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by ST25
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 四方田犬彦 『先生とわたし(新潮社、2007年)
 
 
 ネットの一部で評判になっている本。

伝説の知性・由良君美との出会いから別れまでを十数年の時を経て思索、検証する、恩師への思い溢れる長篇評論。 (帯より)
 
かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、(中略) ゼミの後で由良君美の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、ノスタルジアを超えて、かかる共同体の再構築のために腐心しなければらない (p233)

 
 
 とはいえ、非常にノスタルジックな語り口で語られていて、「古きよき時代の」と言ったときに想い起こされる、大学の(人文系の)教養主義的な雰囲気を全篇において醸し出している。

 それだけに、逆に、そういった教養主義的なものの“現代における不可能性”ばかりが意識される。
 
 
 そういった圧倒的知性というものは、これからはあくまで偶然的産物として受け止めるべきなのか、それとも、学問の魅力を伝えるのに欠かせない存在として積極的に作っていこうとすべきものなのか?

 教養と一口に言っても、この本で出てくるのは人文系の教養だけだけど、そもそも人文系の教養と社会科学系の教養は分けられるものなのか、密接不可分なものなのか?

 現代における教養とは、具体的には何を含んで何を含まないものなのか?
 
 
 等々、現実的に考え始めると難問は尽きないけど、とにもかくにも、読み物としては味があっておもしろかった。

 大学にもこういう世界がかつてあった(そして一部にはおそらく今もある)ということを知るために、高校生とか人文系の大学1年生が読むと良いのではないかと思う。

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 北岡伸一 『国連の政治力学(中公新書、2007年)
 
 
 2004年4月から2006年9月まで、日本政府国連代表部次席代表を務めた日本政治史を専門とする東大教授が、実体験を交えながら国連の活動を説明している本。

 国際政治における(主に軍事)力の反映とだけ考えていては見誤る国連の実態をヴィヴィッドに語っていて、おもしろくて有益。

 国連の仕組みや実際の活動から、大使の日常、日本の役割・活動、世界レベルの国際政治のダイナミズム、国際政治のリアリズム的な現実まで、あらゆることを知ることができる。

 そんな中でも特に印象づけられるのは、一国一票が原則である国連の、単純なパワーポリティクスではない、外交的な性質。

 大使同士のつながりがものを言ったり、小国からいかに支持を取りつけるかが重要だったり、対立を乗り越えるアイディアを出せるかが重要だったり、会議の場に誰を出すかが重要だったり、演説の順番が重要だったり、アフリカ連合がかなりの影響力を行使していたり。

 こういう場であればこそ、露骨な軍事競争ではない理念的な国際社会を目指す日本が、実質的な最重要意思決定機関である安保理の会議の場に常にいることも重要だと思わされる。

 それから、外交的であることとも関係するけれど、世界各国が参加する国連の普遍性という性質も印象的。

 つまり、二国間であればあり得るような強引な理由による難癖も、それを国連の場で主張することは世界中の国によって白い目で見られてしまうことを意味する。( 著者は、中国が国連の場で60年前の戦争責任等のことで日本を非難・警戒することの奇異さを強調している。それだけに、逆に、「中国の日本批判に答える」としてかなり細かいところまで踏み込んで中国の主張に反論している部分は違和感を覚える。 )

 そんな国連の場の性格を反映した、著者による安保理常任理事国および日本の性格の評価はこんな感じ。

論点を整理し、アイディアを出し、議論を取りまとめていく能力は、イギリスが断然優れている。フランスもシャープな論点を提示して、これに次ぐ。アメリカは、外交という点ではやや直截で洗練を欠くが、ともかくパワフルなので、これも格別だろう。それ以外では、ロシアが活躍する。冷戦時代アメリカと天下を二分しただけあって、安保理の議事規則や先例にやたら詳しく、存在感がある。案件によっては、日本とも結構親しい。ただ、国際社会が紛争解決に乗り出すのに対し、内政不干渉の原則を唱えて、ブレーキをかける方向で動くことが多い。中国も基本的に同じラインだが、もう少し静かである。自国の利害と直接関係のない案件では、あまり発言しない。しかし、中国がこれから発言力を伸ばしてくることは間違いない。
 (中略)
 日本は、いつもやや控えめである。しかし、その発言はいつも安定しており、間違いがないことで知られている。 (pp261-262)

 
 
 もちろん、国連といえども、主権国家の集まりであって、軍事的・リアリズム的・自国中心主義的な側面が重要なのは言うまでもない。

 けれど、この本を読むと、「それだけではない」側面が、国際政治や外交の議論において過小評価されていることを改めて実感する。

 この本によって、日本の安保理加盟問題や国連の存在意義の議論などが、今まで以上に具体的なイメージをもって行うことが可能になった。

 著者も本書のどこかで書いていたけれど、とりあえず、総合雑誌や新聞などで見られる、国連の実態を知らないだけの地に足のついていない議論が今後なくなっていけばいいなぁと思う。

 山崎正和 『混沌からの表現(ちくま学芸文庫、2007年)
 
 
 1977年に出版された文化論・文明論に関する中短編を集めた本の文庫化。

 著者が中央教育審議会(中教審)の会長になったとはいえ、30年経って中短編集を文庫化した理由はよく分からない。

 けれど、著者の物事の普遍・本質を見通す力のためか日本人が学習してこなかったためか、どの文章も今でも十分に通用する。むしろ、今の問題とのシンクロ率が高いあまり感動を覚えることもしばしばなほど。

 山崎正和は、一時期ものすごくはまって色々と読み漁った。最近は新聞での論評などを単発で読む機会がある程度で、まとめて読むのは久しぶりだった。それで、改めて、一つ一つの視点が味わい深くておもしろいことを実感した。( ただ、外交論は冷戦時代のままの思考であって読む価値はほとんどない。この本には収録されてないけど。)
 
 
 そんな山崎正和の視点やスタンスを端的に表しているのが、 人間が知り、人間が作るもののすべてを含んで、それを「文明」とか「文化」とか呼ぶことが、かつては疑いなく可能であった。(中略)〔だが、知識が専門化して、〕人間が細分化され、人間性が失われていくのと並行して、他方ではそれを快復すると称して、空疎な政治スローガンがわれわれを偽の常識に誘惑する。 (pp124-125)という問題意識が述べられた後に出てくる次の文章。

 どのような暗黙のリズムが、われわれの毎日の生活を静かに統一しているか。どのような現象が、今日そのリズムを醜くかき乱しているか。それを「批評」というかたちで、わざわざ言葉にあらわさねばならない現代は不幸な時代である。「文明批評」などという奇妙な仕事は、それ自体、文明が病んでいるということの証拠としてあるのかもしれない。けれども、まさにそのような時代であればこそ、現代の文明批評には新しい任務が生まれたともいえる。もちろん、それは専門的な知識を使って問題を指摘したり、新しい統一的な世界像を性急に描いて見せることではない。むしろ、必要なことはその正反対であって、身辺のあらゆる些事について、共通の感覚をことばによって快復させる仕事である。本来ならばあらためていう必要もなく、いえばかえって嘘になるような生活の了解を、ひとつひとつ忘却の淵からひろい出して来る仕事である。いいかえれば、現代の生活のスタイルを、それなりに言葉によって再確認する作業である (pp127-128)

 この認識自体も一つの例だけど、この本にはそんな“文明批評”の実践例がたくさん収録されている。

 それらを読むと、文化とか慣習・道徳とかが持っている思いもかけない奥深さや複雑さやおもしろさの存在を知ることができる。

 ( ※このことを踏まえると、日本文化や日本人の慣習・道徳をあたかも教科書がある一つの科目のように学校で教えようとする安倍首相や教育再生会議の考えが、いかに無知で浅はかなもので、逆に、むしろ日本文化を貶めるものだということを嘆かずにはいられない。 ちなみに、自分は、近代主義者とはいえ、社会現象の文化論的説明や道徳的説教や道徳的議論や文化の政治利用などが嫌いなのであって、日本文化論とか日本文化それ自体とかは嫌いではない。 )

 「人生を楽しむ」というと、何でもかんでもすぐにポジティブに考えて済ますことだという、あまりに表面的で浅薄な人生観が圧倒的多数を占める世の中にあって、同じ前向きであっても、ありのままの物事に存在する奥深さを味わうという(今となっては懐かしい感のある、教養的な)いき方を提示しているこの本は、現代人の生に対して根源的な革新を迫るくらいのパワーを静かにたたえているのだ。

 劇団、本谷有希子・第12回公演 『 ファイナルファンタジックスーパーノーフラット 』 ( 作・演出:本谷有希子/出演:高橋一生、笠木泉、すほうれいこ、ほか/2007年6月4日~24日/@吉祥寺シアター )
 
 
 27歳にして各種演劇賞・文学賞を賑わしている演劇界の期待の星・本谷有希子が作った芝居。

 ※推理小説でもないんだから、観る前に何かを知るのが嫌な人は、こんなこと書かなくても読まないはずだと考えるのは至極真っ当だと思うのであります。

 
 
 裏切られて傷つくことを極度に恐れるため、リアルな世界の女性を毛嫌いし、二次元や自分の空想の世界の女性しか愛せない(いわば)オタク。 そのオタクに幻想を抱かせるだけ抱かせた後に真実を告げて裏切ってしまった女性( 幻想時:ユク、現在:縞子)。 縞子は、今も愛するそのオタクのために、現実の生身の女性で理想的なユクを作り出そうと頑張る。4人の自殺志願者は、ユクという自由のない役割を与えられることで生きがいを見つける。けれど、オタクは相変わらず自分が夢想した理想的だったときのユクのことを想い続ける。そんな6人が、オタクが所有する休業中の遊園地で暮らしている。だけど、そんな理想・妄想の世界なんてそもそも生身の人間たちにとっては存在不可能なものであり、色々と現実世界的(生身の人間的)なボロが出たり、現実世界からの雑音が入ったりして来ざるを得ない。そうして、理想的・妄想的な世界は結局崩壊する。

 というお話。

 まとめれば、思い通りにいかない現実世界や生身の人間に対峙するのが辛いからといって、そこから逃げて行き着く虚構の世界も結局存在不可能であり危うい、となる。

 さらに短くして一言で言えば、虚構(の危うさ)と現実(の辛さ・強さ)についての話、となる。

 オタクという極端で分かりやすい人種を用いてはいるけど、社会がある限り、いつの時代でも誰にでもどういう人間関係にでも(程度の違いはあれど)ある話である。

 そして、日本でそんな人たちの代表として批判される(主にアニメやアイドルの)オタクたちも、そんなことは重々自覚していることであろう。

 それだけに・・・、だから何!?、と。
 
 
 一歩踏み込んでダメだったところを2つ言う。

 その1。題材や現実の有意なデフォルメがほとんどなく、現実をそのまま舞台上に持ってきただけのようなものになっている。

 その2。しかも、その「現実」(現実認識)というのが、テレビとか新聞とかで見るような、あまりにもベタで浅はかな通俗的なイメージどおりのものであって、踏み込んだ認識だとか、独自の洞察だとかいったものが加えられていない。

 これでは(全体として)おもしろくなりようがない。せめて上の2つのうちの1つでも行っていてくれれば多少は楽しめたんだろうけど。( ちなみに、個別のシーンとか台詞とかでもおもしろいところ、笑えるところはそんなにない。)

 ただ、さすがにある程度の評価を受ける人だけあって、個々の台詞とか話の動き方とかは不自然な印象を受けるものが少なく、自然でスムーズだった。( これが特筆に価する状況というのは悲しいけど。これだけしか褒めるところがないのも悲しいけど。劇場は良かったけど芝居の内容とは関係がない。)
 
 
 そんなわけで、本谷有希子の小説1冊と芝居1本に触れてみたわけだけど、どっちもおもしろくなかったし、秀でたセンスも特に感じなかった。

 今回の舞台に関してそこそこまともな感想を書いているブロガーの多くが、『遭難、』( 戯曲が出版されている。)は賞賛してたから、この作品は実際おもしろいのかもしれない。

 だけど、傑作が1つだけというのはなんとも怪しい。というのが、現時点での評価。

 鷲田小彌太 『夕張問題(祥伝社新書、2007年)
 
 
 財政破綻した夕張市の現状・歴史・これからについて、同じ北海道の田舎に住む著者が、優しさと冷酷さを交えて簡単に分析・展望した本。

 主な主張はこんなところ。

・批判の多い再建計画は、前年度と比べると驚くような数字が並んでいるけど、あくまで同規模の自治体の平均的なレベルに落とすにすぎない。

・炭鉱がなくなった後、市が主導して観光事業を行ったことが、問題を深刻化するとともに、市民の行政への寄生意識を生んだ。

・行政に頼らずに自力で作り上げた夕張メロンの品質やブランド力はすごい。

・現に暮らしている人たちが快適に生活できるという観点から、農業と高齢者の就業を重視した共同体を作るべき。
 
 
 詳細な分析とか緻密な将来の再建案とかは出てこないけど、テレビなどで歪められた夕張問題および夕張市の全体像やイメージを把握するには手軽でいい。
 
 
 
 ところで、夕張の問題は民主主義的・政治制度的にも重大な問題を提起しているように思える。

 夕張の問題は、住民の側からすれば、今となってみると、問題がこんなに深刻になって財政破綻に至ってしまう前に、色々と手を講じさせ(てみ)るべきであった、ということになるだろう。

 そして、それは本来、選挙(や選挙の存在からくる圧力)を通じて、行政の長たる市長や行政の監視役たる市議会議員に伝えられるべきであった。

 しかし、それは、無風選挙のためか、議会のオール与党体制( 田舎だと全員自民党で野党が存在しなかったりする )のためか、実際のところは分からないけれど、( 政治学者が考えるのとは違って)機能しなかった。

 この地方自治体における選挙という民主的な制度の(実質的な)機能不全はけっこうどこでもあり得ることではないだろうか? ( 首長にとっての野党が強すぎると長野県議会みたいなgridlock状態になりかねないというのもある。)

 しかしながら、不利益を被る可能性がある当の市民はといえば、夕張市の説明集会やインタビューで“お客様意識”丸出しの発言をしている市民がしばしば出てくることに典型的なように、主権者(特に自治体の)としての意識が薄い人が多いと言わざるを得ない。

 けれど、夕張の問題で考えれば、現実問題として、普段から一般市民が市の財政状態をチェックすることは、技術的・能力的にも、( どっかの誰かがやれば済むことはあえて自分がやろうとは思わないという )集合行為問題の存在からしても、難しい。

 選挙という有権者と執政者との相互作用の機能不全、有権者の希薄な当事者意識、市民が市の財政をチェックすることの現実的な困難さ、という3つの現状から考えるに、市民は、( 今回の夕張市のように急に財政再建団体になることを避けるために、)事前に“予防的な制度”を作っておく必要があるのではないだろうか? (この3つの条件が揃うのは主に地方部だろう。)

 すなわち、「予防的な制度」とは、財政問題で考えるなら、例えば、財政状態が事前に決められたある一定のボーダーライン以上に悪化した場合に、市長や議会が速やかにその事実を市民に( アリバイ的にならないように新聞広告を使うなどして )伝えることを定めた条例である。

 細かいこととしては、ボーダーラインは複数の段階の設定が可能だろうし、その段階に応じて市民への通知手段を変えることもできるだろう。また、実効力を持たせるために、それを行わなかった場合の責任者(市長)や関係者への処罰を設けることも必要だろう。

 このような制度があれば、普段は平穏に暮らしながら、いざという時は、問題の状況とその深刻度を回復不能に至る以前に簡単に知ることができる。

 ここで挙げたのはあくまで一例にすぎない。

 地方自治体は、国政と違ってマスコミによる監視が行き届かないだけに、市民の側が自己防衛として、重要な問題に対して、いわゆる「火災報知機」を公的な制度として仕掛けておくことは執政者(政治家・役人)へのコントロール手段として有効である。( 「火災報知機」は直接作動しなくてもその存在が執政者たちへのプレッシャーになる。 )

 急に財政破綻を知らされ、急に行政サービスの削減と自己負担の増加を迫られないために、健全な財政を保持するという経済的な努力以外にも、政治制度的にできることもあると思うのである。

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