも呼べないようなものばかりを見せられている者からすると羨ましく感じざるを得ない。しかしながら、それにもかかわらず、アメリカで対イラク政策のように問題の多い政策が出てくるのは、これまたアメリカに特徴的なロビイストや利益団体の影響が大いに関係あるだろう。また、このエリートたちの閉鎖的なコミュニティのために、逆に、弱者に厳しい政策が出てくることにもなるのだろう。さらに、現在のアメリカでは保守系のシンクタンクが強いのも、このことと関係がありそうだ。(この流れに抗してリベラルなシンクタンクを強化しようとしているのはヘッジファンドで悪名高いジョージ・ソロスである!)
 
 さて次に、「アメリカでは生涯同じ職業のままではない」という日本で知れ渡っている俗説は、この知的コミュニティにおいては現実のようだ。例えば、大学教授→シンクタンク研究員・理事→政権ポスト→大企業役員のように。したがってここでは、個人のスキルが重要になるため、「ワシントンで石を投げればダブル博士(二つの博士号をもつ人)にあたる」というようになるのだろう。さすがに、エリートと呼ばれるような人においてさえ能力主義が採用されていない日本の方が異常だ。

 最後に、この本で気になったのが、カバーに掲載されている著者の顔写真である。少なくともこの種の本の著者としては綺麗な顔立ちである。しかし、著者は39歳。どう見ても写真は20代(せいぜい30代前半)にしか見えない。さすがにこれは公序良俗に反するものだ。しかし、これもアメリカ政治の広告戦略に精通する著者の戦略なのだろうか・・・

 中曽根 康弘著『日本の総理学』(PHP新書)を読んだ。同書は、著者の政治家、首相としての歴史を辿りながら、現代の日本社会を診断し、その病理の解決への処方箋を提示するという内容である。著者が、戦後日本の歴代首相の中で目立った多くの業績を残していることは否定できない。その信念や行動力や成果を生み出す源は一体どこにあるのか?このことに昔から興味があり、今回この本を手にとって見た。

 この本で著者は自らの主張や哲学を堂々と余すところなく開陳している。そのため、その思考メカニズムの特質が見えてきたように思える。その中のいくつかを同書中の具体的な根拠を挙げながら記述していこう。
 
 ①「市民」という概念について、著者は「市民というのは、元来、フランス革命で絶対王政を倒した有産者階級を指す言葉」(p154)と述べているが、市民の概念は、確かにヘーゲル哲学やマルクス主義の文脈でブルジョアの意味で使われることもあるが、現代的には政府でも企業でもないパブリックの担い手のことを市民と呼ぶことが学問(特に政治学)の世界では一般的である。つまり、著者は学問的な新しい知識をフォローしてはいなかったようである。
 ②著者は一方では、愛国心とは、国、自然、固有の文化に対する愛着を保守しようという純粋かつ自然な感情の発露だと述べている。(p57)しかし他方、教育基本法に「公」という概念が抜け落ちていては「国を愛する心」など育ちようがないと発言している。(p69)愛国心は自然な感情なのか、教えないと育たないものなのか、論理的一貫性がない。
 ③著者の心を許した仲間である読売新聞の渡邊恒雄が、総裁選のときに田中角栄邸まで乗り込んで「ぜひ中曽根を」と頭を下げて頼んでくれたエピソードが語られている。(p38)しかし、小泉首相とマスコミの関係を述べる文脈で「政治とジャーナリズムが~一種の持たれ合いの関係になっている」(p56)とも述べている。自分はいいけど他人は駄目というのは独善的である。
 ④最後は、言葉を失う主張を見てみよう。学制改革について「小学校は人間生活の基本の型、~読み、書き、そろばんを教える。中学校は個人と社会や世界の関係を、高校生には志を、大学生には使命感を与えることが緊切だと思います」(p140)と。「大学生に使命感を」とは大学の勉強をしたことがあるのか疑いたくなるような時代錯誤なお話である。
 他の問題点としては、日本文化を強調するのだがその内容が恣意的ではっきりしないことや、自分の主張や感情は国民皆も考えることだと思い込んでいること(特殊と普遍・多数の混同)などである。

 以上のことから、著者が首相として業績をなした理由は、少なくとも、学問的な裏づけがあったからでも、論理的思考能力に優れていたからでも、冷静で客観的な判断能力があったからでも、どれでもなさそうである。逆に、これらではないがゆえに、大雑把であるため、大局的な視点でものごとを見れたことと、簡単に自己の主張を信じ込むことができたこと、これらが業績の要因ではないかという結論に至った。

 日本にこんな本、あるいは、こんなジャーナリストは存在しないのではないか。

 先日ボブ・ウッドワード著『攻撃計画』(伏見威蕃訳、日本経済新聞社)を読んだ。同書はイラク戦争開戦までの16ヵ月間のアメリカ・ブッシュ政権の戦争準備、外交、秘密工作といった内幕についての生々しいドキュメントである。大統領や閣僚へのインタビュー、国家安全保障会議の議論、CIAのイラクでの秘密工作など、重要だが知ることが困難な内容も含まれており、100%真実ではないとしても、かなりの程度信憑性が高いと思わせるほど細部に渡って記述がなされている。興味を惹かれる点の一つ一つが重要かつ奥深いために、それぞれを詳細に論じていくと膨大な量になってしまうので、以下ではいくつかの点について箇条書き的に簡単に触れていこうと思う。

 まず、情報や知識としておもしろいものを挙げておこう。1つ目は「悪の枢軸」発言が誕生した経緯についてである。そこでは、「悪の枢軸」として挙げられた3ヵ国のうちイランと北朝鮮は言葉に合わせて追加的に加えられたものであることが語られている。(p115~)そして、日本では中立的な機関として捉えられることが多い国連監視検証査察委員会のブリックス委員長について、戦争に否定的な思想を持っており査察の情報を全て報告していないということが述べられている。(p310)さらに、CIAが9.11を防げなかったことの影響でイラクの脅威について過剰に報告していたことも指摘されている。(p569)これらの、情報的な事実は過去を評価したり、未来を構想したりする際に相当大きく寄与するものである。

 次に、同書について一つ不満な点を述べておく。それは、ブッシュ大統領のイラク攻撃(あるいはフセイン打倒)を実行するという選好(信念)が既にあるものとして前提とされた上で話が始まっている点である。なぜ「イラク」を攻撃するのかという問いは最も重要なものだが、同書でも依然明確になっていない。もちろん、攻撃の(表向きの)決断へと至る中で(※つまり公的に攻撃を公表する以前から攻撃をする意志がブッシュには存在していた。このことは同書からも読み取れる。)、アメリカの自由を広める責任や、テロを防止することの不可能性のために先制攻撃が必要であることや、中東の安定などは出てくるのだが当初から一貫した論理は存在していない。

 そして最後に、日本に関連するいくつかのことを述べておきたい。まずは閣僚の能力の違いである。同書では国家安全保障会議の様子も描かれているが、その中でラムズフェルド国防長官とパウエル国務長官の白熱する質のある議論(感情のぶつけあいではない)が行われている。また、ラムズフェルドの国防総省の改革も、知識と指針があってこそのものだと思わずにはいられない。ここにアメリカの強さの、したがって日本の弱さの、源泉の一つを見ることができる。それから、アメリカ以外の国と日本との比較も考えさせられるものである。すなわち、その求めに応じてブッシュが国連決議を得ることを決断することになったイギリスのブレア首相や、「この口髭が、いつも大統領のそばにおります」(p522)という粋な発言をしたスペインのアスナール首相や、オーストラリアのハワード首相といった人物は度々登場し、ブレアに至っては実質的な影響力さえ持っているのである。それに比べて、この580ページに及ぶ大部の中で「小泉純一郎」の名が出てくるのはわずか1箇所(※ブレア23箇所以上、アスナール11箇所以上、ハワード7箇所。本書索引より)で、しかもその内容は訪日の際にブッシュが小泉首相に、1945年の日本へのアメリカの手助けが日本の繁栄を助けたという経験をイラクにも適用させることを語ったというものである。(p542)(つまり小泉首相の発言ではない!)ちなみに、「日本」の国名が出てくる6箇所もほとんど全てが第二次大戦の文脈で歴史的教訓としてであり、現代の日本は登場しない。もちろん、これらは著者の偏向によるものとも考えられないことはないが、イラク戦争までの日本の果たした役割や、国際社会での日本のレーゾンデートルについての1つの認識や事実を示すものであることは否定できない。国連決議についてアメリカに働きかけているという川口外相の国会(委員会)での答弁が虚しく思い出される。

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